2015年4月28日火曜日

株式会社リープ 代表取締役 寺田哲也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社リープ 代表取締役 寺田哲也氏場。
本文より~

横浜、生まれ。

寺田氏は、1968年10月3日、横浜市に生まれる。父親は、コンピュータ関連の会社に勤めるサラリーマン。まだホームコンピュータと言われた時代で、「赤く巻いたテープ」が記憶メディアだったそうである。「親父が持って帰ってきたテープを投げて遊んだ」と寺田氏は笑う。
兄弟は2人。5つ離れた弟がいる。裕福な方ではなかったものの、年に1~2回は泊りがけで旅行に出かけた。「清里とかですね。親父が好きだったんだと思います」。スキーもした。コンピュータに、スキー。お父様は、流行にも敏感だったのかもしれない。
中学になると、寺田氏はサッカー部に入った。サッカー部は硬派な人間が集った集団のような存在だった。
寺田氏自身、「荒れていた時代もあった」という。硬派だったというから、ケンカも良くしたのだろう。中3になるとバイクにも乗った。母親が寛容で、寺田氏の家には仲間たちが集ったそうだ。
「文字通り、硬派な生き方をしていたつもりだったんですが、3年生頃になって卒業した先輩たちを観ていると、みんな段々と軟派になっていくんです(笑)サーフィンをはじめたりして、髪の毛も徐々に長くなっていく。そういうのを観て、私も感化されていったんでしょうね。高校に入ると、さっそくサーファーの仲間入りを果たします(笑)」。

波が寺田氏を呼んでいる。

「湘南工科大学附属高等学校」という名称。寺田氏の出身高校だ。JR辻堂駅から徒歩で15分。高校名から想像できる通り、湘南に近い。サーフィンのメッカだ。
地図で確かめてみると、駅からほぼ真っ直ぐに海岸線まで道が続いている。「毎朝、波に乗った」と寺田氏は言う。登校に、この道を通ったのだろうか。
「高校に進学して、すぐに色の黒い奴を探しました。するとすぐに真っ黒な生徒2人がみつかりました。私が睨んだ通り、彼らは2人ともジュニアの大会にも出場しているようなサーファー少年だったんです。彼らからサーフィンを教わりました。しかも、うち一人の家に居候を決め込むんです(笑)」。
夏だけではなく、冬も海に向かった。水温も低く、すぐに凍てついた。だが、おかまいなしだ。なんでも台風の前がいいらしい。「台風の前、低気圧が入ってくる時が最高なんです。最高と言っても、最高に気持ちもいい反面、最高に怖いんです」。
ダブルヘッド、トリプルヘッド。巧く乗れば、4メートルも上空に持って行かれるそうだ。「落ちたらタンコブじゃ済まないですよね。でも、それがたのしい」。
怖いのに、楽しい? スリルもまたサーフィンの一部なのだろうか。ともあれ、波に揺れ、硬派な中学時代とは違う、バラ色の高校時代が過ぎていく。
学校の成績は2年までは良かった、と舌をだす。
「というのも、私の前に田中くんという秀才が座っていたんです。テストの時は『あいうえを順』で座るから、毎回、寺田の前は田中(笑)。で、後ろから田中くんの右の腹をつつくと、右側に答案がスッと出てくるんです。そのおかげで、3年までは成績優秀だったんですが、田中くんと離れ離れになった3年の成績は言うまでもなくボロボロです(笑)」。
飲食店でバイトしたのは、この頃が最初ですね。藤沢駅のデパートに入っているような店や、そうプールバーなんかでも、バイトをしました」。

