2016年3月8日火曜日

株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏登場
本文より~

高校1年、秋までの話。

2歳の時に茨城に引っ越したから、記憶にあるのは、茨城の風景。だから、「茨城出身」と言っている。父は、主に試作品を手がける板金工場を経営されていた。業績は悪くない。特に、バブルの頃は相当に儲かったはずだ。
時吉氏は、子どもの頃からスポーツが得意で、小学校からはじめた剣道では群を抜いていた。高校からもオファーがあったというから、相当な手練れだったのだろう。
「公立高校ですが、推薦をいただきました。無条件ではなく、『形だけでいいから、試験を受けてくれ』ということでした。私は、合格するもんだと思っていますから、ろくに勉強もにせず、受験。フラリと試験会場に入り、適当に答案を埋め、試験終了です(笑)」。
時吉氏の予測は甘かった。おなじ剣道部から数人受験し、絶対案パイだった時吉氏がなぜか落ちた。
「いま思えば態度がちょっとよくなかったんでしょうね。ズボンも心持ち太かったし…」と言って、時吉氏は笑う。
しかし、当時は、真っ暗な思いだったのではないだろうか。剣道の強豪校に入る。進学より、そちらが大事だったと思っていたはずだから。時吉氏も「人生初の挫折」と言っている。
公立の強豪校に袖にされた時吉氏は、私立高校に進学。こちらでも剣道部に入ったが、入部2ヵ月ほどでリタイアしてしまった。
「ぜんぜん相手にならなかったんです。3年生が1年生に簡単にやられてしまう。つまんなくて…」。
目標を失ったというより、スイッチが入らなかったのだろう。
「それから、ふらふらするんですが、いままでスポーツをずっとやってきたでしょ。どこかで、『このままじゃいけない』という思いがあって。それで、ヨット部に入るんです」。
それが、高校1年、秋の頃の話である。

波に乗れない、ヨット部員の話。

レスリングか、ヨットかで迷った。どちらも、強豪だったから。
「レスリング部はごっつい奴ばっかりで、ちょっとこわかったんです。で、消去法で、ヨット部にするか、と思っていたら、偶然、ヨット部の顧問に呼び止められたんです。廊下で」。
それが一つの縁ともなって、ヨット部に入部。当時のヨット部は、国体、インターハイの常連校だったそうである。
「湖でぷかぷか浮いて気持ち良さそうだった」と時吉氏は、ヨット部の様子を語っている。しかし、時吉氏自身は、入部早々、停学処分を食らってしまった。
2週間の停学。停学が解けて、登校した時吉氏の頭は、五厘刈り。再スタートの決意を髪型で示した。たしかに、それから2年ちかく、問題は起こさなかったが、3年になり、ふたたび停学となる。バイクに乗っているのが、学校側にバレてしまったそうだ。
本人は、知らなかったが、この時の職員会議は、紛糾。「退学」という意見も出たそうだ。
「これはあとから聞いた話なんですが、そのとき、うちの顧問が体をはって私を守ってくれたそうなんです。『あいつは大丈夫だ。責任はオレが持つ』というようなことだったんでしょうね。それを聞いて、スイッチが入ったんです」。
それまでヨット部にいても、ただただ湖に浮いているだけ。大会にも特別、興味がなかった。
「しかし、あのときは間違いなくスイッチが入りました。私を救ってくれた先生に対して、このままでは申し訳ない、と」。
体をはって引き留めてくれた教師を、まぬけな教師にするわけにはいかなった。「インターハイはもう終わっていたんですが、国体が残っていた。国体まで3ヵ月。もう、やるしかないでしょ」。
部にいても、波に乗れず、ただいるだけだった部員が、猛練習を開始する。
「退学させるべきだ」と主張した教師たちは唖然としたことだろう。時吉氏の思いを知って、「あいつを国体へ」と、思いがけず仲間たちもちからを合わせサポートしてくれた。
とはいえ、たった3ヵ月。いくら運動神経に恵まれた時吉氏といえども、簡単に出場できるほど甘い世界ではない。
「ところが奇跡が起こったんです。茨城で1位になり、国体に選ばれたんです」。
いまもその時のことは忘れていない。
初めて知った仲間のありがたさも含めて。

・・・続き

株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏
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