2015年7月31日金曜日

さあいよいよ、キイストンプロデュースの動画スタートします。

8月より、女子大生レポーターによる飲食経営者動画がいよいよスタートします。
採用にも効果的な社長動画を前から考えていたので、とても楽しみです。


記念すべき第一回は監獄レストラン《ロックアップ》運営されているパートナーズダイニング大藤社長です。


そして第二回はジャパントータルロブロス株式会社のYocco社長を予定しています。
今後この社長動画をコツコツと積み上げていきたいと考えています。
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2015年7月28日火曜日

株式会社GREAT SMILE 代表取締役 牟田伸吾氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社GREAT SMILE 代表取締役 牟田伸吾氏登場。
本文より~

空手2段。

「空手は幼稚園からはじめて中学3年生まで。ラグビーは小学3年生から高校まで続けました」。目立ちたがり屋のお調子者だったと、牟田は子どもの頃をふり返る。
 人気もあって生徒会にも名を連ねた。「どちらかと言えば、ムードメーカーですね」と牟田。高校は、ラグビーの強豪校に進学。ベスト8まで進んだ経験もあるチームだった。そのチームのなかでも、ムードメーカー的な存在だったそう。
「小さい頃からスポーツをやっていますが、高校のラグビーはきつかったですね。『辞める』というのがスキじゃなかったから続けているようなもんでした(笑)」。
牟田の父は、刑務官をされていた。厳しい父だったそうである。小さな頃からスポーツで精神を鍛えられ、父からもまたつよい心を育まれた。そういう精神や心がなければ、とっくに辞める選択をしていたかもしれない。
もっともムードメーカーが逃げ出すわけにもいかなかったのかもしれないが。ともかく、スポーツ漬け。それが、牟田の少年期である。
大きな体格をした「やさしくて、ちからもち」。そういう表現がぴったりの少年だったに違いない。

幼稚園の先生に。

「幼稚園の先生になりたかった」と牟田は笑う。子ども好きが、その理由。高校3年の時に思いは膨らみ、保育士の資格が取得できる短大へと進学した。
「父が公務員だったもんですから、私にもそういう道を進ませたかったようです。でも、私は同じ公務員でも、父とは異なることがしたかったので、幼稚園の先生はちょうどいい目標となりました」。
ただし、短大に進学した牟田は、目標はひとまず置いて、バイトに明け暮れるようになる。
「飲食のバイトが大半です。料理を作るのが楽しくって。バイトを掛け持ちしていた時もあるんです」。
短大卒業後は、子どもたちの先生にはならず、年配の人たちをサポートする仕事に就いた。
「老人ホームです。でも、在籍したのは1年足らずです。理事長と反りが合わず、退職してしまいます。それから大阪の堺市で建築リフォームの営業をしていました。この会社で4年ほど勤務しました。東京支社ができたのが、きっかけで私も東京に移りました。24歳で退職した後は、マンションの営業を1年ちかく経験しています」。
1年ちかくと言えば、もう25歳である。飲食や独立というワードはいつ頃から出てくるのだろうか。新井ヒロとは、もうすでに出会っているはずだ。

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2015年7月24日金曜日

女性専門の30分の健康教室、東急オアシス「fit」に武田出てます。

女性専門の30分の健康教室、東急オアシス「fit」に、武田がモデルで出てます。
是非お近くの女性の方、一度見学に行かれご利用ください。

青葉台店

2015年7月21日火曜日

PJ Partners Group Ltd CEO 高橋世輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”PJ Partners Group Ltd CEO 高橋世輝氏登場。
本文より~

台湾で生まれ、育った少年。名は「ゴ」と呼ばれていた。

小さな頃は「ゴ」と呼ばれていたそうだ。高橋の父は台湾人で、母は日本人。だが、母も台湾で生まれている。小さな頃、高橋が暮らしていたのは、台湾。「台湾では日本語はいっさい使わず、マンダリン語、北京語を使っていた」という。
日本に来たのは10歳の時。子どもだから生活にはすぐに慣れた。ただ、日本語はそう簡単にマスターできなかったそうだ。名前が「高橋世輝」と代わったのは、中学生の頃。当時は、陸上部に所属していた。高校は都内の城北高校に進学。米国への留学を決意したのは、この高校時代。英会話をマスターするため、「英会話教室」にも通いだした。準備、万端。大学進学時に、アメリカに向かった。