大学進学断念。美容師の道へ、寺田氏の決意。

楽しいことばかりだった。だが、突然、父が倒れ、亡き人になった。「ぜんぜん元気だったんですが…」と寺田氏。まだ、若く、49歳だったそうだ。
「父からは子どもの頃から、大学に行けと言われていたんですね。で、父親の会社に入れって。父親は『これからコンピュータの時代だ』というのが口癖でした。だから、息子にもコンピュータの道を進ませたかったのでしょう。幸い、弟はいま富士電機で働いていますので、父の思いは少しかなかったと言えるかもしれません」。
ただ、寺田氏は違った。長男という思いもあったのだろう。大学進学を諦め、美容師になるため1年制の専門学校に進んだ。生徒の8割が女子。悪くない選択だった。
「でも、20歳の時かな。美容室で働いていたんですが、この道で独立するにはずいんぶん時間がかかることがわかるんです。そんなに悠長にしているわけにもいかないんで、よし、だったら飲食だと舵を切るんです」。
昼間はクレーンのオペレーターをした。夜になって飲食店で勤務する。日曜は、とある運送会社が運営する「引越しセンター」の前で並び、引越しのバイトを手に入れた。1日6000円。このバイト料だけ自由に使うことにした。それ以外は? と伺うと「全部、貯金」という答え。
詳細を聞くと、「毎月、母親に10万円、自分で25万円貯めていた」そうだ。むろん、計画通りにはいかなかった月もあっただろうが、それでも「3年でおよそ700万円貯まった」という。母親が寺田氏の貯金通帳を観て、驚いたのは店を始める少し前の話。



・・・・・続き

株式会社リープ 代表取締役 寺田哲也氏
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2015年4月27日月曜日

関東屈指のパワースポットの箱根神社に行ってきました。

日曜日、最高のドライブ日和だったので御殿場周辺行き、箱根神社にも立ち寄ってきました。
着実に事業や物事を進める力をもたらす、関東屈指のパワースポットなので、パワー充電してきました。

2015年4月25日土曜日

森浩美さん主催の家族草子(朗読劇)に行って来ました!

25日(土)は、青いイナズマ、抱きしめてTonight、SHOW MEなど数々のヒット曲を生み出してる作詞家で小説家の森浩美さん主催の家族草子(朗読劇)に行って来ました!
朗読とはいうものの、大変感動するのでほぼ毎回鑑賞させてもらっています。
毎回ココロに充電させてもらっています。

2015年4月22日水曜日

昨日今日と1万5,000歩も歩いてる俺!

出来るだけ歩くようにしてますが、
昨日も今日も1万5,000歩強と健康も意識して歩いてます。

昔はガンや心筋梗塞、脳梗塞なんで他人事でしたが、
芸能人や周りの同年代が亡くなる記事や連絡あると健康で長生き出来ることは一番の幸せだと感じます。

永遠は無いんですね、今この時を大事にしないと…。

2015年4月21日火曜日

光フードサービス株式会社 代表取締役 大谷光徳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”光フードサービス株式会社 代表取締役 大谷光徳氏場。
本文より~

サッカー少年、現実を知る。

「兄弟が4人。私は長男です。父も母も仕事をしていましたので、私が兄弟たちの面倒をみていました」と少年の頃を大谷氏は振り返る。
子どもの頃から成績が良く、生徒会では副会長。スポーツも出来、サッカー部ではキャプテンを務めていた。家庭では良き兄であり、学校では成績も優秀で、運動神経も抜群だった。
「高校は公立ですが、サッカーの名門校『愛知県立熱田高校』に進学します」。偏差値も高い。サッカーも名門だけあって、「名古屋グランパス」のユースからも数名入学してきた。とはいえ、大谷氏もサッカー推薦で進学した口である。
そう簡単に、負けるわけはないだろうと思っていたはずだ。
「ある意味、中学までが黄金期だった」と大谷氏は笑う。高校に進学すると勉強に全然、ついていけなかったからだ。「まじめに勉強しても、クラスで断トツの最下位」だったそうである。それだけではなかった。サッカーでも全くレギュラーにはなれなかった。部員数80名。ただでも、レギュラーになるのは難しい。
しかし、前述通り、推薦で入学しているし、中学時代には知事からも表彰された経験を持つ大谷氏である。「自信がないわけじゃなかった。でも…、例えばユース出身の奴らとは、雲泥の差。サッカーそのものが違っていた。それが、現実だったんです」。
自信があっただけに、挫折の色も濃くなる。サッカーは最後まで続けた大谷氏だが、高校時代を一口で言えば「ピザ屋のアルバイターとなる」そうだ。当時の大谷氏の思いが透けてみえる。
無論、ピザ屋のアルバイターにも進学の時期は来る。「当時は『教員』を目指していました。それで進学するなら都内の私立だと思っていたんです」。

