本文より~
野球少年が、高校を卒業するまでの話。
今回、ご登場いただいた(株)スタイルスグループの代表取締役、佐々木浩史氏が生まれたのは、1961年。出身地は、宮城県石巻である。「近所でも有名なくらい怖い人だった」という父は、大手製紙会社のサラリーマン。兄弟は、6つ下に弟がいた。
「小学校の頃から野球が好きだったんですが、頑張り過ぎて肩を壊してしまって。だから、中学では水泳などをしていました。音楽に興味を持ち始めたのも、中学生の頃です」。
小学校の頃は、クラスの人気者。中学では、やんちゃな仲間とも付き合った。
「石巻って、漁師の町でしょ。やんちゃな奴が多いんです。中学卒業の時に、そいつらといっしょに水産高校に進もうとしたんです。ですが、うちは父が漁師でもなんでもない。まして、漁師になる気もなかった。それを担任の先生にズバリ指摘されて引き留められました(笑)」。
引き留められて、無事、普通科の高校に進学したというのだが、進んだのは県下でも有名な進学校だった。
高校ではふたたび野球を開始。しかし、途中で辞めてしまう。それが「人生で唯一の悔いだ」という。
「怪我がもとで、辞めることになったんですが、顧問の先生からは裏方でつづけないかと誘ってもらったんです。あの頃は、そういうのが受け入れられなかった。野球が好きなのにね。だから、のちに応援部に入りました。少しでも野球に関わっていたかったからです」。
ちなみに、現在、佐々木氏の、仙台にある店には野球関係者も多く来店する。楽天の関係者はもちろん、大学や高校の野球部監督や顧問もいらっしゃるそうだ。野球が好きという気持ちが通い合うのかもいれない。
「小学校の頃から野球が好きだったんですが、頑張り過ぎて肩を壊してしまって。だから、中学では水泳などをしていました。音楽に興味を持ち始めたのも、中学生の頃です」。
小学校の頃は、クラスの人気者。中学では、やんちゃな仲間とも付き合った。
「石巻って、漁師の町でしょ。やんちゃな奴が多いんです。中学卒業の時に、そいつらといっしょに水産高校に進もうとしたんです。ですが、うちは父が漁師でもなんでもない。まして、漁師になる気もなかった。それを担任の先生にズバリ指摘されて引き留められました(笑)」。
引き留められて、無事、普通科の高校に進学したというのだが、進んだのは県下でも有名な進学校だった。
高校ではふたたび野球を開始。しかし、途中で辞めてしまう。それが「人生で唯一の悔いだ」という。
「怪我がもとで、辞めることになったんですが、顧問の先生からは裏方でつづけないかと誘ってもらったんです。あの頃は、そういうのが受け入れられなかった。野球が好きなのにね。だから、のちに応援部に入りました。少しでも野球に関わっていたかったからです」。
ちなみに、現在、佐々木氏の、仙台にある店には野球関係者も多く来店する。楽天の関係者はもちろん、大学や高校の野球部監督や顧問もいらっしゃるそうだ。野球が好きという気持ちが通い合うのかもいれない。
ディスコの花形職種、DJ。
怖い親父のもとから逃げ出すように、佐々木氏は仙台の大学に進んだ。しかし、進学したものの、キャンパスライフとは無縁だったそうだ。
「当時、ディスコがブームだったんです。アルバイトで生活費をねん出しなければいけなかったんで、ディスコでDJのバイトをしていました。そう、1年の時からです」。
佐々木氏が大学1年といえば、ちょうど1980年。日本全体がバブルの坂を駆け上がる頃だ。その当時の日本を象徴するものの一つが、ディスコだろう。連日、連夜、若い男女が押し寄せ、黒服というボーイは、女性にチヤホヤされ、DJは、その上をいった。言うならば、花形職種である。
「元々は、ボーイだったんですが、たまたまチャンスがあってDJになることができました。元々、音楽が好きで、当時、昼間は、アーティストのプロモーションのバイトをしていました。そういうのも、評価されたんだと思います」。
佐々木氏によると、当時、札幌、仙台、新宿は、音楽の流行りを先取りするベスト3の街だったそうだ。つまり、仙台で流行れば、勝ち組になれる。昼、夜となく、佐々木氏に注文があつまる。
