本文より~
料理人の道を歩み始めるまでの話。
吉田 純一氏が生まれたのは、1973年8月21日。
東京、東向島の出身である。父方の祖母が料亭を経営。父親も元々は板前として店を手伝われていたそうだが、吉田氏が幼少の時に公務員に転職されている。
吉田氏に子どもの頃の記憶を辿って頂いた。
「そういえば、調理場で遊んでいると親に怒られ修業中の優しい板前さんにプリンを作って貰ってよく食べていましたね。凄く美味しかったのを今でも覚えています。両親とも東京出身なので、帰る田舎がなく、里帰りしている友達が羨ましかった。小学生低学年になると、水泳を習いはじめ自宅では友達とパンケーキを作ったりしていました。小学生高学年には野球。勉強はあまり好きじゃなかった(笑)」。
高校は、鉄道系の男子校に進んだ。特別やりたいことがなかったことと、鉄道が小さい頃から好きだったから。
しかし、授業よりバイト三昧。それでも鉄道会社にはしっかり就職している。
「保線といって、路線のメンテナンスが私の仕事でした。あんまり楽しくなかったですね。下請け工事の人たちが作業をしてくれて電車が来たら指示を出して監視するだけ。定年退職を迎える前の人が私のデスクの正面にいらして、あぁ、こうはなりたくないな、と」。
それで入社1ヵ月で退職することを決意。その時、子どもの頃から好きだった「食べること」と「仕事」を初めて結びつけて考えてみた。
「会社を辞めて、漠然と料理人になりたいと思ったんです。改めて専門学校に行くため、バイトで資金を貯めながら、旨い料理店のメニューも、私なりに研究するようなことをしていました」。
ここまでが、吉田氏の人生の第一章。波乱の第二章が幕を開ける。
東京、東向島の出身である。父方の祖母が料亭を経営。父親も元々は板前として店を手伝われていたそうだが、吉田氏が幼少の時に公務員に転職されている。
吉田氏に子どもの頃の記憶を辿って頂いた。
「そういえば、調理場で遊んでいると親に怒られ修業中の優しい板前さんにプリンを作って貰ってよく食べていましたね。凄く美味しかったのを今でも覚えています。両親とも東京出身なので、帰る田舎がなく、里帰りしている友達が羨ましかった。小学生低学年になると、水泳を習いはじめ自宅では友達とパンケーキを作ったりしていました。小学生高学年には野球。勉強はあまり好きじゃなかった(笑)」。
高校は、鉄道系の男子校に進んだ。特別やりたいことがなかったことと、鉄道が小さい頃から好きだったから。
しかし、授業よりバイト三昧。それでも鉄道会社にはしっかり就職している。
「保線といって、路線のメンテナンスが私の仕事でした。あんまり楽しくなかったですね。下請け工事の人たちが作業をしてくれて電車が来たら指示を出して監視するだけ。定年退職を迎える前の人が私のデスクの正面にいらして、あぁ、こうはなりたくないな、と」。
それで入社1ヵ月で退職することを決意。その時、子どもの頃から好きだった「食べること」と「仕事」を初めて結びつけて考えてみた。
「会社を辞めて、漠然と料理人になりたいと思ったんです。改めて専門学校に行くため、バイトで資金を貯めながら、旨い料理店のメニューも、私なりに研究するようなことをしていました」。
ここまでが、吉田氏の人生の第一章。波乱の第二章が幕を開ける。
ヨーロッパの研修旅行で見つけた目標。
料理人を志すと決めた吉田氏は、服部栄養専門学校に進んでいる。1年制の学校である。思い出は、ヨーロッパの研修旅行。その当時はサンテチェンヌにあった「ピエール・ガニェールは、心底凄いと思った」と当時のことを振り返る。
「ピエール・ガニェール」とは、パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」のオーナー・シェフで、前衛的と評価されている料理人である。
「彼の料理は、盛り付けが立体的なんです。そのうえ皿の淵に至るまで全てが計算され、完成されていました」。
この出会いがあり、西洋料理への憧れが増す。
「しかし、当時の日本はバブルが弾けたところで、行きたいと思ったホテルニューオータニに就職できませんでした。知り合いから、ホテルニューオ―タニ幕張のオープン情報を聞いて、もう1年専門学校で勉強して受験してみようと思ったんです」。
もう一度、専門学校の門を叩く。進んだのは「華調理師専門学校」である。
「目標ができたことで、熱が入った」と吉田氏。
「1番になる」、その思いが形になったのは卒業コンテストでのこと。「1年制、2年制合同の卒業コンテストがあったんですが、そこで最優秀賞の理事長賞をいただきました。大きな自信になったことはいうまでもありません」。
念願の「ホテルニューオータニ」。倍率は15倍以上で、調理の枠は3人しかなかった。その狭き門を潜り抜けた。吉田氏の「ニューオータニ」時代がスタートする。
