本文より~
横浜、生まれ。
寺田氏は、1968年10月3日、横浜市に生まれる。父親は、コンピュータ関連の会社に勤めるサラリーマン。まだホームコンピュータと言われた時代で、「赤く巻いたテープ」が記憶メディアだったそうである。「親父が持って帰ってきたテープを投げて遊んだ」と寺田氏は笑う。
兄弟は2人。5つ離れた弟がいる。裕福な方ではなかったものの、年に1~2回は泊りがけで旅行に出かけた。「清里とかですね。親父が好きだったんだと思います」。スキーもした。コンピュータに、スキー。お父様は、流行にも敏感だったのかもしれない。
中学になると、寺田氏はサッカー部に入った。サッカー部は硬派な人間が集った集団のような存在だった。
寺田氏自身、「荒れていた時代もあった」という。硬派だったというから、ケンカも良くしたのだろう。中3になるとバイクにも乗った。母親が寛容で、寺田氏の家には仲間たちが集ったそうだ。
「文字通り、硬派な生き方をしていたつもりだったんですが、3年生頃になって卒業した先輩たちを観ていると、みんな段々と軟派になっていくんです(笑)サーフィンをはじめたりして、髪の毛も徐々に長くなっていく。そういうのを観て、私も感化されていったんでしょうね。高校に入ると、さっそくサーファーの仲間入りを果たします(笑)」。
兄弟は2人。5つ離れた弟がいる。裕福な方ではなかったものの、年に1~2回は泊りがけで旅行に出かけた。「清里とかですね。親父が好きだったんだと思います」。スキーもした。コンピュータに、スキー。お父様は、流行にも敏感だったのかもしれない。
中学になると、寺田氏はサッカー部に入った。サッカー部は硬派な人間が集った集団のような存在だった。
寺田氏自身、「荒れていた時代もあった」という。硬派だったというから、ケンカも良くしたのだろう。中3になるとバイクにも乗った。母親が寛容で、寺田氏の家には仲間たちが集ったそうだ。
「文字通り、硬派な生き方をしていたつもりだったんですが、3年生頃になって卒業した先輩たちを観ていると、みんな段々と軟派になっていくんです(笑)サーフィンをはじめたりして、髪の毛も徐々に長くなっていく。そういうのを観て、私も感化されていったんでしょうね。高校に入ると、さっそくサーファーの仲間入りを果たします(笑)」。
波が寺田氏を呼んでいる。
「湘南工科大学附属高等学校」という名称。寺田氏の出身高校だ。JR辻堂駅から徒歩で15分。高校名から想像できる通り、湘南に近い。サーフィンのメッカだ。
地図で確かめてみると、駅からほぼ真っ直ぐに海岸線まで道が続いている。「毎朝、波に乗った」と寺田氏は言う。登校に、この道を通ったのだろうか。
「高校に進学して、すぐに色の黒い奴を探しました。するとすぐに真っ黒な生徒2人がみつかりました。私が睨んだ通り、彼らは2人ともジュニアの大会にも出場しているようなサーファー少年だったんです。彼らからサーフィンを教わりました。しかも、うち一人の家に居候を決め込むんです(笑)」。
夏だけではなく、冬も海に向かった。水温も低く、すぐに凍てついた。だが、おかまいなしだ。なんでも台風の前がいいらしい。「台風の前、低気圧が入ってくる時が最高なんです。最高と言っても、最高に気持ちもいい反面、最高に怖いんです」。
ダブルヘッド、トリプルヘッド。巧く乗れば、4メートルも上空に持って行かれるそうだ。「落ちたらタンコブじゃ済まないですよね。でも、それがたのしい」。
怖いのに、楽しい? スリルもまたサーフィンの一部なのだろうか。ともあれ、波に揺れ、硬派な中学時代とは違う、バラ色の高校時代が過ぎていく。
学校の成績は2年までは良かった、と舌をだす。
「というのも、私の前に田中くんという秀才が座っていたんです。テストの時は『あいうえを順』で座るから、毎回、寺田の前は田中(笑)。で、後ろから田中くんの右の腹をつつくと、右側に答案がスッと出てくるんです。そのおかげで、3年までは成績優秀だったんですが、田中くんと離れ離れになった3年の成績は言うまでもなくボロボロです(笑)」。
飲食店でバイトしたのは、この頃が最初ですね。藤沢駅のデパートに入っているような店や、そうプールバーなんかでも、バイトをしました」。
地図で確かめてみると、駅からほぼ真っ直ぐに海岸線まで道が続いている。「毎朝、波に乗った」と寺田氏は言う。登校に、この道を通ったのだろうか。
