in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社オー・エム・フードサービス 代表取締役 山本義之氏登場。
本文より~
目立つことも大好きな少年、山本。
山本氏が生まれたのは、1975年。父は、公務員。兄弟は男ばかりの3人で、山本氏は次男。小さい頃から、運動も勉強も人並み以上だったそうで、「家に近い」という理由だけで受けた高校は、地元でも有数の進学校だった。
「父と母がケンカをしているのをみたことがないんです。父は、温厚で、子どもたちに対しても怒ったことがありません。私は、高校在学中に『起業しよう』『社長になろう』と決めていましたから、大学に進学するつもりはぜんぜんなかったんですが、それに対しても何も言わず、温かく見守ってくれる人でした」。
「どうして、そんなに早く社長になりたかったんですか?」と直裁に聞いてみた。
「音楽をやっていたこともあって、ミュージシャンになろうと思っていたんですが、冷静に考えれば無理だな、と(笑)。でも、人に使われるのはイヤだったんで、残された道は社長しかないと思ったんです」と言って笑う。
目立つことも大好きだった少年の選択は、「社長」と言う職業を選択するに至った。ちなみに、その高校から、就職を希望・選択した生徒は400名中、数名だったそうだ。
「父と母がケンカをしているのをみたことがないんです。父は、温厚で、子どもたちに対しても怒ったことがありません。私は、高校在学中に『起業しよう』『社長になろう』と決めていましたから、大学に進学するつもりはぜんぜんなかったんですが、それに対しても何も言わず、温かく見守ってくれる人でした」。
「どうして、そんなに早く社長になりたかったんですか?」と直裁に聞いてみた。
「音楽をやっていたこともあって、ミュージシャンになろうと思っていたんですが、冷静に考えれば無理だな、と(笑)。でも、人に使われるのはイヤだったんで、残された道は社長しかないと思ったんです」と言って笑う。
目立つことも大好きだった少年の選択は、「社長」と言う職業を選択するに至った。ちなみに、その高校から、就職を希望・選択した生徒は400名中、数名だったそうだ。
100万円超の月収と、小っちゃいお山の大将という危機感。
「最初に就職したのは、建設関係の会社です。就職情報誌で、いちばん給料が良さそうな会社を選びました」。
雑誌には20~50万円以上という風に書かれていたらしい。面接に行くと「もちろん、最初は20万からだ」と言われた。それで、「50万円になるのはいつ頃かと」聞く。
「資金を貯めるのが目的だから、聞かずにはおれなかったんです。すると、2~3年くらいと言われ、よし、だったら俺は半年で50万円もらえるようになってやろうと思ったわけです」。
資金を貯めるという目的もあったが、金遣いもハンパではなかった。カマロをキャッシュで買ったのも、この頃。
「有言実行通り、仕事を徹底的に覚え、半年で親方の立場になり、50万円程稼げるようになりました。更に2年後には、独立して仕事を請け負うというかたちで、100万円を超える月も少なくありませんでした」。
たしかに、収入は高かった。20歳で、100万円。天狗になっても可笑しくない。しかし、山本氏は、危機意識を持ち続けていたそうだ。
「このままでは、小っちゃいお山の大将にしかなれない」。
雑誌には20~50万円以上という風に書かれていたらしい。面接に行くと「もちろん、最初は20万からだ」と言われた。それで、「50万円になるのはいつ頃かと」聞く。
「資金を貯めるのが目的だから、聞かずにはおれなかったんです。すると、2~3年くらいと言われ、よし、だったら俺は半年で50万円もらえるようになってやろうと思ったわけです」。
資金を貯めるという目的もあったが、金遣いもハンパではなかった。カマロをキャッシュで買ったのも、この頃。
「有言実行通り、仕事を徹底的に覚え、半年で親方の立場になり、50万円程稼げるようになりました。更に2年後には、独立して仕事を請け負うというかたちで、100万円を超える月も少なくありませんでした」。
たしかに、収入は高かった。20歳で、100万円。天狗になっても可笑しくない。しかし、山本氏は、危機意識を持ち続けていたそうだ。
「このままでは、小っちゃいお山の大将にしかなれない」。
文字通り、人の3倍やり抜いたディベロッパー時代。
名古屋でも有数のディベロパーに転職したのは、もう少しダイナミックな仕事をしたかったからだ。「ディベロッパー」という言葉には、山本氏が求める大きさがあった。
「23歳の頃です。営業という仕事は、やったこともない。だから、一度挑戦だという思いもあったんです」。
驚くことに、このディベロッパーでも、すぐに頭角を現す。サポートは仰いだが、1ヵ月目に初契約をいただいてから、退職するまでのおよそ3年。一度も契約がゼロの月がなかったそうだ。むろん、記録的な実績である。
「給与は、固定給が16万円。あとは、歩合です。私の場合は、契約をたくさんいただけたんで、給与もそれなりに良かったです」。才能というのもあったのだろう。ただし、それだけではない。陰の努力もある。
「ほかの営業マンが、300枚のチラシを刷っているところを、私は1000枚刷って撒いていました」。夜、1000枚のチラシを持って、ポストに向かう。いわゆるポスティング。
地道な努力は、お金になって返ってきた。
3年後の25歳、「飲食」と心に決め、独立のため会社を辞めた時には2000万円くらい貯まっていたそうだ。
「23歳の頃です。営業という仕事は、やったこともない。だから、一度挑戦だという思いもあったんです」。
驚くことに、このディベロッパーでも、すぐに頭角を現す。サポートは仰いだが、1ヵ月目に初契約をいただいてから、退職するまでのおよそ3年。一度も契約がゼロの月がなかったそうだ。むろん、記録的な実績である。
「給与は、固定給が16万円。あとは、歩合です。私の場合は、契約をたくさんいただけたんで、給与もそれなりに良かったです」。才能というのもあったのだろう。ただし、それだけではない。陰の努力もある。
「ほかの営業マンが、300枚のチラシを刷っているところを、私は1000枚刷って撒いていました」。夜、1000枚のチラシを持って、ポストに向かう。いわゆるポスティング。
地道な努力は、お金になって返ってきた。
3年後の25歳、「飲食」と心に決め、独立のため会社を辞めた時には2000万円くらい貯まっていたそうだ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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