本文より~
混迷の先にあった父の死と挫折。
愛媛県の松山市で産声を上げた定松氏。幼少期から決して裕福な家庭では無かったが、特に不自由なく過ごしてきた。そして高校時代も順調にいくだろうと思えた。しかし、当時の学歴偏重な風潮に精神的に付いて行けず、進学クラスから落ちこぼれてしまうことになる。そんな矢先、父の薦めもあり、父の経営する鉄骨建築会社に就職することを決意した。「従業員は8人いました。気楽な気持ちで始めた仕事だったのですが、就職して直ぐに父が急死してしまったんです。ショックでした。ただ、いつまでも落ち込んでいられないと思い、父の会社を守ろうと自分が後を継ぐことにしました」。何の経験も無かったが、意気込みはあった。年若くして、一企業のオーナーとなる。
「父は会社にとっての大黒柱でした。実際、自分がトップに立ったことでどうこうなることもなく、会社の業績はどんどん悪化していきました。そしてついに閉鎖せざるを得ない状況に追い込んでしまいました。自分自身の無力さを痛感した出来事でした。」大きな求心力を失くした会社は、誰にも立て直すことは出来なかったのだった。「申し訳ない気持ちと共に、なぜできなかったのかと自分を激しく責めました。人と話す気力も無くなり、何日間も寝ずに突貫工事を行ってくれていた従業員の方々に最後の挨拶もせずに、逃げ出すようにして立ち去りました」。その家族の方々の顔を思い浮かべると強い罪悪感に襲われた。この出来事は長い間、トラウマとなって残ったという。
「父は会社にとっての大黒柱でした。実際、自分がトップに立ったことでどうこうなることもなく、会社の業績はどんどん悪化していきました。そしてついに閉鎖せざるを得ない状況に追い込んでしまいました。自分自身の無力さを痛感した出来事でした。」大きな求心力を失くした会社は、誰にも立て直すことは出来なかったのだった。「申し訳ない気持ちと共に、なぜできなかったのかと自分を激しく責めました。人と話す気力も無くなり、何日間も寝ずに突貫工事を行ってくれていた従業員の方々に最後の挨拶もせずに、逃げ出すようにして立ち去りました」。その家族の方々の顔を思い浮かべると強い罪悪感に襲われた。この出来事は長い間、トラウマとなって残ったという。
底で掴んだ覚悟と挑戦魂。
父を亡くし、会社は潰れ、従業員からも逃げてしまった。定松氏は、その中で一つの考えに辿り着いた。「奈落の底に落ちようが、天まで登りつめようが、どちらに転んでも自分の人生一度きり。それだったら自分の無限の可能性を信じて、登りつめられるところまで、登ってやろうじゃないかと思ったんです」と定松氏は当時を振り返る。人はそれぞれ自分の人生を歩む時、今までの自分の環境・習慣に伴った考えや他人からの言葉に流されてしまうことが多いが、この時の定松氏は違った。底に落ちたことで、逆に自分の命の尊さを認識できたのかもしれない。授かった自分の命をこんな人生で終わらせたくないと。そして、無限の可能性を信じた。日本では無く、巨大大陸国家であるオーストラリアで挑戦することを決意した。定松氏の眼には、生まれの愛媛県に似た環境でもあり、ワーキングホリデー制度のある国として最適な挑戦場に映った。
22歳。いざオーストラリアへ。
当時、オーストラリアへの片道切符は12万円。日本人の豪州観光ブームに火がつく前だった。当時、免税店が採用していた日本人は永住者が中心で、ワーホリ来豪者が仕事に就けるのは日本食レストランぐらいであった。覚悟を決めて渡ったものの、実際どこも競争率が激しく、仕事さえあればという状況だった。シドニー周辺の約200店を飛び込みで回り、仕事を探した。そんな中、鮨屋とフィッシュ&チップス店での仕事が決まった。「仕事を始められたのは良かったのですが、オーストラリア人が言うBill(請求書)とBeer(ビール)の発音の違いを聞き分けることができず、苦労したりもしました。ただどうしても現地人の中で仕事をしたかったので働きだしたのですが、一方で働いていく中、単調な作業に嫌気が差していたのも事実でした」。そんなことを考えていた矢先、理想の挑戦場が見つかった。「ブルー・トラウト・レストラン」という現地の人気レストランだった。
「そこで初めてキッチンハンドから包丁を使い、料理を作ることを学びました。少しすると昼間はお弁当屋さんを任されるようになり、いちオーナーとして家賃と人件費を払いながら6ヶ月間働きました。また、22歳まで豚肉を食べられなかったのですが、ある日、賄いでトンカツを作り、口に入れてみるとなんて美味しいことか!今までなぜ日本で食べられなかったのか、自分自身で驚きました」と笑って当時を振り返る定松氏。海外で初めて気付く、日本食の良さが分かったのだろう。しかし、働き詰めの毎日で、友人もなかなかできず、英語も上達しなかったそうだ。そうこうしているうちにワーホリ期間が到来。日本への帰国となった。「帰国して1ケ月後、現地のお持ち帰り弁当店で日本のカレーがよく売れていることを思い出したんです。そこで、カレーライスの店をオーストラリアで出店することを本格的に考え、永住権取得にとりかかりました」。そして、23歳にて再度来豪を果たし、前レストランの方々のサポートもあり永住権を取得。挑戦への準備は整った。その後、幸運にもハイアットホテルでセカンドコックをされていた方と出会い、約2年間に渡るシェフ修行をスタートさせることになる。
「そこで初めてキッチンハンドから包丁を使い、料理を作ることを学びました。少しすると昼間はお弁当屋さんを任されるようになり、いちオーナーとして家賃と人件費を払いながら6ヶ月間働きました。また、22歳まで豚肉を食べられなかったのですが、ある日、賄いでトンカツを作り、口に入れてみるとなんて美味しいことか!今までなぜ日本で食べられなかったのか、自分自身で驚きました」と笑って当時を振り返る定松氏。海外で初めて気付く、日本食の良さが分かったのだろう。しかし、働き詰めの毎日で、友人もなかなかできず、英語も上達しなかったそうだ。そうこうしているうちにワーホリ期間が到来。日本への帰国となった。「帰国して1ケ月後、現地のお持ち帰り弁当店で日本のカレーがよく売れていることを思い出したんです。そこで、カレーライスの店をオーストラリアで出店することを本格的に考え、永住権取得にとりかかりました」。そして、23歳にて再度来豪を果たし、前レストランの方々のサポートもあり永住権を取得。挑戦への準備は整った。その後、幸運にもハイアットホテルでセカンドコックをされていた方と出会い、約2年間に渡るシェフ修行をスタートさせることになる。
・・・続き
鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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