「あの当時、DJの仕事だけで給料が50万円あった。大学の新卒がまだ14、5万円の時に、です。そりゃ、勘違いします。簡単にいえば、世の中をなめたガキでした」。
なんとなく、想像もつく。
「ディスコではハーレム状態だった」とも語っている。
「当時、ディスコがブームだったんです。アルバイトで生活費をねん出しなければいけなかったんで、ディスコでDJのバイトをしていました。そう、1年の時からです」。
佐々木氏が大学1年といえば、ちょうど1980年。日本全体がバブルの坂を駆け上がる頃だ。その当時の日本を象徴するものの一つが、ディスコだろう。連日、連夜、若い男女が押し寄せ、黒服というボーイは、女性にチヤホヤされ、DJは、その上をいった。言うならば、花形職種である。
「元々は、ボーイだったんですが、たまたまチャンスがあってDJになることができました。元々、音楽が好きで、当時、昼間は、アーティストのプロモーションのバイトをしていました。そういうのも、評価されたんだと思います」。
佐々木氏によると、当時、札幌、仙台、新宿は、音楽の流行りを先取りするベスト3の街だったそうだ。つまり、仙台で流行れば、勝ち組になれる。昼、夜となく、佐々木氏に注文があつまる。
「あの当時、DJの仕事だけで給料が50万円あった。大学の新卒がまだ14、5万円の時に、です。そりゃ、勘違いします。簡単にいえば、世の中をなめたガキでした」。
なんとなく、想像もつく。
「ディスコではハーレム状態だった」とも語っている。
好きなことをして、生きていく。それが人生の価値だ。
「私は、新卒で就職していないんです。仲間の多くは、大手の会社に就職していきましたが、私は関心がなかった。鎖につながれるのがイヤだったんです。給料をもらうために、したくもない仕事をつづける、そういうのが信じられなかったし、イメージできない。DJのバイトだけで、新卒の初任給の何倍もあったのも無関係ではなかったんだと思いますが、とにかく、好きなことをやって生きていこうと思っていた。また、そうできると、信じていたんです」。
大学卒業後も、昼間は音楽のプロモーション、夜はDJのバイトに明け暮れた。
「当時は、いま大物と言われているアーティストも、まだ駆け出しの時代です。仕事で何度か接した人も多いので、まぁ、あれから、すごくなったけど、そんなに距離が離れているとは思いません。矢沢さんなんかは、当時から別格でしたが(笑)」。
好きなことをして、生きていく。それが、佐々木氏の生き様。
「当時、仲間に『仙台でくすぶっていないで、東京に行こう』って誘われたことがありました。でも、私は、仙台が良かった。『東京に行かないで、オレは仙台でいちばんになる』って言ったんです」。
「仙台でいちばんになる」。これもまた佐々木氏の人生の背骨を貫く目標となる。
まだ、青く、好きに生きることの難しさを知らない時代でもあった。
大学卒業後も、昼間は音楽のプロモーション、夜はDJのバイトに明け暮れた。
「当時は、いま大物と言われているアーティストも、まだ駆け出しの時代です。仕事で何度か接した人も多いので、まぁ、あれから、すごくなったけど、そんなに距離が離れているとは思いません。矢沢さんなんかは、当時から別格でしたが(笑)」。
好きなことをして、生きていく。それが、佐々木氏の生き様。
「当時、仲間に『仙台でくすぶっていないで、東京に行こう』って誘われたことがありました。でも、私は、仙台が良かった。『東京に行かないで、オレは仙台でいちばんになる』って言ったんです」。
「仙台でいちばんになる」。これもまた佐々木氏の人生の背骨を貫く目標となる。
まだ、青く、好きに生きることの難しさを知らない時代でもあった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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