「ピエール・ガニェール」とは、パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」のオーナー・シェフで、前衛的と評価されている料理人である。
「彼の料理は、盛り付けが立体的なんです。そのうえ皿の淵に至るまで全てが計算され、完成されていました」。
この出会いがあり、西洋料理への憧れが増す。
「しかし、当時の日本はバブルが弾けたところで、行きたいと思ったホテルニューオータニに就職できませんでした。知り合いから、ホテルニューオ―タニ幕張のオープン情報を聞いて、もう1年専門学校で勉強して受験してみようと思ったんです」。
もう一度、専門学校の門を叩く。進んだのは「華調理師専門学校」である。
「目標ができたことで、熱が入った」と吉田氏。
「1番になる」、その思いが形になったのは卒業コンテストでのこと。「1年制、2年制合同の卒業コンテストがあったんですが、そこで最優秀賞の理事長賞をいただきました。大きな自信になったことはいうまでもありません」。
念願の「ホテルニューオータニ」。倍率は15倍以上で、調理の枠は3人しかなかった。その狭き門を潜り抜けた。吉田氏の「ニューオータニ」時代がスタートする。
ニューオータニ時代。
「恵まれていたと思います」と吉田氏。オープンしたばかりのホテルだったこともあって、ニューオータニでもトップの料理人たちが揃っていたこと。そして、調理をすぐにやらせてもらったことと、その理由を語る。
配属されたのは、イタリアンコンチネンタルのメインダイニング。シェフは当時ミシュラン三ツ星の『トゥールダルジャン』で経験されたニューオータニ全体でも3本の指に入る凄腕の持ち主でフランス語やイタリア語なども流暢に話せるシェフだった。またホテル総料理長から「鉄は熱いうちに打て。1日1個でも覚えれば1年で365個覚えられる」と教えられた。
結局、ニューオータニ時代は5年間に及ぶ。逃げ出したいと思ったこともあったが、実行に移す余裕すら無いほど忙しかったそうだ。
「実は、入社して1ヵ月で、入院してしまいました。焦りました。休んでいると同期と差が付くと思っていましたから。何度も、退院すると言って先生を困らせました」。
また、入院時は、怖かった先輩たちも心配しに駆けつけてくれた。その時は、涙が出るほど嬉しかった。
退院すると翌日には店に戻った。「歩くのもままならず、最初はめまいがすることもしょっちゅうでした。それでも怠けているわけにはいきません」。
辞書を隠しつつ、フランス語のオーダーに対応した。寝る間を惜しんでフランス語のメニューを解読したのもこの頃。語学とともに、少しずつ料理人の力もついていった。
「今思えば軍隊みたいな感じでしたね。油断していると、物が飛んでくるんですが、それを避けちゃいけないんです。避けたら、怒られるから(笑)」。厳しさとある意味優しさが同居しているような感じだったのだろう。
メインダイニングからいったん、宴会のプレパレーションに異動。24歳の時に、24階の「鉄板焼」に異動する。運命が動き出した。
配属されたのは、イタリアンコンチネンタルのメインダイニング。シェフは当時ミシュラン三ツ星の『トゥールダルジャン』で経験されたニューオータニ全体でも3本の指に入る凄腕の持ち主でフランス語やイタリア語なども流暢に話せるシェフだった。またホテル総料理長から「鉄は熱いうちに打て。1日1個でも覚えれば1年で365個覚えられる」と教えられた。
結局、ニューオータニ時代は5年間に及ぶ。逃げ出したいと思ったこともあったが、実行に移す余裕すら無いほど忙しかったそうだ。
「実は、入社して1ヵ月で、入院してしまいました。焦りました。休んでいると同期と差が付くと思っていましたから。何度も、退院すると言って先生を困らせました」。
また、入院時は、怖かった先輩たちも心配しに駆けつけてくれた。その時は、涙が出るほど嬉しかった。
退院すると翌日には店に戻った。「歩くのもままならず、最初はめまいがすることもしょっちゅうでした。それでも怠けているわけにはいきません」。
辞書を隠しつつ、フランス語のオーダーに対応した。寝る間を惜しんでフランス語のメニューを解読したのもこの頃。語学とともに、少しずつ料理人の力もついていった。
「今思えば軍隊みたいな感じでしたね。油断していると、物が飛んでくるんですが、それを避けちゃいけないんです。避けたら、怒られるから(笑)」。厳しさとある意味優しさが同居しているような感じだったのだろう。
メインダイニングからいったん、宴会のプレパレーションに異動。24歳の時に、24階の「鉄板焼」に異動する。運命が動き出した。
・・・続き
鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
0 件のコメント:
コメントを投稿