本文より~
サッカー少年、現実を知る。
「兄弟が4人。私は長男です。父も母も仕事をしていましたので、私が兄弟たちの面倒をみていました」と少年の頃を大谷氏は振り返る。
子どもの頃から成績が良く、生徒会では副会長。スポーツも出来、サッカー部ではキャプテンを務めていた。家庭では良き兄であり、学校では成績も優秀で、運動神経も抜群だった。
「高校は公立ですが、サッカーの名門校『愛知県立熱田高校』に進学します」。偏差値も高い。サッカーも名門だけあって、「名古屋グランパス」のユースからも数名入学してきた。とはいえ、大谷氏もサッカー推薦で進学した口である。
そう簡単に、負けるわけはないだろうと思っていたはずだ。
「ある意味、中学までが黄金期だった」と大谷氏は笑う。高校に進学すると勉強に全然、ついていけなかったからだ。「まじめに勉強しても、クラスで断トツの最下位」だったそうである。それだけではなかった。サッカーでも全くレギュラーにはなれなかった。部員数80名。ただでも、レギュラーになるのは難しい。
しかし、前述通り、推薦で入学しているし、中学時代には知事からも表彰された経験を持つ大谷氏である。「自信がないわけじゃなかった。でも…、例えばユース出身の奴らとは、雲泥の差。サッカーそのものが違っていた。それが、現実だったんです」。
自信があっただけに、挫折の色も濃くなる。サッカーは最後まで続けた大谷氏だが、高校時代を一口で言えば「ピザ屋のアルバイターとなる」そうだ。当時の大谷氏の思いが透けてみえる。
無論、ピザ屋のアルバイターにも進学の時期は来る。「当時は『教員』を目指していました。それで進学するなら都内の私立だと思っていたんです」。
子どもの頃から成績が良く、生徒会では副会長。スポーツも出来、サッカー部ではキャプテンを務めていた。家庭では良き兄であり、学校では成績も優秀で、運動神経も抜群だった。
「高校は公立ですが、サッカーの名門校『愛知県立熱田高校』に進学します」。偏差値も高い。サッカーも名門だけあって、「名古屋グランパス」のユースからも数名入学してきた。とはいえ、大谷氏もサッカー推薦で進学した口である。
そう簡単に、負けるわけはないだろうと思っていたはずだ。
「ある意味、中学までが黄金期だった」と大谷氏は笑う。高校に進学すると勉強に全然、ついていけなかったからだ。「まじめに勉強しても、クラスで断トツの最下位」だったそうである。それだけではなかった。サッカーでも全くレギュラーにはなれなかった。部員数80名。ただでも、レギュラーになるのは難しい。
しかし、前述通り、推薦で入学しているし、中学時代には知事からも表彰された経験を持つ大谷氏である。「自信がないわけじゃなかった。でも…、例えばユース出身の奴らとは、雲泥の差。サッカーそのものが違っていた。それが、現実だったんです」。
自信があっただけに、挫折の色も濃くなる。サッカーは最後まで続けた大谷氏だが、高校時代を一口で言えば「ピザ屋のアルバイターとなる」そうだ。当時の大谷氏の思いが透けてみえる。
無論、ピザ屋のアルバイターにも進学の時期は来る。「当時は『教員』を目指していました。それで進学するなら都内の私立だと思っていたんです」。
もう、一つの現実。
現役の時は、上手くいかなかった。予備校に入学する。話は飛躍するが、予備校に入学して暫くした頃、大谷氏は、次のように思っていたそうだ。
「私は19歳の頃から独立を考えていました。言い方を替えれば『独立しかない』と思っていたんです」。
理由がある。「予備校時代。バイト先の女性と知り合って、進学を諦め結婚することにしたんです」。
相手は14年上の女性だった。小学2年生の子どももいた。彼女にとっては再婚だった。
「両親からは、大反対されました。しかし、私も逃げるわけにはいかなかった。2人、正確には義理の娘と、新たに生まれてくる赤ん坊を含め、4人の生活がスタートします。養っていくためには、独立するしかないと思っていたんです」。
生活は貧窮を極めた。「港区の家賃が一番安いエリアで暮らしました。生活はきつかったですね。私は、3つのバイトを掛け持ちして、月30万円くらいの収入はあったんですが、嫁さんが借金を抱えていたもんですから、それを返すと何も残らなかった。マイナスの月も少なくありませんでした」。
19歳の父は、もう一つの現実をみたに違いない。
「私は19歳の頃から独立を考えていました。言い方を替えれば『独立しかない』と思っていたんです」。
理由がある。「予備校時代。バイト先の女性と知り合って、進学を諦め結婚することにしたんです」。
相手は14年上の女性だった。小学2年生の子どももいた。彼女にとっては再婚だった。
「両親からは、大反対されました。しかし、私も逃げるわけにはいかなかった。2人、正確には義理の娘と、新たに生まれてくる赤ん坊を含め、4人の生活がスタートします。養っていくためには、独立するしかないと思っていたんです」。
生活は貧窮を極めた。「港区の家賃が一番安いエリアで暮らしました。生活はきつかったですね。私は、3つのバイトを掛け持ちして、月30万円くらいの収入はあったんですが、嫁さんが借金を抱えていたもんですから、それを返すと何も残らなかった。マイナスの月も少なくありませんでした」。
19歳の父は、もう一つの現実をみたに違いない。
23歳の、役員。これも、また現実である。
朝はガソリンスタンド、夜はスポーツジムのインストラクター。そして、メインが昼の「インド料理専門店」の仕事だった。とにかく、働いた。
2年経った頃、ある紳士から声を掛けられた。
「京都にある『南山』という焼肉店です。名古屋の展開がうまく行っていなくて、『南山』の社長が、私に声を掛けて下さったったんです」。
何が、評価されたのだろうか?
