2016年3月22日火曜日

株式会社KATSU NUMBERS 代表取締役社長 宇敷勝巳氏登場。

本文より~

フレアバーテンダー、世界チャンピオン。

今回、初めてフレアバーテンダーという職業を知ったので、調べてみた。酒やジュースを注ぐ【ポア】。酒やジュースを溢れさせる【スピア】。ボトルやシェーカーなどをつかんで受け止める【キャッチ】。回転をかけて放る【フリップ】…、いろんな技の名称がでてきた。
今回、登場いただいた宇敷勝巳氏は、2010年、カナダ、バンクーバーの世界大会で、フレアバーテンダーの世界チャンピオンとなった人である。HPによれば、日本・アジア・世界、すべてのタイトルを制覇。フレアバーテンディングで5本ジャグリングの世界記録を樹立し、2015年現在も、その記録は破られていないという。
フレアバーテンダーでは初の東京都公認パフォーマンス資格を獲得。世界最高峰のサーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」のオーディションに合格し、登録パフォーマーとして在籍とも書かれていた。
では、その世界的なパフォーマーになるまでの道のりを追いかけてみよう。

野球推薦で、進学するも、中退。

宇敷氏が生まれたのは、1982年。出身は群馬県。父親は、鉄骨溶接の仕事をされていたそうだ。両親は、宇敷氏が小学6年生の時に別居。18歳で、離婚。宇敷氏は3つ離れた兄とともに母に引き取られた。
「母は別居してから、旅館の掃除、ドライバー、配膳、内職と朝昼問わず働いていましたが、けっして弱音は吐かず、私たち兄弟を育ててくれました。にもかかわらず私たち兄弟は、兄弟そろってやんちゃな道に進みます。とはいえ、兄は中学を卒業して、寿司屋で住み込み、仕送りをしてくれました。私も、兄同様、高校に行かず働こうと思っていたのですが、教師の勧めもあって野球推薦で高校に進学しました」。
野球は小学校の時から始めている。小学生の時はキャッチャー、中学ではサード、センターを守っていた。野球推薦をもらうくらいだから、運動神経に恵まれていたのだろう。
「しかし、結局は退学します。理由は、バスの定期代で6万円以上かかったことと、当時つるんでいたグループが不祥事を起こして、連帯責任を取らされ停学をくらったからでした。そのあとは、2年間ほど住み込みで大工の見習いをしました」。

西新宿のバーでみつけた未来の種。

宇敷氏が上京したのは、18歳の時。最初は渋谷に住むつもりだったが、大家に断られ、大宮で暮らすことになる。
「テレフォンアポイントをして生計を立てていました。バーテンダーの世界を知ったのはこの時で、西新宿のバーに知り合いに連れて行ってもらったのが、はじまりです」。
人には、多かれ少なかれ歴史が動くターニングポイントがある。この時の宇敷氏がまさにそうだった。
バーテンダーの仕事に心惹かれた宇敷氏は、その場で「雇ってください」と頼み込んだそうだ。HPのプロフィール欄にある、新宿サントリー/クラシックジガーバーが、その時のバーである。
「そのバーで勤務している時に、もう一つのターニングポイントが訪れるんです」。
ある日、1人の客に、フレアバーテンダーの映画を渡された。トム・クルーズ主演の映画「カクテル」である。この映画を観て、フレアバーテンダーに興味を持った。
独学が始まる。

国内大会、優勝。

「フレアバーテンダーに興味を持った私は、とにかく道具だと、横浜の協会で教えてもらった店に行き、購入しました。それからは、独学です」。
何度も映画を観て、練習した。師匠がいるわけではないから、どれだけのレベルかわからない。
「私のレベルがわかったのは、ある大会に出場した時です。ルーキー戦があって、2位になりました。それから、日本チャンピオンシップに出場し、優勝もしました。それが20歳の時です」。
当時、フレアバーテンダーの人口が日本にどれだけいたのかはわからない。ただし、大会は大掛かりで、出場した選手は少なくなかった。そのなかで宇敷氏は優勝したばかりか、最年少記録も更新した。
その後、宇敷氏は、世界に目を向け始める。
行くなら、本場カナダだ。
宇敷氏は、1人、カナダに向かった。

・・・続き

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