もう、一つの現実。

現役の時は、上手くいかなかった。予備校に入学する。話は飛躍するが、予備校に入学して暫くした頃、大谷氏は、次のように思っていたそうだ。
「私は19歳の頃から独立を考えていました。言い方を替えれば『独立しかない』と思っていたんです」。
理由がある。「予備校時代。バイト先の女性と知り合って、進学を諦め結婚することにしたんです」。
相手は14年上の女性だった。小学2年生の子どももいた。彼女にとっては再婚だった。
「両親からは、大反対されました。しかし、私も逃げるわけにはいかなかった。2人、正確には義理の娘と、新たに生まれてくる赤ん坊を含め、4人の生活がスタートします。養っていくためには、独立するしかないと思っていたんです」。
生活は貧窮を極めた。「港区の家賃が一番安いエリアで暮らしました。生活はきつかったですね。私は、3つのバイトを掛け持ちして、月30万円くらいの収入はあったんですが、嫁さんが借金を抱えていたもんですから、それを返すと何も残らなかった。マイナスの月も少なくありませんでした」。
19歳の父は、もう一つの現実をみたに違いない。

23歳の、役員。これも、また現実である。

朝はガソリンスタンド、夜はスポーツジムのインストラクター。そして、メインが昼の「インド料理専門店」の仕事だった。とにかく、働いた。
2年経った頃、ある紳士から声を掛けられた。
「京都にある『南山』という焼肉店です。名古屋の展開がうまく行っていなくて、『南山』の社長が、私に声を掛けて下さったったんです」。
何が、評価されたのだろうか?
「インド料理店で、ナンの食べ放題やランチバイキングを仕掛けて、話題になっていたんです。それで私のことが耳に入ったんでしょう」。
オファーを快諾し、21歳で名駅の「南山」の店長となった。「店長」になっただけではない。大谷氏が店長となってから「南山」の業績は、急角度で上昇した。23歳の時には、すでに役員に抜擢されている。年収は1000万円を超えていたそうだ。
子どもも大きくなる。お金はいくらあっても、いい。大谷氏は、19歳で妻を養い、子どもを育てると決意した時、「野球選手になるか、医者になるか、社長になるか、それくらいしか思い浮かばなかった」という。
そして、「野球選手にも、医者にもなれるわけはないから、社長になろうと思った」と独立を志した背景を語っている。しかし、年収1000万円もあれば、独立というリスクを取らなくてもいいはずだ。
「まだ私も若かったんでしょうね。挑戦してみたかった」と大谷氏。「南山」では色々な経験もさせていただいたと大谷氏は今も感謝している。「肉についてはもちろんですが、店舗運営やマネジメント、求人、人材育成等、南山で学んだことが、今も私の原点となっています」と大谷氏。生産者とも、親しくなった。
「私は無類の肉好きなんです。だから、この仕事は天職だったんですね。美味しい肉を求めて生産者の下に足繁く通いました。それで親しくなっていくんですね」。
この時のネットワークが今の財産ともなっている。ともあれ、「南山」に入社して6年。大谷氏は「南山」を離れ、独立を果たす。まだわずか27歳のことである。


・・・・・続き
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2015年4月20日月曜日

採用のセミナーのDVDと冊子を贈ってもらいました。

飲食店繁盛会より昨年講演した採用のセミナーのDVDと冊子をお贈り頂きました。
こんなのができるなら、もっとカメラ意識してやったのに・・・(笑)


