本文より~
何が食べたい? 答えは決まって「ラーメン」だった。
今回、登場いただいた株式会社ギフトの代表取締役、田川 翔氏は、1982年に千葉県船橋市で生まれている。兄弟は2人で、田川氏が次男。
「父はサラリーマンで、母は元教師。教師だったこともあって、母はとにかく教育熱心でした。兄とは3つ違いです」。
「私は小さい頃から、ラーメンが大好きだったんです。5歳の頃に『ニューラーメンショップ かいざん』っていうお店のラーメンを食べて虜になってしまったんです。あの当時、外食は何がいい?と聞かれたら、決まって、『ラーメン』って言ってました(笑)」。
とくにお気に入りは「ニューラーメンショップ かいざん」のラーメン。千葉にいる間は、毎週通ったほどだ。いまも時々、食べに行くそう。
「いまは『ラーメンかいざん』というブランドです。私の原点ですから、今も時々、原点をたしかめに行くんです」。
「そうそう、この味。ここから、はじまったんだな、って」。
「父はサラリーマンで、母は元教師。教師だったこともあって、母はとにかく教育熱心でした。兄とは3つ違いです」。
「私は小さい頃から、ラーメンが大好きだったんです。5歳の頃に『ニューラーメンショップ かいざん』っていうお店のラーメンを食べて虜になってしまったんです。あの当時、外食は何がいい?と聞かれたら、決まって、『ラーメン』って言ってました(笑)」。
とくにお気に入りは「ニューラーメンショップ かいざん」のラーメン。千葉にいる間は、毎週通ったほどだ。いまも時々、食べに行くそう。
「いまは『ラーメンかいざん』というブランドです。私の原点ですから、今も時々、原点をたしかめに行くんです」。
「そうそう、この味。ここから、はじまったんだな、って」。
「夏休みがない、これはやばいぞ」。
「父がサラリーマンだったといいましたが、もう典型的なサラリーマンで、帰ってくるのは私たちが寝静まってから。それでいて朝は、私たちよりうんと早い。あるとき、『夏休みってあるの?』って質問をしたら、『ない』っていう答えだったんです。まだ子どもでしょ。『夏休みがない』と聞いて、『これは、やばいぞ』って、子ども心にそう思って、それから『サラリーマンになってはいけない』とかたく決意するんです(笑)」。
今なら仕事の意味もわかるし、仕事のたいへんさも、たのしさも理解できる。しかし、当時は「夏休みがない人生」なんて考えられなかった。
父親とは違うタイプの父親と出会ったのも、いま思えば一つの分岐点だった。
「中学生の時、溜まり場のような家があったんです。けっして広くはないんですが、いごこちがよかった。その家の親父さんは、ブルーワーカーで17時には家にいます。裕福ではなかったはずなんですが、みんなで食卓を囲んでいるのが、とても幸せそうでした。どこかで、うちの親父と比較していたんでしょうね。あぁ、こういう生き方もあるんだなと」。
今なら仕事の意味もわかるし、仕事のたいへんさも、たのしさも理解できる。しかし、当時は「夏休みがない人生」なんて考えられなかった。
父親とは違うタイプの父親と出会ったのも、いま思えば一つの分岐点だった。
「中学生の時、溜まり場のような家があったんです。けっして広くはないんですが、いごこちがよかった。その家の親父さんは、ブルーワーカーで17時には家にいます。裕福ではなかったはずなんですが、みんなで食卓を囲んでいるのが、とても幸せそうでした。どこかで、うちの親父と比較していたんでしょうね。あぁ、こういう生き方もあるんだなと」。
中学3年の進路相談で、早くも「ラーメン屋になる」と宣言する。
「母親から、とにかく高校だけはと言われて進学するんですが、中学の時にはもうラーメン屋の店主になると決めていたんです。理由の一つは、ラーメンが好きだったこと。もう一つは、サラリーマンにはならないと決意していたからです」。
教育熱心な母親が「息子の宣言」を受け入れたのは、「高校に進学すれば気持ちがかわるだろう」というかすかな希望を抱いていたからだ。進学したのは、学区内でもベスト2の進学校。周りは進学希望者ばかりである。影響されないわけがない。
「母はそう思っていたらしんですが、まったくの期待はずれ。だいたい母がいうもんだから進学はしましたが、勉強はまったくしない。なんとか出席日数はキープして卒業はできましたが、テストは、いつも最下位。進学を希望したとしても無理な状態だったと思います(笑)」。
話を聞いていると、「進学も無理な状態」を、確信犯的につくりあげたようにも思えてくる。
「そうですね。当時はとことんジブンを追い込みました。高校時代は悔いなくあそび尽くす、と決めたのも、その一つです。大学進学の道も、もちろん残せません」。
潔い3年間が、過ぎる。中学3年で宣言した「ラーメン屋、開業」へ。甘えも許されない道がスタートした。
教育熱心な母親が「息子の宣言」を受け入れたのは、「高校に進学すれば気持ちがかわるだろう」というかすかな希望を抱いていたからだ。進学したのは、学区内でもベスト2の進学校。周りは進学希望者ばかりである。影響されないわけがない。
「母はそう思っていたらしんですが、まったくの期待はずれ。だいたい母がいうもんだから進学はしましたが、勉強はまったくしない。なんとか出席日数はキープして卒業はできましたが、テストは、いつも最下位。進学を希望したとしても無理な状態だったと思います(笑)」。
話を聞いていると、「進学も無理な状態」を、確信犯的につくりあげたようにも思えてくる。
「そうですね。当時はとことんジブンを追い込みました。高校時代は悔いなくあそび尽くす、と決めたのも、その一つです。大学進学の道も、もちろん残せません」。
潔い3年間が、過ぎる。中学3年で宣言した「ラーメン屋、開業」へ。甘えも許されない道がスタートした。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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