ワシントン大学からモルガン・スタンレーへ。

「私が最初に通ったのは、ミズーリ州にある『メルビルカレッジ』です。こちらで2年間過ごし、奨学金が下りたので、3年目にワシントン大学セントルイス校に転校しました」。
ワシントンと名はついているが、ワシントン大学もミズーリ州にある。全米の大学のなかでもトップクラスの大学であり、「中西部のハーバード」と言われている大学である。
「アメリカというのは、私に大きな影響を与えてくれた国です。他人に流されず、すべて自分で決める。こういう習慣が身に付いたのもアメリカで暮らしたからです。大学卒業後もアメリカで暮らすつもりだったんですが、就職することになったモルガン・スタンレーが当時、日本に進出していて、『トウキョー』に行ってくれないかと言われて。それで帰国。1986年のことでした」。
1986年。ご想像通り高橋を待っていたのはバブルに突入した日本である。

香港では、アジアの海運王『包玉剛』の関連会社に就職する。

高橋が担当していたのは、債権営業というカテゴリーらしい。モルガン・スタンレーでは、計7年間勤務している。転機は、香港で観た風景だった。「当時、香港は返還前です。活気に溢れていて、私もすっかり魅了されてしまいました」。
アジアで仕事がしたいと高橋は思うようになる。一度、思えば突っ走るのが、高橋流。
「大学の先輩が香港の大財閥の関係者で、『資産管理会社があるから、そちらで勤務しないか』と言われました。その会社は、アジアの海運王『包玉剛』に関係していました。その会社では、1992年~1995年まで勤務しました。父が急に他界し、それをきっかけに帰国。父の会社は妹が継ぐことになりましたが、私はそのまま日本で暮らすことしました」。

オージーワインの店。

高橋は、帰国後、定職を持たず金融やベンチャー企業などを経営する友人の仕事を手伝ったりしていたそうだ。「これだ」という仕事に巡り合えなかったとも言えるし、手伝っているだけでも十分な収入が得られたからだとも言える。そんな時、行きつけのバーが、クローズするという話を聞いた。「ロック125」という店だった。
「この店は、当時めずらしいオージーワインを揃えたリーズナブルな店でした。流行ってもいたんですが、ビルの建て替えでクローズすることになったというんです。それで、もったいないなと思って、店長に独立を勧めたんです。独立の資金は、私が出資しました。元の店のオーナーにも独立の許可をいただき、彼を店長に『アロッサ渋谷』の営業を開始したんです」。15年前の話である。


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2015年7月15日水曜日

有限会社All for one corporation 代表 工藤哲也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社All for one corporation 代表 工藤哲也氏登場。
本文より~

100年目の生徒会長。

「商売上手な人だった」と工藤氏は、父のことをそう表現する。工藤氏の父親は、埼玉県鳩ケ谷市(現、川口市)で有名な靴店の店主だった。
「一部上場企業の創業者も来られたし、ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんも来られたことがありました。父は、腕はともかく、人あたりがよかったんです(笑)」。
もっとも、客に見せる顔と、家族に見せる顔は違っていたようだ。工藤氏は、父親を「好きじゃない」と言う。
工藤氏が生まれたのは1960年4月2日、昭和35年である。生まれは、父の店があった鳩ケ谷市。「いまは川口市となっていますが、私が生まれた頃の鳩ケ谷は、このあたりの中心街で、江戸時代から日光御成街道の宿場町として発展したそうなんです」。
「昔から人も多かったんでしょうね。私が卒業した鳩ケ谷小学校は、当時で、すでに100年の歴史があり、実は、私が100期目の生徒会長なんです」。
「子どもの頃から、目立つのも好きだし、役職に就くのが好きだった」と工藤氏。小学6年生時の身長は172センチ。役職うんぬんは関係なく、この体格だけで、十分目立った存在だったはずである。

172センチの小学生。中学で、バスケット部に入る。

背が高かったから、バスケ部に入ったわけではない。中学の部活の話である。
「最初は、水泳部がいいなと思っていたんです。でも、近くに住んでいる先輩に誘われたこともあって、結局、バスケ部に入部しました。当時、バスケには、先輩にキレイな人がたくさんいて。特に3人飛び抜けた人がいて参ってしまったんです。『こりゃ、水泳をやっている場合じゃない』って(笑)」。
特別な3人のそののちの話を聞いて驚いた。映画で主演女優を務めた人など、有名な女性ばかりだったからである。キレイな女性たちに惹かれるようにして始めたバスケットボールだったが、背が高かったこともあったのだろう、すぐに周囲から期待されるような活躍を開始。3年時には県大会にも出場している。
高校でも、バスケットボールを続けた。「明大中野高校」。当時、10年連続でインターハイに出場。全国制覇も1度果たしている。常にベスト4入りしていた名門である。
「たまたまです。セレクションを受けて通りました。全国からいい選手があつまってくる学校でしょ。刺激もあって、そう特に、顧問の先生からいろいろ教わりました。顧問の先生は、私の人生の師です。私のことは名前も覚えていらっしゃらないでしょうが、私は先生が言った言葉まで頭に残っています」。
練習方法も、かわっていたそうだ。「『人間、集中力は5分くらいしか持たない』って、練習も2時間くらいで終わりなんです。もっとも、先生を交えた練習は戦術的なことで、コミュニケーションの取り方などが基本。だから、生徒たちは、全体練習後も残って自分たちで基礎練習を行うんです。この自主性も強豪だった理由の一つかもしれません」。

