2016年5月31日火曜日

株式会社フレッシュネス 代表取締役 紫関 修氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フレッシュネス 代表取締役 紫関 修氏登場。
本文より~

中学時代、目標だったのはパイロット。

今回ご登場いただく、株式会社フレッシュネスの代表取締役 紫関氏が生まれたのは1961年7月29日である。出身は千葉県千葉市。「父親は、川崎製鉄の子会社で勤務していました。私は、一人っ子。甘やかされていたわけじゃないけど、特に『勉強しろ』って言われた記憶もないね。当時はね。野球ですよ。放課後になるとさ。友達なんかが公園に集まってさ。棒切れ持って、野球が始まるんです」。
遊んでばかりいたわけではない。
「ぜんぜん覚えてないんだけどさ。5歳の時に、母に『バイオリンをやりたい』っていったそうなんです。どうしてだろうね。でも、バイオリンはまだ無理ってことで、エレクトーンを習いました。小学3年で辞めちゃったおかげで、いまじゃぜんぜん弾けないんだけどね」。
勉強はしないと書いたが、成績は良かったそうだ。運動も、音楽も良くできたほうだという。
「私が小学6年生の時に、千葉で国体が開催されることになり、鼓笛隊を編成するってことで、各小学校から楽器ができる生徒が集められたんです。私はトランペットを吹きました。今思えば、いい思い出の一つだね」。
中学ではバレー部に入部。この頃にはなぜか、パイロットになりたいと漠然と思っていたそうだ。「理由は、もう忘れちゃったよ。たぶん、テレビかなんかの影響なんでしょうね。パイロットになるぞって(笑)」。
たしかに、頭脳明晰、運動神経抜群。パイロットもあながち無理な目標ではなかったはずだ。
「なんでも、できる」と思い込んでいた紫関氏が、初めてカベにぶち当たったのは、高校受験のことである。それでも県内でも有数の学校に進学するのだが、めざすはトップ校だっただけに、悔しい思いをしたのは事実である。
「それでね。入学当初は、学年でもトップクラスだって思っていたんです。ところが、因数分解のテストでなんと赤点です(笑)。いまだから笑えますが、当時は悔しくって。本来、負けず嫌いですから、『ちくしょう』って思って、駿台に通い始めました(笑)」。
もっとも、駿台通いは、初の東京通いでもある。けっして、予備校では優等生ではなかったそうだ。

国立も、めざしたが、あっけなく撃沈。

「大学受験は、2回やっています。現役の時は、国立と早稲田と慶応と中央大学を受けたんだが、ぜんぶだめ。で、翌年も、受けたんだが縁がなかったのか、結局、青学に落ち着きました」。
大学では、テニスサークルに所属。青春を謳歌した。その大学時代が終了する。「あの頃は、いちばんが金融関係で、つぎがマスコミとか、いろいろあって、サービス業っていうのはやっぱりいちばん下。そういうヒエラルキーが出来上がっていたんだな」。
ある意味、飲食の敷居は、マスコミや金融などより高かった。行きたいと思っても、回りから反対されるからだ。「まさに私の場合がそうだったんだよね。いま思うとね、ちょっと単純なんですが、大学時代にホテルでバイトをしていたでしょ。それと当時やっていたテレビドラマから影響をもろに受けてね。それで、ホテルに行くと言ったら、ゼミの先生に呼び出され、1時間説教をくらった。それでも、意思は固かった。就職したのは、東急ホテルです」。当時、東急ホテルは株式を上場。破竹の勢いで出店を重ねていた。

うろこ取り、エビの背ワタ取りで学んだこと。

「新卒、しかも大卒でしょ。いわば幹部候補なんですよ。しかも、私は入社式の際に、新卒の代表に選ばれたもんですから、なかなか人間関係も難しかったと思います」。新卒は、ぜんぶで40~50人。大卒はそのなかで7~8人。いわばエリートだ。
ホテルに配属されると、まずはローテーションで仕事を経験する。ベルボーイ、半月。ハウスクリーニング、半月。調理1ヵ月、レストラン1ヵ月。宴会も、仕込みも、ぜんぶ経験する。
「私が配属されたのは、今はもうないんですが、銀座の東急ホテルです。夏になるとビアガーデンが始まるんですが、ある日、私がイカを焼いていると、たまたまテニスサークルの後輩が通って、『アレ』って。『先輩、それってアルバイトじゃないですよね』なんてね。気まずくはなかったけど、なんかね」。
いちばん辛かったのは、仕込みだという。「仕込みっていうのはね。たとえば魚のうろこを取るなら、ずっと取る。エビの背ワタを取るなら、ずっと取る。1日中その作業ですよ。でも、今思えば、そういうことをする人がいて、ホテルって成り立っているんだなというのが、わかった、すべての仕事をローテーションで経験したのは、大きな財産になった気がするね」。