「高校に進学して、すぐに色の黒い奴を探しました。するとすぐに真っ黒な生徒2人がみつかりました。私が睨んだ通り、彼らは2人ともジュニアの大会にも出場しているようなサーファー少年だったんです。彼らからサーフィンを教わりました。しかも、うち一人の家に居候を決め込むんです(笑)」。
夏だけではなく、冬も海に向かった。水温も低く、すぐに凍てついた。だが、おかまいなしだ。なんでも台風の前がいいらしい。「台風の前、低気圧が入ってくる時が最高なんです。最高と言っても、最高に気持ちもいい反面、最高に怖いんです」。
ダブルヘッド、トリプルヘッド。巧く乗れば、4メートルも上空に持って行かれるそうだ。「落ちたらタンコブじゃ済まないですよね。でも、それがたのしい」。
怖いのに、楽しい? スリルもまたサーフィンの一部なのだろうか。ともあれ、波に揺れ、硬派な中学時代とは違う、バラ色の高校時代が過ぎていく。
学校の成績は2年までは良かった、と舌をだす。
「というのも、私の前に田中くんという秀才が座っていたんです。テストの時は『あいうえを順』で座るから、毎回、寺田の前は田中(笑)。で、後ろから田中くんの右の腹をつつくと、右側に答案がスッと出てくるんです。そのおかげで、3年までは成績優秀だったんですが、田中くんと離れ離れになった3年の成績は言うまでもなくボロボロです(笑)」。
飲食店でバイトしたのは、この頃が最初ですね。藤沢駅のデパートに入っているような店や、そうプールバーなんかでも、バイトをしました」。
大学進学断念。美容師の道へ、寺田氏の決意。
楽しいことばかりだった。だが、突然、父が倒れ、亡き人になった。「ぜんぜん元気だったんですが…」と寺田氏。まだ、若く、49歳だったそうだ。
「父からは子どもの頃から、大学に行けと言われていたんですね。で、父親の会社に入れって。父親は『これからコンピュータの時代だ』というのが口癖でした。だから、息子にもコンピュータの道を進ませたかったのでしょう。幸い、弟はいま富士電機で働いていますので、父の思いは少しかなかったと言えるかもしれません」。
ただ、寺田氏は違った。長男という思いもあったのだろう。大学進学を諦め、美容師になるため1年制の専門学校に進んだ。生徒の8割が女子。悪くない選択だった。
「でも、20歳の時かな。美容室で働いていたんですが、この道で独立するにはずいんぶん時間がかかることがわかるんです。そんなに悠長にしているわけにもいかないんで、よし、だったら飲食だと舵を切るんです」。
昼間はクレーンのオペレーターをした。夜になって飲食店で勤務する。日曜は、とある運送会社が運営する「引越しセンター」の前で並び、引越しのバイトを手に入れた。1日6000円。このバイト料だけ自由に使うことにした。それ以外は? と伺うと「全部、貯金」という答え。
詳細を聞くと、「毎月、母親に10万円、自分で25万円貯めていた」そうだ。むろん、計画通りにはいかなかった月もあっただろうが、それでも「3年でおよそ700万円貯まった」という。母親が寺田氏の貯金通帳を観て、驚いたのは店を始める少し前の話。
「父からは子どもの頃から、大学に行けと言われていたんですね。で、父親の会社に入れって。父親は『これからコンピュータの時代だ』というのが口癖でした。だから、息子にもコンピュータの道を進ませたかったのでしょう。幸い、弟はいま富士電機で働いていますので、父の思いは少しかなかったと言えるかもしれません」。
ただ、寺田氏は違った。長男という思いもあったのだろう。大学進学を諦め、美容師になるため1年制の専門学校に進んだ。生徒の8割が女子。悪くない選択だった。
「でも、20歳の時かな。美容室で働いていたんですが、この道で独立するにはずいんぶん時間がかかることがわかるんです。そんなに悠長にしているわけにもいかないんで、よし、だったら飲食だと舵を切るんです」。
昼間はクレーンのオペレーターをした。夜になって飲食店で勤務する。日曜は、とある運送会社が運営する「引越しセンター」の前で並び、引越しのバイトを手に入れた。1日6000円。このバイト料だけ自由に使うことにした。それ以外は? と伺うと「全部、貯金」という答え。
詳細を聞くと、「毎月、母親に10万円、自分で25万円貯めていた」そうだ。むろん、計画通りにはいかなかった月もあっただろうが、それでも「3年でおよそ700万円貯まった」という。母親が寺田氏の貯金通帳を観て、驚いたのは店を始める少し前の話。
・・・・・続き
株式会社リープ 代表取締役 寺田哲也氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)