飲食企業様の採用に少しでもお役に立てば本望です。

2015年4月18日土曜日

社内の次世代育成をこそ、最大のテーマなり。

次世代育成!
さすがにまだ一線で頑張ってますが、
直接指導で若手の育成も同時にしてます。

新規営業から、ヒアリングとその大事さ、資料作成、
企画書活用しての提案等など段階おいてやらせているが
皆覚えが早いのでいい感じに進んでいる。

でも一番大事なのは、
なんのために仕事をするかだ。

お客様あってこそお金を頂ける、
そして我々の給与や会社維持出来てる有りがたさを知ることと
転職や就職は人生を影響する分岐点でもある。
その大事さを知ること。

このあたりをしっかり教えていかねば!



2015年4月16日木曜日

武田あかねとランベリーの岸本オーナーシェフ。

先日、某撮影がありミストラル代表でもある弊社の武田あかねとランベリー岸本オーナーシェフとがツーショット。
5月のOAをお楽しみに・・・・。
株式会社ミストラル(フードビジネスにより特化した人材紹介)

2015年4月15日水曜日

4月15日より株式会社どん様が『リアル経済大学』の2期生を募集!!

「ステーキのどん」「フォルクス」「しゃぶしゃぶどん亭」「ドン・イタリアーノ」の4業態を主として展開する株式会社どん代表取締役社長:長岡 祐樹、以下どん)は、4年間で経営リーダーの育成を行う集中プログラム『リアル経済大学』の2期生を募集いたします。

「リアル経済大学」とは?】
『リアル経済大学』は、外食産業における人材育成手法の改革を目指してスタートした、経営リーダーを育てるための4か年プロジェクトです。
通常10年以上かかる経営層の育成を4年間で行う当プログラムは、1.想像力、2.突破力、3.課題解決力の3つの力からなる「自ら考え挑戦する経営リーダー」の育成を目的としています。18~29歳以下の男女、および従業員(クルーを含む)であれば、誰でも無料でエントリー可能ですが、4年後に卒業できるのは最大5名。卒業生には、海外で執行役員として活躍できる権利が与えられます。

2015年4月14日火曜日

Restaurant ALADDIN オーナーシェフ 川﨑誠也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”Restaurant ALADDIN オーナーシェフ 川﨑誠也氏場。
本文より~

フランス料理に出会う迄の話。

宮崎県日之影町、川﨑の父が椎茸の仲買人をしていた事からも想像できる通り、地図で観ても九州のかなり山奥にあった。この地に川﨑が生まれたのは1955年の1月11日のことである。3人兄弟の真ん中で、兄とは3歳、弟とは10歳離れているそうだ。
とにかく手に職をつけたいと思っていたと川﨑は言う。だから、中学を卒業し進んだのは工業高校。化学工学を専攻しプラスチックやゴム、灰皿などの製品等を作っていた。
その関係で、大阪にある工業ゴム会社に就職。技術部の見習いとして川﨑の社会人生活がスタートする。
故郷の日之影町から離れて、数百キロ。まだあどけなさも残る青年は、見習いとして周りから評価されるほど真面目に勤務した。
しかし、葛藤もなくはなかったそうだ。 「この先、40年もこの会社に勤められるだろうかと自問自答を繰り返していた」と川﨑は言う。
「迷っていたその時。鍋一つで色んな料理を作る中華料理店の店主を見て『これはいい!』と思ったんです(笑)。良い料理人になって世界中どこでも仕事が出来る。それで、中華の料理人になろうと決め、夏に帰省した時に父に相談しました。勿論、父は反対しました。それでも考えは変らず調理師専門学校に進んだんです。最初は中華料理を専攻し中国語も勉強していたんですが、学校でフランス料理と出会い、俄然、そちらに興味が湧いたんです(笑)」。
アルバイト先も洋食屋さんだった。中国語を勉強していたが、フランス料理に出会って、行くなら中国よりフランスだと思うようになっていた。
当時、フランスはどのような存在だったのだろう。いまよりも遠く、しかし、今よりも多くの人が憧れる国だったのかもしれない。
「フランスという響きも格好いいでしょ。パリ、リヨン、コートダジュール それで、ついに中華料理からフランス料理に転向しました。いつかはフランスへ。そういう夢も抱くようになっていました」。
と言っても、当時のフランスは、そう簡単に行ける国でもなかった。

