2016年2月3日水曜日

株式会社CREAFE(クリエイフ) 代表取締役 宇佐美祐介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社CREAFE(クリエイフ) 代表取締役 宇佐美祐介氏登場。
本文より~

30歳。先代でもある父の、脱サラ年齢。

「それまで勤めていたデパートから脱サラし、焼肉店『味樹園』を創業したのは、父が30歳の時だそうです」。
その店が今も好調な「志賀本通り店」である。名古屋で何十年にも亘り愛されてきた名店の一つだ。
その名店の2代目当主が、今回、ご登場いただいた、宇佐美氏である。
「もの心ついた時には、『我が家は焼肉店』という環境だった」と言う。
「味樹園」のメインは、当時からカルビ。このカルビの独特な味付けと、父親が名古屋で初と言う「海鮮焼き」が、好評だったそうだ。
「もともとこの場所には、3店舗が入っていたらしいんですが、最終的には、うちが3店舗を一つにします。それくらい繁盛していたということでしょう」。
宇佐美氏自身の店舗デビューは高校時代。仲間も誘って、アルバイトを開始。週に4回は入っていたそうで、「いつのまにか主任となって店舗の運営を仕切っていた」と言う。
小さい頃から目立ちたがりで、まとめ役でもあったそうだ。その性格が、初のアルバイトでも惜しみなく発揮された格好だ。

バンド活動はハタチで、終了。家業を継ぐ、準備を開始。

「今では、あまり言わなくなった」と言いながら、宇佐美氏はバンド活動に打ち込んでいた頃の話を聞かせてくれた。そのうえで「バンド活動は、20歳で終了」と一言。「音楽で一生食べていくことは不可能だと悟って。それで、方向転換」と言って笑う。
方向転換で向かった先は、2代目店主への道。
まずは修業と、当時、大人気だった洋食店に就職する。「正社員でお願いしたかったんですが、目的を正直にしゃべったら、正社員じゃなく、アルバイトで採用されてしまいました(笑)」。
宇佐美氏の目的は、圧倒的なサービスを生み出す「しくみ」を知ること。正確に言えば盗むことだった。
「手っ取り早く、サービスを学べるだろうと思っていたんですが、最初に配属された店で痛烈な洗礼を受けます。いかに私が甘ちゃんで、ボンボンだったかを知ることにもなりました」と宇佐美氏。
宇佐美氏が洗礼というのは、女性店長からの、こと細かい指導と指摘だった。「歩きかた一つからなっていないと指摘されるんです。料理の持ちかたなど、話にならないレベルでした」。
すべてイチから。
いかにハイレベルなサービスが評価されていた店とは言え、宇佐美氏も素人ではない。飲食の申し子とは言わないが、子どもの頃から「飲食」という世界観のなかで暮らし、育ってきた。それが、まったく通用しない。
宇佐美氏が「洗礼」と表現した気持ちもわからないではない。
「優れたサービスのうらには徹底した教育がある」。宇佐美氏がこの時知ったことはこれだ。「今でも、私のなかでは、あの時のサービスレベルがスタンダードなんです」というくらいサービスの高さも印象的だった。むろん、今も当時の店長に、感謝している。

2号店、ナンバー2として復帰。

この店にいた2年間は、アルバイトといえども修業期間だった。
レベルの高いサービスを叩き込まれ、自信をつけた宇佐美氏は「味樹園」に就職し、新店をナンバー2という立ち位置で仕切ることになる。
高校時代の経験もある。2年間の修業も、終えてきた。やる気満々でオープンしたが、これが、まったくの期待外れ。今の「茶屋が坂店」のことである。
「今からは考えにくいですが、実は、軌道に乗るまで6~7年かかりました。今ならわかるんですが、うちの業態は、いきなりドーンとはいかないんです。6~7年はさすがに長いですが、2店舗目でしたし、私にとっても会社にとってもある意味、貴重な経験が積めたと思います」。
当時は歯ぎしりしたに違いないが、いまでは冷静に振り返ることもできる。
「元、叙々苑の店長を総料理長として入社いただいたのも、いい刺激となりました」。
「軌道に乗るきっかけになったのは、思い切ってすべて個室にしたこと」と宇佐美氏。「個室にして、スグにバーンときた」と語っている。

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