in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サードプレイス 代表取締役 岡山浩之氏が登場。
本文より~
野球選手に憧れて。
岡山が生まれたのは1975年4月2日。豊島区で生まれ、練馬区で育った、というから根っからの東京人である。3人兄弟の末っ子で、学校の水泳記録を塗り替えた兄2人ほど速くなかったが、運動もでき、勉強もでき、野球も巧かった。「早稲田実業学校中等部」に進学したのも、いずれ「甲子園」「プロ野球」という目標があったから。
「中学も、高校も男子校です。浮いた話はぜんぜんない(笑)。とにかく野球漬けです。私はエースで4番。当時、同じ区に強豪校が2校あって、期待はされていたんですが、都大会には進めませんでした。粒揃いだったんですが、チームワークがバラバラだったんです(笑)」。
中学から高校へは、100%進学できるそうだ。ただし、「早実」の2文字に惹かれた、多くの優秀な生徒たちが外部からも進学してくる。野球もまた同じである。
「私たちが中学でやっていたのは軟式です。硬式ではシニアという組織があって、そこから、推薦で凄いのが入ってきます。先輩たちも凄くて、最初は、先輩らが放るボールが見えなかったくらいです」。
早稲田実業、入学。
「ボールが見えねぇ」。岡山はそう呟きつつも、白旗は絶対、挙げなかった。「負けねぇぞ」。同期の部員は16人。2年の春の大会にはいち早くベンチ入りも果たした。しかし、この大会では指揮官がおらず1回戦コールド負け。早実の野球部の歴史のなかでも記録的な大敗を喫することになる。
「それまで監督をしてくださっていた和田明監督がお亡くなりになって、一つの歴史が終わったんです。一方、当時、東東京では帝京高校が頭一つ抜けていて、甲子園でも優勝していたもんですから、『あそこには、勝ってこないよな』ってムードが蔓延していたんです。そのムードが試合にも出たんでしょう」。
いつまでも、指揮官不在というわけにはいかない。代わりに登場したのは33歳の熱血指導者だった。
「新任の監督も、和田監督の教え子の一人だったそうです。そりゃ、熱い人で、とにかく最初はみんなボコボコにされました。巧くて調子に乗っている奴は特に、ね。で、その監督がいいます。『オレたちは、日本でいちばんの帝京高校を倒さないと甲子園には出られない』。もっともな話です。だから私たちもうんうんと頷きました。でも、次の一言に愕然としたんです。『だから、日本一の練習をするんだ』って。オイオイ、マジかよです(笑)」。
日本一の猛練習。成果は、すぐに出た。秋の公式戦で、次々コールド勝ちをおさめていく。「とにかくみんなバカスカ打って。私は5番で4割打っていたんですが、それでもチームでビリから2番目でした」。
いつの間にかチームに自信が溢れるようになる。「帝京にだって負けない。負けるわけがない」。そんな気分にもなっていた。しかし、最後の最後で、勝負の女神がほほ笑んだのは、相手チームのほうだった。
「あとひとつ勝てば甲子園だったんですが、日没コールドで敗戦しました。え、そんなルールってあるの?って感じです(笑)」。
試合には負けたが、もう心は折れなかった。
「最後の夏の大会まで、まだまだ鍛えることができる」と思ったから。
大学時代。
「熱血監督との出会いもそうですが、高校時代は、私の人生のなかで大きな意味を持つ3年間だったと思います」と岡山はいう。
その高校時代、岡山は、いくつかのことを心に決めたそうだ。
「ひとつは、高校時代は、野球だけを真剣にやろう、と。もうひとつは、『負のオーラ』をださないようにしよう、ということです。『負のオーラ』は、私のいけないところで、当時は、何かにつけ、すごく短気で周りに当たり散らしていたんです。だから、そういうのをやめようと。それからです。人に対して怒らなくなって、人付き合いもずいぶん違うようになっていきました」。
「今でも怒らない」というからある意味、凄い決意である。
ともあれ、高校時代も野球漬け。
真っ黒になりながら、白球を追い続けた。ところが、最後の最後、岡山はもう一つの試練を受けることになる。 帝京高校との試合。シーソゲームで、9回裏。1点入れられて同点にされてしまったが、この回を切り抜ければ、延長戦に突入する。その時、岡山はレフトを守っていた。背番号は「1」。エースナンバーを付けた岡山が守るレフトに白球が舞い上がった。誰もが、これでスリーアウトと思った瞬間、ボールがグラブから零れ落ちた。
「結局、それで逆転され、サヨナラ負けになってしまいます」。岡山は頭を抱え込んだ。「すべてを終わらせてしまった」と思ったからである。
しかし、このミスから逃げることなく、早稲田大学に進んだ岡山はやはり野球を続けた。早慶戦。憧れのグランドにも立った。
4年間もまたあっという間に過ぎた。「大学時代もいろいろな経験をしました。凄い選手もたくさん見ました。実力は及ばなかったかもしれないが、密かに2年くらいまでは、いつかプロへと思っていました。しかし、この4年間で、できない自分を認められたというか、できないことにも、ちゃんと向き合えるようになったんだと思います」。
苦労もした。限界も感じたことだろう。しかし、それらを受け入れることで、岡山は更に強くなったはずだ。