フランス帰りのシェフと出会い、渡仏のチャンスを手にする。

調理師学校を卒業した川﨑は、大阪のとある洋食屋に就職するが半年で辞めてしまった。
「それから色んな料理店でアルバイトをしました。それでいいと思っていたわけじゃないんです」。
そんな川﨑にチャンスが巡ってくる。
「アルバイト先の料理長から銀座レカンの料理長を紹介して頂いたんです」と川﨑。
そして早速、東京へ料理長に会いに行き、「フランスに仕事をしに行くにはどうしたらいいのか?」と質問をぶつけたそうだ。
そして数日後、銀座レカンの料理長から電話を頂き、神戸にオープンするフランス料理店で働く事になったのである。
「でもね。この店も一年間だけ。私の意志とは関係なくお店がクローズしてしまったんです。でも、この店で勤務したのは、正解でした。フランス帰りのシェフと出会えたからです。店を閉めたこともあって、彼は『フランスに帰る』というんですね。僕はまだまだ渡仏の準備が出来ていないので、紹介して頂いたフランス料理店で働きながら、貯金とフランス語の勉強を始めました。準備を始めて1年後、彼を頼ってフランスに向かいました。24歳の時です」。
調理師学校でフランス料理を初めて知ってから5年が経っていた。川﨑の腕も相当上がっていたことだろう。実際、渡仏して4日目から仕事を開始している。腕があった証だ。

帰国。そして、日本での旅の始まり。

「結局、フランスには9年間いました。想像通り綺麗な国でした。30歳を過ぎた頃から「フランスにいて、このまま50歳すぎ迄フランス料理店でシェフをやっているのかなと思ったんです。なかなかそういう自分がイメージできなかったんですね。ではどうするかと迷っている時に、オーナーのフランス人から『川﨑はフランスにいるよりアメリカに行ったほうがいいんじゃないか?』と提案されたんです。彼とはずっと一緒に働いていた仲でした。その時、彼はニューヨークのホテルプラザアテネの料理顧問をすることになっていたんです。それで私も彼と一緒にニューヨークに行き、そのホテルで勤務することを決意しました」。
日本からフランスへ、更にニューヨークへ。そのまま進めば、日本。世界一周である。スケールの大きな話だ。ともかく、川﨑の旅は、まだ終わらない。
「ニューヨークでは、日本人というだけで可愛がってもらえたんです。待遇も悪くなかった。ただ、何のために『ここにいるのか』。それがわからなくなってしまったんです。それで渡米した翌年の7月に退職し、もう一度フランスへ渡りました。そして、いったんリセットするつもりで日本に帰国したんです。フランスのアパートはまだありましたし、半年、1年でフランスに戻る気ではいたんですが…」。
いつのまにか、フランスは「行く国」ではなく、「帰る国」になっていた。
それほど、かの国で暮らしてきた川﨑である。料理の腕はいうまでもない。すぐに彼を頼って人が来た。
「最初は、岐阜で店をオープンするという先輩の手伝いをしました。ところが、その店に東京の『オー・シザーブル』という店のオーナーがわざわざ会いに来てくださって、『東京で仕事をしないか』と誘ってくれたのです。 迷いもありましたが日本に戻ってきたのは、日本で働くためではなく、考えを整理したかったからなんです。向こうのアパートを借りたままにしておいたのも、いずれ戻るつもりだったから。でも、考えを変えました。東京で一度働いてみよう。何年か働いて将来の事を決めようと。 そしてフランスに帰り引越しをして東京で生活をする様になりました」。
一方でいつかはフランスへという想いは一度胸に閉まっていたかもしれない。

・・・・続き

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2015年4月13日月曜日

京都大学ベンチャー企業のキシュウの李君(京大生)、朝日新聞に載ってました!!

