本文より~
コロンブスの伝記に魅了されて。
1977年12月20日、福岡市に生まれる。3人兄弟の次男で、兄と妹に挟まれて育った。「3歳違いの兄とよく喧嘩をした」と言って松嶋は笑う。
父は、旭硝子の関連子会社社長。父も母も大宰府出身である。
裕福な家庭だった。小さな頃から外食にもよく連れて行ってもらった。そのおかげもあるのだろう。「小さい頃から舌が肥えていた」という。
料理に対する思い入れも強く、「小学生の時には、すでに料理人になろうと決めていた」そうだ。理由はある。「漫画で描かれたコロンブスの伝記に感化されたんです。料理人だったらコロンブスのように海外へ行けると思ったんですね(笑)」。
海に出る、冒険心が少年の心をくすぐった。
当時の様子を伺うと、「勉強は並みだったけれど、できないスポーツは無かった」との返事。手先が器用だったと、料理人の卵だった少年時代の様子をそう語る。
中学生になっても、海外志向は薄れなかった。早く料理人になって海外へ飛び出したかった。「実は、高校にも行くつもりがなかったんです(笑)」。ご両親に説得され、やむなく高校に進学。
父は、旭硝子の関連子会社社長。父も母も大宰府出身である。
裕福な家庭だった。小さな頃から外食にもよく連れて行ってもらった。そのおかげもあるのだろう。「小さい頃から舌が肥えていた」という。
料理に対する思い入れも強く、「小学生の時には、すでに料理人になろうと決めていた」そうだ。理由はある。「漫画で描かれたコロンブスの伝記に感化されたんです。料理人だったらコロンブスのように海外へ行けると思ったんですね(笑)」。
海に出る、冒険心が少年の心をくすぐった。
当時の様子を伺うと、「勉強は並みだったけれど、できないスポーツは無かった」との返事。手先が器用だったと、料理人の卵だった少年時代の様子をそう語る。
中学生になっても、海外志向は薄れなかった。早く料理人になって海外へ飛び出したかった。「実は、高校にも行くつもりがなかったんです(笑)」。ご両親に説得され、やむなく高校に進学。
小さな冒険の始まり。
高校を卒業した松嶋は、初志貫徹、東京にある「エコール辻東京」に進学する。1年制の専門学校である。
海外への切符を獲得するために、地元を離れて小さな冒険に出た格好だ。本格的にアルバイトを開始したのも、この時から。バイト先は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」。人気のレストランである。
「1年間、『ヴァンセーヌ』でバイトをしながら、学校に通いました。その時からフレンチと決めていたんです。卒業後は、そのまま、『ヴァンセーヌ』に就職しました」。
これが、松嶋の第一歩。「『ヴァンセーヌ』で2年勤務して、「親戚からお金を調達して、なんのあてもないままフランスに向かいました(笑)」。
大胆と言えば大胆。松嶋の海外に対する想いは本物だった。
海外への切符を獲得するために、地元を離れて小さな冒険に出た格好だ。本格的にアルバイトを開始したのも、この時から。バイト先は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」。人気のレストランである。
「1年間、『ヴァンセーヌ』でバイトをしながら、学校に通いました。その時からフレンチと決めていたんです。卒業後は、そのまま、『ヴァンセーヌ』に就職しました」。
これが、松嶋の第一歩。「『ヴァンセーヌ』で2年勤務して、「親戚からお金を調達して、なんのあてもないままフランスに向かいました(笑)」。
大胆と言えば大胆。松嶋の海外に対する想いは本物だった。
20歳、渡仏。あてもない冒険に出る。
無謀といえば無謀だが、若さの特権でもある。20歳から松嶋はフランスで暮らすことになる。
単語を紡ぎながら、会話することで言葉はなんとか通じた。
さまざまな店を回り、仕事をもらった。
「向こうは日本のように上下関係というのが無くってフレンドリーです。合計、十数軒のレストランを転々として、シェフも任されました。料理はできる、できないかではなく、やりきるより他無かったですね」。
給料についても伺ってみた。
「日本より良かったですね。だから休日には他の店に視察に行くこともできました」。日本の青年が1人あてもなくフランスで修業の日々を送る。
「日本は出る杭を打つ文化。当時、そういう文化を持つ日本という国には正直興味が無かったんです」と松嶋は言う。そういう松嶋にとってフランスは、ある意味で対極の文化を持つ国と映っていたに違いない。
一方、松嶋のフランス生活を支えた人がいる。JALのスチュワーデスだった奥さまである。
「飛行機の中で知り合ったんです。彼女は私より14歳年上でした。私が24歳の時に結婚しました。ただその後、フランスのビザも取れていない状況で、今後やりたいこともあり、このままでは相手に迷惑をかけると思っていたんです。そして離婚の話を自ら切り出しました」。
ところが奥さまは、松嶋にそれまで貯めていたお金を渡し、「お店の開店資金に使って。その代わりに家は買ってね」と言われたそうだ。店をオープンすることで、フランスで暮らす足場を固めることができる。それは2人にとって最良の選択肢だった。
2002年12月20日、松嶋は25歳の誕生日にレストラン「Kei's Passion」を本場フランスのニースにオープンさせた。奥様の決意と愛情が松嶋の野望を支えたのだった。
単語を紡ぎながら、会話することで言葉はなんとか通じた。
さまざまな店を回り、仕事をもらった。
「向こうは日本のように上下関係というのが無くってフレンドリーです。合計、十数軒のレストランを転々として、シェフも任されました。料理はできる、できないかではなく、やりきるより他無かったですね」。
給料についても伺ってみた。
「日本より良かったですね。だから休日には他の店に視察に行くこともできました」。日本の青年が1人あてもなくフランスで修業の日々を送る。
「日本は出る杭を打つ文化。当時、そういう文化を持つ日本という国には正直興味が無かったんです」と松嶋は言う。そういう松嶋にとってフランスは、ある意味で対極の文化を持つ国と映っていたに違いない。
一方、松嶋のフランス生活を支えた人がいる。JALのスチュワーデスだった奥さまである。
「飛行機の中で知り合ったんです。彼女は私より14歳年上でした。私が24歳の時に結婚しました。ただその後、フランスのビザも取れていない状況で、今後やりたいこともあり、このままでは相手に迷惑をかけると思っていたんです。そして離婚の話を自ら切り出しました」。
ところが奥さまは、松嶋にそれまで貯めていたお金を渡し、「お店の開店資金に使って。その代わりに家は買ってね」と言われたそうだ。店をオープンすることで、フランスで暮らす足場を固めることができる。それは2人にとって最良の選択肢だった。
2002年12月20日、松嶋は25歳の誕生日にレストラン「Kei's Passion」を本場フランスのニースにオープンさせた。奥様の決意と愛情が松嶋の野望を支えたのだった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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