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株式会社フレッシュネス 代表取締役 紫関 修氏
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2016年5月24日火曜日

ライナ株式会社 代表取締役 小川雅弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ライナ株式会社 代表取締役 小川雅弘氏登場。
本文より~

海にも、山にも近い町。

兵庫県城崎といえば、言わずと知れた温泉の町である。関西の奥座敷としても知られている。
「海にも山にも30分とかからなかった」と今回ご登場いただいたライナ株式会社社長の小川氏は、子どもの頃を振り返る。
「実家は、祖父が創業した家具屋です。私自身は、ごくふつうの元気な小学生でした。スポーツはJリーグが盛り上がっていたこともあって、サッカーをしていました」。
中学は残念ながらサッカー部がなかったそうで、ソフトテニスに転向。性格は、和気あいあいで、敵をつくらないタイプだったそうである。
「入学時は成績もふるわなかったんですが、卒業する頃には上から数えて10位くらいにはなっていました。中学生の頃から家業の家具屋を手伝っていましたので、いずれ商売をしたいな、と思っていました」。
部活、勉強、家の手伝いも、日課だった。優等生だったに違いない。高校では、硬式テニスに転向。
「シングルは、良くて4位だったんですが、ダブルスでは、地方大会で何度か優勝しています」。運動神経が良かった証。息を合わすのが、うまかった証かもしれない。

大学時代。

「神戸大学に進学したかったんですが、結局、進んだのは大阪市立大学です」。当然、独り暮らし。
「アルバイトは、色々と経験しました。家庭教師に、飲食、テキヤのバイトも経験済です(笑)」。テニスは卒業し、持ち前の運動神経を活かしアイスホッケーを始めた。ところが、試合中にホッケーの刃が、股間にあたってあわや大惨事となる。
「これはヤバイ!と思って、ボクシングに転向しました。1年ほどリングで打ち合って、今度はスキー部を立ち上げます。今思えば、スキー部を立ち上げたことは自信になりました。起業ではありませんが、ゼロから立ち上げたことで、俺にもできるんだという自信につながったわけです」。当時からいずれ起業と考えてはいたが、「飲食事業で」と思っていたわけではない。

1棟借り、大胆な一歩。

「だいたい3年くらいと思っていました」と小川氏が語るのは、就職してから独立までの期間である。そうと決めたからには、時間を無駄にできない。会社選びも、必然的に独立が前提となる。狙いを定めたのは、IT企業だった。
「職種は、SE、PGです。300人未満の条件で検索して、物流のパッケージソフトを開発する会社に就職しました」。
社会人1年生。しかし、周りの新卒たちとは、明らかに違った。ハナから独立するのが目的だったからだ。そんな小川氏の目には、どうやら仕事の向こうにつづく、独立のイメージがわかなかったようだ。
「1年くらい経って、だんだん仕事についてもわかってくるんですが、先輩たちの仕事をみてもIT業界での独立がイメージできなかったんです。それで3年経っていなかったんですが、思い切って、独立しよう、と」。
予定より早い決断というか、社会人になってわずか1年目の独立である。
「古いビルを借りて、1階がテイクアウトカフェ、2階がステーキ店、3階を事務所にして、屋上は夏に一組限定でバーベキューができるようにしました」。
一棟借り、大胆な発想である。ただし、初期投資は800万円。
「凄く古くって、借り手がつかないようなビルだったもんですから、家賃もごくわずかで済みましたし、実家が家具屋なんで、ぜんぶ手作り。業者にお願いしていたら数千万円かかったと思いますが、ぜんぶで、800万円で済ますことができました」。
貯金と家族・友人からの借金、投資家からも200万円を借りスタートしている。
ちなみに、2階のステーキ店には行列ができたそうだ。初期投資を抑えたことで、低価格でステーキを提供できたのが、ポイントだったという。
大胆な一歩を踏み出した小川はさらに攻勢にでる。

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2016年5月23日月曜日

ドリームフーズ株式会社 代表取締役社長 山本英柱氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ドリームフーズ株式会社 代表取締役社長 山本英柱氏登場。
本文より~