借金3000万円。「高校を辞めてくれ」、母の一言。

「バスケをやっていなかったら、高校を中退していたかもしれない」と工藤氏は、漏らした。
高校1年の時のことである。
「実家が火事をだして、となりの家にも火が移ってしまったんです。それで、当時のお金で3000万円の借金ができてしまいました。母親から『学校を辞めてくれ』と言われたんですが、当時NTTに勤めていた姉が『高校だけは』といって、学費をだして卒業させてくれたんです」。
姉の心遣いとバスケットボール。高校に最後まで残ることができたのは、この2つの支えがあったからだろう。
しかし、当時のことを工藤氏はこうも言っている。「周りの奴らとは、ぜんぜん立場が違うわけですよ。だから、劣等感というかね。そういうことも感じていた。バスケが一つの救いになったのは、バスケの最中だけは、劣等感を感じずに済んだからかもしれません」。

夜の銀座と六本木と工藤氏。

高校3年、夏のインターハイが終わってから、工藤氏は人生初のバイトを開始。大学生になると知り合いの紹介で、銀座で住み込みのバイトも開始する。進んだ大学は、一般ではなく、夜学である。
「紹介で始めたのは、銀座の喫茶店のバイトです。店のビルの屋上にプレハブがあって、それを借りて暮らしていました。『傷だらけの天使』ってドラマがあったんですが、文字通り、あんな感じです(笑)」。
朝、住み込みの喫茶店で働いて、大学に行くといっては夕方からまた働き、「月に70万円くらい稼いでいた」という。
そののち、銀座、六本木が工藤氏のホームグラウンドになる。「私の人生にとって、銀座に出てきたというのは、大きな転機だと思うんです」と工藤氏。
周りの煌びやかさに照らされて、工藤氏の生活も派手になった。「3~4ヵ月で300万円貯めては、パーッと使っちゃいました。大好きな子がいて、つぎ込んでいた時もあった。当時はバブルで、そういうお金をお金だと思わない空気だったんです。私もボーイとかをやっていたから、チップだけで30万円くらいもらっていました」。
羽振りも悪くない。だが、上には上がいる。銀座のクラブのナンバー1。その女性がいつのまにか、工藤氏の彼女になった。
「今で換算すると月に1000万円くらいだったと思いますよ。彼女の給料は。ヒモみたいな暮らしです。ある時、彼女が『将来、なにをしたいの?』って聞くから『飲食かな』っていうと、『私が教えてあげるって』言って」。
「なんだかんだ言っても、吉野家が旨いと思っていた年頃ですよ。でも、彼女に連れていかれたのは、目の玉が飛び出るような店ばかり。『これが、おいしい肉なんだよ』って。そりゃ、値段とおなじくらい驚きの旨さでした。そうやって少しずつ勉強していったんです」。
どうでもいい話だが、工藤氏は、その12歳年上の彼女と「結婚したい」と思っていたそうだ。しかし、彼女からこう言われた。
「あなたはもっと若い人と結婚したほうがいいわ」。
その言葉は、夜の街との別れを示唆していたのかもしれない。


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2015年7月7日火曜日

株式会社パートナーズダイニング 代表取締役社長 大藤充啓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社パートナーズダイニング 代表取締役社長 大藤充啓氏登場。
本文より~

スポーツ大好きな元気な子。

大藤氏が生まれたのは、1963年、昭和38年の7月。半年ほど経って、東京から兵庫県に移り住む。「兵庫県の尼崎市に父が工場を建てました。車の修理工場です。私たち家族は、西宮に住み、私はその町で大きくなります」。
父も、祖父も車の修理の仕事をしていた。「当時は、車の性能もそれほど高くないし、修理の依頼も多かったんでしょう。車検もまだ2年に1回だったし。だから、多い時にはうちにも、13人くらいのスタッフがいました。家庭は、それなりに裕福だったと思います」。
兵庫県の西宮市。住環境に恵まれている街である。「父は、酒が一滴も飲めなかったんですが、食道楽だったんです。私たち子どもも小さな頃から、外食の経験が多かった気がします」。父はドライブも好きで、母の実家がある東京へは、いつも車で向かった。長距離ドライブである。
「子どもの頃の大藤さんは、どんな人だったんですか?」と聞いてみた。「そうですね。落ち着きのない、元気な子。スポーツ大好きで、優等生だったと思います」。勉強も、「中学生までならできた」と言って笑う。
リトルリーグ、カブスカウトにも入っている。からだを動かすのが大好きだった。「中学の頃は、関学でアメフトを、と思っていたんです。だから、足を鍛えようと、中学は陸上部です。駅伝で、市大会や県大会にも出場しました」。

