2015年7月7日火曜日

株式会社パートナーズダイニング 代表取締役社長 大藤充啓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社パートナーズダイニング 代表取締役社長 大藤充啓氏登場。
本文より~

スポーツ大好きな元気な子。

大藤氏が生まれたのは、1963年、昭和38年の7月。半年ほど経って、東京から兵庫県に移り住む。「兵庫県の尼崎市に父が工場を建てました。車の修理工場です。私たち家族は、西宮に住み、私はその町で大きくなります」。
父も、祖父も車の修理の仕事をしていた。「当時は、車の性能もそれほど高くないし、修理の依頼も多かったんでしょう。車検もまだ2年に1回だったし。だから、多い時にはうちにも、13人くらいのスタッフがいました。家庭は、それなりに裕福だったと思います」。
兵庫県の西宮市。住環境に恵まれている街である。「父は、酒が一滴も飲めなかったんですが、食道楽だったんです。私たち子どもも小さな頃から、外食の経験が多かった気がします」。父はドライブも好きで、母の実家がある東京へは、いつも車で向かった。長距離ドライブである。
「子どもの頃の大藤さんは、どんな人だったんですか?」と聞いてみた。「そうですね。落ち着きのない、元気な子。スポーツ大好きで、優等生だったと思います」。勉強も、「中学生までならできた」と言って笑う。
リトルリーグ、カブスカウトにも入っている。からだを動かすのが大好きだった。「中学の頃は、関学でアメフトを、と思っていたんです。だから、足を鍛えようと、中学は陸上部です。駅伝で、市大会や県大会にも出場しました」。

バイト先の店長は、現「すかいら~く」社長、谷 真氏だった。

高校では、ラグビー部。少しだけ、アメフトにちかづいた。部員は30人。当時は、まだ「水は、飲むな」の時代。「ジャージに染み込んだ汗を吸ったこともある」という。たいへんだったが、逃げずに3年間やり通した。「関学で、アメフト」という思いが、あったからなのだが、1年目は、失敗。2年目も、不合格で、「関西外大」に進学した。「進学したのは、いいんですが、1年生を2回やって、卒業してしまいました(笑)」。2年間で取得したのは、たった6単位。キャンパスに立ったのも、わずか20回しかない、そうだ。
「理由は、サーフィンとバイトです。この時、バイトしたのが、宝塚にできた『イエスタデイ』というレストランです」。
「イエスタデイ」は、1980年代中頃にオープンしたアーリーアメリカン調のカジュアルレストランで、「すかいら~く」の新ブランドだった。「その、オープンした宝塚店の店長が、いま『すかいら~く』の社長を務めておられる谷さんだったんです」。
先輩たちにも、魅せられた。「とにかく、大好きだったんです。大学を中退して、ウエットスーツの会社に就職するんですが、それでも週に1~2回は、『イエスタデイ』でバイトしていたほどです」。

大和実業、入社。

やるなら、飲食。そう思うようにもなっていたんだろう。多彩なブランドを展開する「大和実業」に転職した。「『イエスタデイ』でも、バーテンをやっていたもんですから、こちらでも、ワインバーを担当するようになります。飲食のたのしさは、『イエスタデイ』で学び、大和実業では『飲食の奥深さ』を学んだ気がします」。
当時の社長は岡田一男氏。「人の大和実業」と言われるほど、人に焦点をあて、人も、会社も育てた名伯楽であり、敏腕経営者でもある。
「社会人の基礎を学んだのも、大和実業です。先輩たちにも刺激され、特に最初に配属された店の店長には、いちばん大きな影響を受けたと今でもそう思っています」。
店長昇格から、快進撃がはじまった。「当時、年2回、優秀な店長が東西で各3人、選ばれ、東なら西へ、西なら東のエリアに行って成果報告をするんですが、私は、入社して最初の報告会、以外はすべて選ばれています」。
会社の評価も高い。飲食は、案外、「パッケージ」が大事だと思われがちであるが、大藤氏は、店長によって「前後20%は違う」と明言する。「パッケージ」が、いかに優れていても、「人不在では、店は成立しない」というのだ。
これが、氏のいう飲食の奥深さにも、つながっているのだろう。2002年、大藤氏は、セラヴィリゾートに転職する。

・・・続き

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