本文より~
転校回数、11回。
山口県で生まれ、佐賀県で育った。「転校が日常だった」と今回、ご登場いただく浅井氏は語る。転校回数はなんと11回。「父が航空自衛隊のパイロットだったんです。父の転勤に合わせて、私たち子どもも一緒に転校です。おかげで、物おじせず、誰とでもすぐに打ち解け合えるようになったんだと思います(笑)」。ちなみに、長女は30回という記録を持っているそうだ。
とにかく転勤が多い。そんな父を浅井氏はどういう風に見詰めていたんだろう。「父親のことは尊敬していましたが、私は父親のようになりたくないと思っていました。会社勤めというより、小さな頃から独立して商売をしようと思っていたんです」。
とにかく転勤が多い。そんな父を浅井氏はどういう風に見詰めていたんだろう。「父親のことは尊敬していましたが、私は父親のようになりたくないと思っていました。会社勤めというより、小さな頃から独立して商売をしようと思っていたんです」。
中央大学進学。
浅井氏は、二年浪人して中央大学に進学する。大学時代はアルバイトと麻雀に明け暮れた。それでもなんとか4年で卒業することができた。案外、要領が良かったのだろう。
「学校に行くのは、試験の時だけ。頭のいい奴をみつけて、『わりぃ』って言って答案を見せてもらいました。卒業できたのは彼らのおかげです(笑)。ただ、貿易には関心があって、その勉強だけはしていました」。
「実は、大学進学もいったん断念しようと思っていた時期があったんです。進学はやめてカナダに行こうと。『カナダで農業体験』という国のプログラムに参加して。でも、両親の反対もあって、結局、断念しました。そのことからも分かるように、元々海外志向が強かったんです。就職も、海外を意識し、貿易会社1本に絞りました」。
「学校に行くのは、試験の時だけ。頭のいい奴をみつけて、『わりぃ』って言って答案を見せてもらいました。卒業できたのは彼らのおかげです(笑)。ただ、貿易には関心があって、その勉強だけはしていました」。
「実は、大学進学もいったん断念しようと思っていた時期があったんです。進学はやめてカナダに行こうと。『カナダで農業体験』という国のプログラムに参加して。でも、両親の反対もあって、結局、断念しました。そのことからも分かるように、元々海外志向が強かったんです。就職も、海外を意識し、貿易会社1本に絞りました」。
就職試験、軽々合格のはずが。
「合格間違いなしと人事の担当者から太鼓判を押されていた」という。就職試験の話である。そう言われていたものの、いくら待ってもなしのつぶて。思い切ってこちらから連絡すると、「う~ん、申し訳ない」との返事が返ってきた。担当の甘い言葉もあったのだろう。元々、これだと思えば、ほかに目を向けないタイプだったのかもしれない。しかし、絞っていた1本の糸が、切れた。
「あわてて、学生時代にアルバイトをしていた時の先輩に紹介してもらって、あるメーカー系商社に就職します。それが、私の社会人、第一歩です。この会社では、いろんなことを勉強させてもらいました。部署も転々とし、最終的には営業もやりました」。その会社で奥さまと知り合い、結婚。通常なら、退職という選択肢はないはずだが、浅井氏は4年で退職してしまう。
「あわてて、学生時代にアルバイトをしていた時の先輩に紹介してもらって、あるメーカー系商社に就職します。それが、私の社会人、第一歩です。この会社では、いろんなことを勉強させてもらいました。部署も転々とし、最終的には営業もやりました」。その会社で奥さまと知り合い、結婚。通常なら、退職という選択肢はないはずだが、浅井氏は4年で退職してしまう。
佐川急便。荷物を持って、走る、走る。
「退職したのはいいんだけど、子どもも生まれることになって。とにかく職がないし、お金もない。それでなんとか出産の費用くらいはと思って、佐川急便です(笑)」。
「月50万円」。それが当時の佐川急便のキャチフレーズだった。朝から晩まで勤務して、とにかく50万。浅井氏は佐川急便で、「はたらくという意味を知った」と語っている。とにかく、はたらいた。荷物を持てば走り出す。そうしないと、終わらないからだ。走りつづけて1年。なんとか、出産費用も、生活していける資金も貯まった。それで、退職する。多少、金は貯まったが、むろん無職のままではいられない。前職の部長に、ある会社を紹介してもらう。「飲食店だが、それでもいいか?」の一言に浅井氏は、頷いた。それが「大戸屋」との出会いだった。
「月50万円」。それが当時の佐川急便のキャチフレーズだった。朝から晩まで勤務して、とにかく50万。浅井氏は佐川急便で、「はたらくという意味を知った」と語っている。とにかく、はたらいた。荷物を持てば走り出す。そうしないと、終わらないからだ。走りつづけて1年。なんとか、出産費用も、生活していける資金も貯まった。それで、退職する。多少、金は貯まったが、むろん無職のままではいられない。前職の部長に、ある会社を紹介してもらう。「飲食店だが、それでもいいか?」の一言に浅井氏は、頷いた。それが「大戸屋」との出会いだった。
・・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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