愛知県一宮市に生まれ。

山本氏は、1975年、愛知県一宮市に生まれる。父は、銀行員。住まいは、祖母がかつて経営していた喫茶店の2階スペース。
「ナポリタン用の鉄板やパフェ用のグラスが残っていたもんですから、愛知県の定番メニューの鉄板ナポリタンやチョコレートパフェをつくってもらっていました」。
父は銀行員だったが、幼少の頃はけっして裕福ではなかったそうだ。
「建物はボロボロ、隙間風がピューピュー吹いていました(笑)」。
雪の日には、カベの隙間から雪まで吹き込んできたそうだ。
銀行員というくらいだから、堅実な父親像が思い浮かぶが、山本氏が10歳の時に父(現会長)の山本一は脱サラを決意する。
破天荒な決断か、それとも、ち密な計算のうえの決断か。山本氏は、「とにかく、一念発起して、飲食の世界に飛び込んだ」と表現する。
つまり、「ドリームフーズ」の創業は、山本氏が10歳の時にまで遡ることができる。

1日、1000人のモンスター店舗が、ちゃんぽん亭事業開始の号砲だった。

さて、山本氏10歳の頃まで遡り、父親、山本一氏が起業する経緯をみてみよう。
山本一氏は、一宮市から遠く離れた彦根市で事業を開始する。
「『彦根駅』の目の前に『麺類をかべ』という小さな食堂があったんです。うどんやそば、丼ものを提供する大衆的なお店でした。父がそのお店に偶然立ち寄ったことが、そもそもの始まりです」と山本氏。
「当時、仕事の都合で滋賀へ出張する機会があったそうです。地元の方から『をかべ』のちゃんぽんが旨いと評判を聞き、グルメな父はどうしてもそれが気になって、わざわざ彦根に立ち寄り、をかべの行列に並んだんです。ちゃんぽんを食べている時に、店内にいた知人を見つけたんです。父が何気なくその方に声をかけてみると、なんと『をかべ』の店主だということが判明。すると、『店舗の後継者を探している』と切り出されたんです。まさかの話の展開に驚きながらも、何か運命的なものを感じて、すぐに『それなら自分が!』と手を挙げたそうです」。
「もともと家業が喫茶店だっていたもんですから、飲食に抵抗はなかったのでしょう。銀行員ならではの計算もあったと思います。父の言葉を借りるなら『とにかく、をかべのちゃんぽんが気に入ったから。その味に人生を賭けてみたい』と決断したそうです」。
「をかべ」の経営を引き継ぎしばらくして、山本一氏は、店にアレンジを加え、「ちゃんぽん」を主力メニューにした新店を彦根の郊外にオープンする。
「麺類食堂」から「ちゃんぽん専門店」への切り替え。息子の山本氏にも、味見をさせている。「いつだったか、連れていかれて、食ってみろって(笑)。当時の私は野菜ギライだったんです。うちのちゃんぽんって野菜が多いでしょ、だから最初は、そっと横に…。でも、父が野菜も食えっていうもんですから、食べてみると、これがぜんぜん旨いんです」。「野菜特有の青臭さを感じなかった」と山本氏。ペロリと完食した息子をみて、父の山本一氏は、さぞ笑みをこぼされたことだろう」。
「この店が大ヒットするんです。更地から新規開発したロードサイド型『ちゃんぽん亭1号店』は、最盛期には1日1000人を超えるくらい繁盛しました。50席ですから、朝から晩まで文字通りフル回転です。人手が足りずに母と姉2人も手伝いに行きました」。
これが、「ちゃんぽん亭」事業始まりの号砲となる。
をかべを引き継いで3年後、1988年のことだ。

「近江ちゃんぽん」のはじまり。

山本氏は「近江ちゃんぽん」の展開を3つのフェーズに分けて説明する。
「1963年の創業から1988年までの25年間が第1フェーズの『をかべのちゃんぽん時代』です。そして、1988年にちゃんぽん亭1号店が開業してから2004年まで、滋賀県内でのローカル展開を進めた16年間が第2フェーズの『彦根のちゃんぽん時代』です。そして2004年に県外1号店の出店から2016年現在が第3フェーズ。これが『近江ちゃんぽん時代』です。実は2004年まで『近江ちゃんぽん』という言葉はなかったんです。つまり、2004年から『近江ちゃんぽん』はスタートしているんです」。
「黎明期」「創業期」、そして「成長期」というところだろうか。ところで、どうして『近江ちゃんぽん』というネーミングとなったのだろう。
「1日1000人からわかる通り、彦根市や、滋賀県内では受け入れられた当店のちゃんぽんが、県外に行くとどうも勝手が違いました」。
「2004年に、初めて京都の大型SCに出店するんですが、その時、あるお客さまから『こんなのは、ちゃんぽんじゃない』と否定されてしまうんです。おそらく、とんこつや鶏ガラベースの『長崎ちゃんぽん』をイメージされていたのでしょう。そういうこともあって、『ネーミングやブランディングをちゃんとしないといけないな』となって。では、どうしようかと。『彦根ちゃんぽん』や『滋賀ちゃんぽん』というアイデアもありましたが、近江牛、近江商人など響きの良さから『近江ちゃんぽん』にしようと入社したての私が強く主張しまして、ネーミングが決定しました(笑)。だから『近江ちゃんぽん』の歴史は、そう長くはないんです」。
いまや全国ブランドになりつつある「近江ちゃんぽん」。その起点となったのが2004年。この年、山本氏が入社している。

