in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社All for one corporation 代表 工藤哲也氏登場。
本文より~
100年目の生徒会長。
「商売上手な人だった」と工藤氏は、父のことをそう表現する。工藤氏の父親は、埼玉県鳩ケ谷市(現、川口市)で有名な靴店の店主だった。
「一部上場企業の創業者も来られたし、ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんも来られたことがありました。父は、腕はともかく、人あたりがよかったんです(笑)」。
もっとも、客に見せる顔と、家族に見せる顔は違っていたようだ。工藤氏は、父親を「好きじゃない」と言う。
工藤氏が生まれたのは1960年4月2日、昭和35年である。生まれは、父の店があった鳩ケ谷市。「いまは川口市となっていますが、私が生まれた頃の鳩ケ谷は、このあたりの中心街で、江戸時代から日光御成街道の宿場町として発展したそうなんです」。
「昔から人も多かったんでしょうね。私が卒業した鳩ケ谷小学校は、当時で、すでに100年の歴史があり、実は、私が100期目の生徒会長なんです」。
「子どもの頃から、目立つのも好きだし、役職に就くのが好きだった」と工藤氏。小学6年生時の身長は172センチ。役職うんぬんは関係なく、この体格だけで、十分目立った存在だったはずである。
172センチの小学生。中学で、バスケット部に入る。
背が高かったから、バスケ部に入ったわけではない。中学の部活の話である。
「最初は、水泳部がいいなと思っていたんです。でも、近くに住んでいる先輩に誘われたこともあって、結局、バスケ部に入部しました。当時、バスケには、先輩にキレイな人がたくさんいて。特に3人飛び抜けた人がいて参ってしまったんです。『こりゃ、水泳をやっている場合じゃない』って(笑)」。
特別な3人のそののちの話を聞いて驚いた。映画で主演女優を務めた人など、有名な女性ばかりだったからである。キレイな女性たちに惹かれるようにして始めたバスケットボールだったが、背が高かったこともあったのだろう、すぐに周囲から期待されるような活躍を開始。3年時には県大会にも出場している。
高校でも、バスケットボールを続けた。「明大中野高校」。当時、10年連続でインターハイに出場。全国制覇も1度果たしている。常にベスト4入りしていた名門である。
「たまたまです。セレクションを受けて通りました。全国からいい選手があつまってくる学校でしょ。刺激もあって、そう特に、顧問の先生からいろいろ教わりました。顧問の先生は、私の人生の師です。私のことは名前も覚えていらっしゃらないでしょうが、私は先生が言った言葉まで頭に残っています」。
練習方法も、かわっていたそうだ。「『人間、集中力は5分くらいしか持たない』って、練習も2時間くらいで終わりなんです。もっとも、先生を交えた練習は戦術的なことで、コミュニケーションの取り方などが基本。だから、生徒たちは、全体練習後も残って自分たちで基礎練習を行うんです。この自主性も強豪だった理由の一つかもしれません」。
借金3000万円。「高校を辞めてくれ」、母の一言。
「バスケをやっていなかったら、高校を中退していたかもしれない」と工藤氏は、漏らした。
高校1年の時のことである。
「実家が火事をだして、となりの家にも火が移ってしまったんです。それで、当時のお金で3000万円の借金ができてしまいました。母親から『学校を辞めてくれ』と言われたんですが、当時NTTに勤めていた姉が『高校だけは』といって、学費をだして卒業させてくれたんです」。
姉の心遣いとバスケットボール。高校に最後まで残ることができたのは、この2つの支えがあったからだろう。
しかし、当時のことを工藤氏はこうも言っている。「周りの奴らとは、ぜんぜん立場が違うわけですよ。だから、劣等感というかね。そういうことも感じていた。バスケが一つの救いになったのは、バスケの最中だけは、劣等感を感じずに済んだからかもしれません」。
夜の銀座と六本木と工藤氏。
高校3年、夏のインターハイが終わってから、工藤氏は人生初のバイトを開始。大学生になると知り合いの紹介で、銀座で住み込みのバイトも開始する。進んだ大学は、一般ではなく、夜学である。
「紹介で始めたのは、銀座の喫茶店のバイトです。店のビルの屋上にプレハブがあって、それを借りて暮らしていました。『傷だらけの天使』ってドラマがあったんですが、文字通り、あんな感じです(笑)」。
朝、住み込みの喫茶店で働いて、大学に行くといっては夕方からまた働き、「月に70万円くらい稼いでいた」という。
そののち、銀座、六本木が工藤氏のホームグラウンドになる。「私の人生にとって、銀座に出てきたというのは、大きな転機だと思うんです」と工藤氏。
周りの煌びやかさに照らされて、工藤氏の生活も派手になった。「3~4ヵ月で300万円貯めては、パーッと使っちゃいました。大好きな子がいて、つぎ込んでいた時もあった。当時はバブルで、そういうお金をお金だと思わない空気だったんです。私もボーイとかをやっていたから、チップだけで30万円くらいもらっていました」。
羽振りも悪くない。だが、上には上がいる。銀座のクラブのナンバー1。その女性がいつのまにか、工藤氏の彼女になった。
「今で換算すると月に1000万円くらいだったと思いますよ。彼女の給料は。ヒモみたいな暮らしです。ある時、彼女が『将来、なにをしたいの?』って聞くから『飲食かな』っていうと、『私が教えてあげるって』言って」。
「なんだかんだ言っても、吉野家が旨いと思っていた年頃ですよ。でも、彼女に連れていかれたのは、目の玉が飛び出るような店ばかり。『これが、おいしい肉なんだよ』って。そりゃ、値段とおなじくらい驚きの旨さでした。そうやって少しずつ勉強していったんです」。
どうでもいい話だが、工藤氏は、その12歳年上の彼女と「結婚したい」と思っていたそうだ。しかし、彼女からこう言われた。
「あなたはもっと若い人と結婚したほうがいいわ」。
その言葉は、夜の街との別れを示唆していたのかもしれない。