in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にLA BETTOLA da Ochiai オーナーシェフ 落合 務氏登場。
本文より~
別荘で、産声をあげた落合氏。
1947年、落合氏は祖父が所有する鎌倉の別荘で生まれた。別荘を所有していたことからも想像できる通り、祖父はかなりの資産家だったそうだ。
「鎌倉生まれ、足立区育ちです」と落合氏。「当時、祖父はメッキ工場を営んでいて、かなり裕福でした。私の父と母が結婚したのは18歳の時で、母は19歳で私を生んでいます。一児の父になっても、父は定職に就かなかったそうで、私も含めて家族3人が、祖父に扶養されているようなものだったと聞いています」。
日曜日になると親子3人、自転車で浅草や上野に遊びに出かけたそうだ。「そんな贅沢をしても大丈夫な幸せな時代だったんです」と氏は語っている。
子どもの頃、なりたかったのは商社マン。
いままでインタビューしてきたシェフたちは、たいてい「子ども時代から手先が器用だった」といった。落合氏にも聞いてみたが、氏は「釘も打てず、ノコギリも上手に使えず、絵もへたくそだった」と笑い声をあげた。料理にも特段、「関心はなかった」という。
成績は優秀。小学校5年生から四谷大塚に通い、日大付属中学に進学している。
「将来は、商社マンになりたいと思っていたんです。父のように慕っていた叔父も『それがいいぞ』と言ってくれていたし…。商社マンという仕事を正確に把握していたわけじゃないんですが」。
落合氏と同年代の人に、子ども時代の話を聞けば「海外生活など思いもつかなかった」という答えが返ってくるだろう。それほど当時、「海外」は遠い存在だった。落合氏にしても、「海外で暮らす」ためには、商社で働くという手段しか思い浮かばなかったのではないだろうか。
ともかく「いい大学に入り、大きな商社に入って、海外へ羽ばたく」。落合氏の夢は、未来へと広がっていた。
「もうやってられるか」と吠えた日のこと。
「成績が良かった」と書いたが、これは周りの期待に応えようと健気に努力した結果だったかもしれない。氏は、高校時代のことと言いながら、「私は成績が優秀だったので、みんなから期待されていたんですよ。当時は、その期待に応えようと、私も頑張ってきたわけですが、だんだん『どうでもいいや』って思うようになっていくんです」と語っている。
落合氏が高校に上がる頃には、すでに祖父が事業を失敗していたこともあって、以前のように裕福というわけにはいかなかった。それでもまだ動産、不動産は沢山あった。「父が食べ尽くすのに、一生かかったくらいにはね」と落合氏は、苦笑する。
「もっとも堪えたのは、祖母が亡くなったことです。特に、父の3回目の離婚が、祖母の死に直結していたこともあって、かなりショックを受けたんです」。
落合氏にとって祖母は、特別な存在だった。裕福な環境だったが、父が何度も離婚を繰り返すなど複雑な家庭環境のなかで、いつも落合氏を支えてくれていたのが祖母だったからである。落合氏と落合家を結ぶ糸がプツリと切れてしまったようだった。
「もうやってられるか」。
落合氏は、空に向かって吠えた。
高校、中退ス。
高校1年、落合氏は、中退を決意する。親に轢かれたレールを走るのはもう懲り懲りしていたから。もちろん、「いい子」も卒業だ。「ただ、目標もなく、中退なんていうのが悔しくてね。それで職人だ、コックだって言ってね。実は、口実が欲しかっただけなんだ」。
父が、日本橋にある、知り合いのレストランオーナーを紹介してくれた。とりあえず、目指すはフレンチの料理人。動機はともかく、自ら決めた初めての道だった。
ホテルニューオータニの厨房に立つまでの話。
「初めてですから、比較はできなかったんですが、『何か違うな』と思ったんです」。父が紹介してくれた店での話である。
「素直にその気持ちをオーナーに伝えました」と落合氏。すると、オーナーは落合氏の思いをしっかり聞いて、別のレストランを紹介してくれたのだという。
「紹介してもらったのは、『トップフード』というお店です。幸いにも私は人にとても恵まれました。この店の方々もみんないい人ばかりで。しかし、この店もあとにすることにしました。そして、最終的に『ニューオータニ』に落ち着きました」。
「ホテルがいい」という知人のアドバイスが決め手だったそうである。ともかく、落合氏の人生の前半を彩る「ホテルニューオータニ」時代が幕を開ける。