2015年4月14日火曜日

Restaurant ALADDIN オーナーシェフ 川﨑誠也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”Restaurant ALADDIN オーナーシェフ 川﨑誠也氏場。
本文より~

フランス料理に出会う迄の話。

宮崎県日之影町、川﨑の父が椎茸の仲買人をしていた事からも想像できる通り、地図で観ても九州のかなり山奥にあった。この地に川﨑が生まれたのは1955年の1月11日のことである。3人兄弟の真ん中で、兄とは3歳、弟とは10歳離れているそうだ。
とにかく手に職をつけたいと思っていたと川﨑は言う。だから、中学を卒業し進んだのは工業高校。化学工学を専攻しプラスチックやゴム、灰皿などの製品等を作っていた。
その関係で、大阪にある工業ゴム会社に就職。技術部の見習いとして川﨑の社会人生活がスタートする。
故郷の日之影町から離れて、数百キロ。まだあどけなさも残る青年は、見習いとして周りから評価されるほど真面目に勤務した。
しかし、葛藤もなくはなかったそうだ。 「この先、40年もこの会社に勤められるだろうかと自問自答を繰り返していた」と川﨑は言う。
「迷っていたその時。鍋一つで色んな料理を作る中華料理店の店主を見て『これはいい!』と思ったんです(笑)。良い料理人になって世界中どこでも仕事が出来る。それで、中華の料理人になろうと決め、夏に帰省した時に父に相談しました。勿論、父は反対しました。それでも考えは変らず調理師専門学校に進んだんです。最初は中華料理を専攻し中国語も勉強していたんですが、学校でフランス料理と出会い、俄然、そちらに興味が湧いたんです(笑)」。
アルバイト先も洋食屋さんだった。中国語を勉強していたが、フランス料理に出会って、行くなら中国よりフランスだと思うようになっていた。
当時、フランスはどのような存在だったのだろう。いまよりも遠く、しかし、今よりも多くの人が憧れる国だったのかもしれない。
「フランスという響きも格好いいでしょ。パリ、リヨン、コートダジュール それで、ついに中華料理からフランス料理に転向しました。いつかはフランスへ。そういう夢も抱くようになっていました」。
と言っても、当時のフランスは、そう簡単に行ける国でもなかった。

フランス帰りのシェフと出会い、渡仏のチャンスを手にする。

調理師学校を卒業した川﨑は、大阪のとある洋食屋に就職するが半年で辞めてしまった。
「それから色んな料理店でアルバイトをしました。それでいいと思っていたわけじゃないんです」。
そんな川﨑にチャンスが巡ってくる。
「アルバイト先の料理長から銀座レカンの料理長を紹介して頂いたんです」と川﨑。
そして早速、東京へ料理長に会いに行き、「フランスに仕事をしに行くにはどうしたらいいのか?」と質問をぶつけたそうだ。
そして数日後、銀座レカンの料理長から電話を頂き、神戸にオープンするフランス料理店で働く事になったのである。
「でもね。この店も一年間だけ。私の意志とは関係なくお店がクローズしてしまったんです。でも、この店で勤務したのは、正解でした。フランス帰りのシェフと出会えたからです。店を閉めたこともあって、彼は『フランスに帰る』というんですね。僕はまだまだ渡仏の準備が出来ていないので、紹介して頂いたフランス料理店で働きながら、貯金とフランス語の勉強を始めました。準備を始めて1年後、彼を頼ってフランスに向かいました。24歳の時です」。
調理師学校でフランス料理を初めて知ってから5年が経っていた。川﨑の腕も相当上がっていたことだろう。実際、渡仏して4日目から仕事を開始している。腕があった証だ。

帰国。そして、日本での旅の始まり。

「結局、フランスには9年間いました。想像通り綺麗な国でした。30歳を過ぎた頃から「フランスにいて、このまま50歳すぎ迄フランス料理店でシェフをやっているのかなと思ったんです。なかなかそういう自分がイメージできなかったんですね。ではどうするかと迷っている時に、オーナーのフランス人から『川﨑はフランスにいるよりアメリカに行ったほうがいいんじゃないか?』と提案されたんです。彼とはずっと一緒に働いていた仲でした。その時、彼はニューヨークのホテルプラザアテネの料理顧問をすることになっていたんです。それで私も彼と一緒にニューヨークに行き、そのホテルで勤務することを決意しました」。
日本からフランスへ、更にニューヨークへ。そのまま進めば、日本。世界一周である。スケールの大きな話だ。ともかく、川﨑の旅は、まだ終わらない。
「ニューヨークでは、日本人というだけで可愛がってもらえたんです。待遇も悪くなかった。ただ、何のために『ここにいるのか』。それがわからなくなってしまったんです。それで渡米した翌年の7月に退職し、もう一度フランスへ渡りました。そして、いったんリセットするつもりで日本に帰国したんです。フランスのアパートはまだありましたし、半年、1年でフランスに戻る気ではいたんですが…」。
いつのまにか、フランスは「行く国」ではなく、「帰る国」になっていた。
それほど、かの国で暮らしてきた川﨑である。料理の腕はいうまでもない。すぐに彼を頼って人が来た。
「最初は、岐阜で店をオープンするという先輩の手伝いをしました。ところが、その店に東京の『オー・シザーブル』という店のオーナーがわざわざ会いに来てくださって、『東京で仕事をしないか』と誘ってくれたのです。 迷いもありましたが日本に戻ってきたのは、日本で働くためではなく、考えを整理したかったからなんです。向こうのアパートを借りたままにしておいたのも、いずれ戻るつもりだったから。でも、考えを変えました。東京で一度働いてみよう。何年か働いて将来の事を決めようと。 そしてフランスに帰り引越しをして東京で生活をする様になりました」。
一方でいつかはフランスへという想いは一度胸に閉まっていたかもしれない。

・・・・続き

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