私の実家のある京北の農家の方たちと交流の深い、京都大学ベンチャー企業の京野菜卸会社のキシュウの李君(京大生)、なんと今度は10日の朝日新聞に載ってました!!
すご~い!!

2015年4月7日火曜日

株式会社奴ダイニング 代表取締役 松本丈志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社奴ダイニング 代表取締役 松本丈志氏場。
本文より~

太く、短く。

松本家は、祖父の代から横浜で飲食店を経営していた。寿司と和食の店。普通なら、長男の松本が三代目候補となるわけだが、そういうビジョンは松本にはなかったそうだ。
「弟が継ぎたいみたいなことを言っていましたし、私は正直なところ全然、興味もなかったんです」。
松本の会話には、パッションとピュアな心が映し出される。純粋であり、情熱的でもある人だ。時には、そういう思いが、松本をあらぬ方向に走らせたこともある。
「中学時代のことです。私は、生命線が短かったんです。で、周りの人間から長く生きられないと言われて。それを鵜のみにして、ならば、太く、短く生きようと決めたんです」。太く、短く。中学時代から新聞配達を開始。親からの卒業も、太く、短く生きるためには、必須の課題だったからだ。
「高校からボクシングを始めたのも、太く、短くの一環です。17歳でプロを目指したんですが、ケガで挫折。今度はスノーボードのプロを目指そうと考え、両親にその旨を伝えるんですが、その時、気の強い親が、『店を継いでくれないか』と、私にはじめて頭を下げたんです」。
三代目になってくれないか、という懇願だった。

修業の始まり。

「そういう懇願を受けて、快諾とは言いませんが、三代目というのが、私のなかに芽生えます。しかし、状況はそうでも、経営者になる気はさらさらありませんでした。ただ、性格なんでしょうね。やるからには、上を目指そうと思いました」。
「やる」と決めたら、やる。松本にはそういう生真面目さもある。修業が厳しいことで知られていた都内の寿司屋の門を叩いた。住み込みである。「住み込みだと逃げ道はないから」である。噂通り、半端ない厳しさだった。
「何度も実家に帰りたかったんですが、息子の決意を知って盛大に見送ってくれたもんですから、帰るに帰れない。誰にも相談できないということもあって、一時期、人嫌いになってしまったほどです(笑)」。
人嫌い。「どうやって治したんですか」と伺うと、「本屋で名言集や哲学書をみつけては、それを読んで考え方を身につけました」との答え。すると、人嫌いが完治したそうだ。
この寿司屋には5年いた。18歳から23歳まで。人生でもっとも貴重な時間を厳しい修業に費やしたことになる。前述通り、人嫌いとも戦った。
余談だが、この5年で松本の後輩はできなかったそうだ。
「なぜかっていわれると単純なんですが、私より後に入った人間は誰一人続かなかったんです(笑)」。
この事実からも、いかに厳しい店だったかが想像できる。その後、松本はどうなったのだろうか。
「5年間修業した後は、プロボクサーを目指す為、ホストの道を選びました」と松本は振り返った。
ホストの時給2,500円、週休2日制という文言が目に焼き付いた。これだったらボクシングと両立できると思ったのだった。だが、現実はそう甘くはなかった。実際入ってみると、日当は5,000円。嘘をつかれた。そんな状況であったが、真面目に仕事をした松本。なんと3週間でナンバー6まで登りつめることが出来たそうだ。「自分より年が若いホストに色々とタメ語で指図されるわけですが、入った以上真面目にやろうと思いました。また要領も良かったんだと思います。結果、良い成績を残すことが出来ました。ところが昼はボクシング、夜はホストとして朝方まで酒を飲むという日々を繰り返していたので身体に無理があったんです」と松本は当時を振り返った。
そんな時に、自分の未来を見つめ直した。そして実家の暖簾を潜ることを決意することになる。


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