バイト先の店長は、現「すかいら~く」社長、谷 真氏だった。

高校では、ラグビー部。少しだけ、アメフトにちかづいた。部員は30人。当時は、まだ「水は、飲むな」の時代。「ジャージに染み込んだ汗を吸ったこともある」という。たいへんだったが、逃げずに3年間やり通した。「関学で、アメフト」という思いが、あったからなのだが、1年目は、失敗。2年目も、不合格で、「関西外大」に進学した。「進学したのは、いいんですが、1年生を2回やって、卒業してしまいました(笑)」。2年間で取得したのは、たった6単位。キャンパスに立ったのも、わずか20回しかない、そうだ。
「理由は、サーフィンとバイトです。この時、バイトしたのが、宝塚にできた『イエスタデイ』というレストランです」。
「イエスタデイ」は、1980年代中頃にオープンしたアーリーアメリカン調のカジュアルレストランで、「すかいら~く」の新ブランドだった。「その、オープンした宝塚店の店長が、いま『すかいら~く』の社長を務めておられる谷さんだったんです」。
先輩たちにも、魅せられた。「とにかく、大好きだったんです。大学を中退して、ウエットスーツの会社に就職するんですが、それでも週に1~2回は、『イエスタデイ』でバイトしていたほどです」。

大和実業、入社。

やるなら、飲食。そう思うようにもなっていたんだろう。多彩なブランドを展開する「大和実業」に転職した。「『イエスタデイ』でも、バーテンをやっていたもんですから、こちらでも、ワインバーを担当するようになります。飲食のたのしさは、『イエスタデイ』で学び、大和実業では『飲食の奥深さ』を学んだ気がします」。
当時の社長は岡田一男氏。「人の大和実業」と言われるほど、人に焦点をあて、人も、会社も育てた名伯楽であり、敏腕経営者でもある。
「社会人の基礎を学んだのも、大和実業です。先輩たちにも刺激され、特に最初に配属された店の店長には、いちばん大きな影響を受けたと今でもそう思っています」。
店長昇格から、快進撃がはじまった。「当時、年2回、優秀な店長が東西で各3人、選ばれ、東なら西へ、西なら東のエリアに行って成果報告をするんですが、私は、入社して最初の報告会、以外はすべて選ばれています」。
会社の評価も高い。飲食は、案外、「パッケージ」が大事だと思われがちであるが、大藤氏は、店長によって「前後20%は違う」と明言する。「パッケージ」が、いかに優れていても、「人不在では、店は成立しない」というのだ。
これが、氏のいう飲食の奥深さにも、つながっているのだろう。2002年、大藤氏は、セラヴィリゾートに転職する。

・・・続き

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2015年7月6日月曜日

夕刊フジに、ランチパスポート掲載各店舗名掲載。

夕刊フジに、ランチパスポート品川・大井町・田町版Vol3にご掲載頂いた品川エリア(6/10掲載)、大井町エリア(6/16掲載)、田町エリア(6/24掲載)の店舗名の一覧付き広告出してもらいました!
(品川エリア 6/10掲載:夕刊フジ)
 (大井町エリア 6/16掲載:夕刊フジ)
 (田町エリア 6/24掲載:夕刊フジ)
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2015年7月4日土曜日

ランチパスポート品川・大井町・田町版にご掲載のディナータイムで特典ある店舗の情報記事出ました。

7月3日発行の夕刊フジにて、ランチパスポート品川・大井町・田町版第3弾(6月1日発行)に掲載頂いた店舗様のディナータイムの特典ある店舗の情報記事が出ました!!
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2015年7月1日水曜日

30日、千葉商科大学池田ゼミにてヴォーノテーブルコーポレーションの武藤社長の講義でした。

今年で4年目に突入の現役飲食経営者によるゼミ講義。
30日は千葉商科大学・サービス創造学部の池田ゼミにて、ヴォーノ・イタリアを運営されてるヴォーノテーブルコーポレーションの武藤社長の講義でした。
今回は、池田先生の案でなんとヴォーノ・イタリアのアイドルタイムの活用の提案を学生たちに出してもらうという今までに無かった内容でした。
これいいですね。
この講義にあたり事前勉強会をしてもらっていました。
池田ゼミ生の皆さん、池田先生に感謝です!!
また、武藤社長も学生目線で対応頂き、大変いい講義でした。
(5月にオープンした斬新な学食スペースです)
(武藤社長、千葉商科大学正門にて)

 (各班の発表、その1)
 (各班の発表、その2)
  (各班の発表、その3)
  (各班の発表、その3)
(各班の発表、その4)
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