「インド料理店で、ナンの食べ放題やランチバイキングを仕掛けて、話題になっていたんです。それで私のことが耳に入ったんでしょう」。
オファーを快諾し、21歳で名駅の「南山」の店長となった。「店長」になっただけではない。大谷氏が店長となってから「南山」の業績は、急角度で上昇した。23歳の時には、すでに役員に抜擢されている。年収は1000万円を超えていたそうだ。
子どもも大きくなる。お金はいくらあっても、いい。大谷氏は、19歳で妻を養い、子どもを育てると決意した時、「野球選手になるか、医者になるか、社長になるか、それくらいしか思い浮かばなかった」という。
そして、「野球選手にも、医者にもなれるわけはないから、社長になろうと思った」と独立を志した背景を語っている。しかし、年収1000万円もあれば、独立というリスクを取らなくてもいいはずだ。
「まだ私も若かったんでしょうね。挑戦してみたかった」と大谷氏。「南山」では色々な経験もさせていただいたと大谷氏は今も感謝している。「肉についてはもちろんですが、店舗運営やマネジメント、求人、人材育成等、南山で学んだことが、今も私の原点となっています」と大谷氏。生産者とも、親しくなった。
「私は無類の肉好きなんです。だから、この仕事は天職だったんですね。美味しい肉を求めて生産者の下に足繁く通いました。それで親しくなっていくんですね」。
この時のネットワークが今の財産ともなっている。ともあれ、「南山」に入社して6年。大谷氏は「南山」を離れ、独立を果たす。まだわずか27歳のことである。
2年経った頃、ある紳士から声を掛けられた。
「京都にある『南山』という焼肉店です。名古屋の展開がうまく行っていなくて、『南山』の社長が、私に声を掛けて下さったったんです」。
何が、評価されたのだろうか?
「インド料理店で、ナンの食べ放題やランチバイキングを仕掛けて、話題になっていたんです。それで私のことが耳に入ったんでしょう」。
オファーを快諾し、21歳で名駅の「南山」の店長となった。「店長」になっただけではない。大谷氏が店長となってから「南山」の業績は、急角度で上昇した。23歳の時には、すでに役員に抜擢されている。年収は1000万円を超えていたそうだ。
子どもも大きくなる。お金はいくらあっても、いい。大谷氏は、19歳で妻を養い、子どもを育てると決意した時、「野球選手になるか、医者になるか、社長になるか、それくらいしか思い浮かばなかった」という。
そして、「野球選手にも、医者にもなれるわけはないから、社長になろうと思った」と独立を志した背景を語っている。しかし、年収1000万円もあれば、独立というリスクを取らなくてもいいはずだ。
「まだ私も若かったんでしょうね。挑戦してみたかった」と大谷氏。「南山」では色々な経験もさせていただいたと大谷氏は今も感謝している。「肉についてはもちろんですが、店舗運営やマネジメント、求人、人材育成等、南山で学んだことが、今も私の原点となっています」と大谷氏。生産者とも、親しくなった。
「私は無類の肉好きなんです。だから、この仕事は天職だったんですね。美味しい肉を求めて生産者の下に足繁く通いました。それで親しくなっていくんですね」。
この時のネットワークが今の財産ともなっている。ともあれ、「南山」に入社して6年。大谷氏は「南山」を離れ、独立を果たす。まだわずか27歳のことである。
・・・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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