2015年8月18日火曜日

株式会社ハブ 代表取締役社長 太田 剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ハブ 代表取締役社長 太田 剛氏登場。
本文より~

1961年生まれ。

父は公務員一筋。息子2人にもできれば「公務員になって欲しい」と思われていたそうだ。そんな息子の1人、次男の太田氏が生まれたのは1961年のことである。
「父は公務員として、バスの整備士を務めていました。私も何度か事務所におじゃまして、卓球台を拝借してこっそり卓球を楽しんだりしていました」。今思えば、当時は高度成長期で日本人は「エコノミックアニマル」と揶揄されたりもしていたが、おおらかな時代でもあったようだ。
「兄は、両親の自慢の息子でした。小学校から野球をはじめエースで4番。当時、甲子園出場の常連校だった『東洋大姫路』に進みます。う~ん。比較されたわけではありませんが、3つしか違わないわけですからコンプレックスみたいなのはたしかにありました。私も、小学校から野球を始めたんですが、ぜんぜんダメでしたし(笑)」。
今は私学で校長をされているという太田氏の兄は、甲子園に出場するために「東洋大姫路」に進学されたが、「兄の代だけ、『報徳学園』に負けてしまった。だから、甲子園には行けてないんです」ということだ。
兄を追いかけ、野球を始めた太田氏だが、野球には見切りをつけ、中学で陸上に転向する。長距離ランナーだ。
「それで、私は兄とは逆に『報徳学園』に進むんです。当時、駅伝で言えばナンバー1の高校です。実際、私の卒業後、全国3連覇しています。今では、県立の『西脇工業』が有名ですが、当時は、『報徳』と『西脇』が兵庫県で交互に優勝し、そのまま全国を制覇していました。兵庫県で優勝するということは、全国大会で優勝するのとある意味、同じだったんです。練習も、戦いも、そりゃ過酷でした」。

痛恨の一敗。

「30年間くらいね、頭から離れなかったことがあるんです」と太田氏は当時のことをふり返る。「私が3年生の時です。駅伝はレギュラーが7人、補欠が3人の計10人で試合に臨みます。3年まで続けたのは4人で、私もそのうちの1人だったんですが、最後の大会で私はレギュラーから外されてしまったんです。代わりに1年生の名が呼ばれました」。
3年、最後の大会。実は、大会前の選考会で、その1年生に数秒の差をつけられていた。
「言い訳になりますが、その時は調子が悪くてスピードがのらなかったんです。それまでのタイムなら私のほうが速かった。もちろん、負けたこともなかった。しかも、相手は1年でしょ。悔しかった。思っちゃいけないけれど『怪我しろ』って」。
痛恨の一敗。しかし、この一敗が、太田氏を奮い立たせる起爆剤ともなった。大学で駅伝をつづけたのも、この一敗があったからである。

大阪経済大学、陸上部。

だいたい長距離選手の練習とはどんなものかと思って、聞いてみた。「午前に30キロ、午後に30キロ。もちろん、毎日じゃないですが…」と太田氏はさらりと答える。聞けば高校時代で20キロだったそうだ。
「当時、『大阪経済大学』っていうのは、全国に出場できるかどうかのギリギリのレベルでした。関西では3番目くらいには位置づけられていたんです。私が2年、3年、4年の時に3年連続で、全日本駅伝大会に出場することができました」。
高校時代のリベンジである。
太田氏は、とにかく走りつづけた。
「中学の時からそうですが、とにかく走ること一筋です。雨の日も、風の日も。そりゃ、母親には感謝です。朝早くから起きて、ずっと弁当つくってくれて。でも、それだけに高校3年の時の最後の大会は悔しくて、応援してくれた父や母にも申し訳なかったんです。でも、それがあったから大学でもつづけられたんだと思います」。
悔しさは、バネになった。
余談になるが、太田氏がOB会に初めて参加したのは、卒業して26年経ったある日のことだ。
「監督が第55回全国高校駅伝を最後に退任されるのを新聞で読んで、なぜか、どうしても会いたくなったんです。それで、監督に『なんであの時、ぼくじゃなかったんですか?』とたずねてみたんです。そうしたら『勝負に負けたからや』と一言。そう、単純なことだったんです。『負けたから』、そうあっけらかんと言われて、26年間モヤモヤしていたのが、はじめて解消されました」。
26年と言えば、太田氏が44歳の話である。

就職先、「HUB」の話。

さて、太田氏と「HUB」の話に進めよう。「私が『HUB』と出会ったのは、就職活動中のことでした」。仲間と連れ立って向かった神戸・三宮の「HUB」1号店。
「衝撃的でしたね。三宮ということもあって、半分くらいのお客様が外国人でした。ビールが一杯180円。セルフサービスのキャッシュ・オン・デリバリー(COD)です」。
「その時はダイエーが親会社として経営しているとは知らなかったんですが…。大学時代も唯一、ダイエーの倉庫でバイトをしていたもんですから、そういう縁だったのかもしれません。とにかく、後日、会社説明会があるのをみつけて、参加します。創業したのが、1980年で、私が説明会に参加したのは1982年。バリバリの創業期です。スタッフも正社員は、まだ13名しかいなかった。目標は10年1000店舗。こりゃ、私にもチャンスがあるんじゃないか、と。それに、神戸に住む私たちにとって、ダイエーの創業者である中内さんは神様みたいな人でしたから」。
その神様と直接、語り合ったのは太田氏が「HUB」に就職して、20年ちかく経った頃だった。とにかく「HUB」でも、一筋。「キャッシュ・オン・デリバリーが一般的ではなかった頃には、財布を投げられたこともある」という。創業当時の熱気を知る数少ないスタッフでもあったことだろう。その太田氏が、神様と話した。
「むろん、それまでもお会いはしていました。中内さんは『HUB』のことが大好きで、店にもちょくちょく来られていましたから。ただ、直接、本音の話をぶつけるチャンスはなかった。いつもお付の人がいらっしゃいましたし」。
「あれは、私が浅草の店にいた時です。はじめて、お1人でフラリとおいでになったんです。それで『帰るわ』と言って席を立たれたんですが、誰もいない。『運転手は?』と聞くと、歩いて100メートルくらい先に止めてあるというんです。これは、チャンスだと思いまして。車までお送りするというのを口実に、何故、英国パブなのか、を伺ったんです。そうしたら、パブの歴史を語られ、日本の居酒屋との違いも含め、中内さんが考えるパブ文化についても語っていただけました」。
何故、英国パブなのかの、明確な答えが、尊敬する経営者の口から放たれた。初めて、神様の熱に触れた気がした。
「中内さんが好きなイギリスのパブは、サラリーマンが会社帰りに、1杯か2杯のお酒を飲んで、1日をリセットする店として利用されているんです。居酒屋のように『食べながら、飲む』じゃなくて、『飲みながら、会話する』。それが正しいパブの利用方法です。会話はあるが、愚痴はない(笑)。潤滑油として、暮らしを豊かにする。そういう場であり、文化なんです」。「だから、最後にこう言われました。『食事メニューには手をだすなよ』って。これはむろん飲食店にとっては、とんでもない決断です。それを貫くには、売上を捨てることにほかならないからです。しかし、中内さんの覚悟は、まさにその一言に凝縮されていたと思うんです」。
英国パブを日本に。それを太田氏は、「中内さんの遺言」だと語っている。

・・・続き

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