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ドリームフーズ株式会社 代表取締役社長 山本英柱氏
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2016年5月20日金曜日

細見家の墓石をきれいに磨きしました。

墓石が汚れていたので、東京に戻る日の朝一に墓石を磨きに行きました。
するとどうでしょう、なんと野生の鹿が5頭も・・・・。
思わず写真撮りました。
前日、葬儀で多くの供花を頂戴したのでその一部を供えに行きましたが、菊の花など食べ散らかしてました。
(頂いたお花をお供えに・・・)

下は、磨いたあとの墓石です。
光沢出て、かなりきれいになりました。
 
(きれいに磨きました)

鹿が霊園を暴れまくってました。

2016年5月19日木曜日

父・秀夫死去。

親が先に亡くなるという誰もが通る道ですが、細見昇市の一番の応援団長でもある父親が亡くなりました。(享年84歳)

2015,年11月11日に脳梗塞で倒れ、2016年5月11日に亡くなりました。
10年前母親が急死したので、倒れて意識がなかった状態が2週間以上続き、父親も突然か・・・と覚悟していましたが、話したり、身体も動きませんでしたが、意識は回復しこちらが言ってることはわかるようになりちょうど丸半年もの間よく生きてくれました。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
“お父ちゃん、ありがとう!”
(2015.3月)
(数多くの弔電頂きました)
(多くの供花を頂戴しました/順不動とさせてもらいました)
(53年前の命名してくれた資料見つかりました)

2016年5月10日火曜日

ゴールデンウィーク明けより営業新戦力加入しました。

ゴールデンウィーク明けより、新たな営業マン加入しました!
これまた20代ですから、うちの営業マンいい形で世代交代してます。

彼らの中から、優秀な人材育てばいつでも社長交代考えてます。
若くて有能なやつには夢と向上心あり、体力もありますからね。


株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏登場。
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関西大学。ボクシングクラブ。

3人兄弟の長男。父親は岩手出身で、新日鉄に勤務されていた。一流会社である。のちに千葉氏が「和民」に入社する時に、反対されたのも頷ける。
千葉氏が生まれたのは、1978年。愛知県の知多半島にある知多郡阿久比町で育った。中学、高校と水泳部に所属していたが、熱心に取り組んだという記憶はない。
1年、浪人し、「一橋大学」を受験するが不合格。滑り止めで受験した関西大学に入学する。「当時、ろくでなしブルースって漫画が流行っていて、それでボクシングに興味を持ち、経験もないのにボクシング部に入部します。ぜんぜん強くはなく、部員も10人くらいの弱小クラブでした。最初は、3部リーグ、私たちの最終年になんとか2部に昇格します。私自身も、3年までは勝てなかったんですが、3年になって突然勝ち始めました(笑)」。
51キロ以下のフライ級だった。ちなみにネットで調べてみると、現在は、当時より部員も増え、1部リーグにまで昇格している。千葉氏らの活躍が引き金になったそうだ。

「和民」に就職。

体育会系で、関西大学出身である。就職時には、15社から内定をもらった。
「大学時代のアルバイトは飲食です。最初のアルバイトは、ホテルの厨房。そこで料理にこだわるシェフの姿をみて、憧れを抱きました。飲食だけではなく、様々な業種の企業を受け内定ももらったんですが、『和民』の渡邊社長の話を聞き、また高杉良氏の『青年社長』を読んで、『和民』に入社を決めたんです」。
冒頭に書いた通り、父から反対される。すでに「和民」は上場していたが、すすんで「息子を飲食に」という時代ではまだなかったのだろう。
「しかし、結局は上場企業だってことで、納得させました」。飲食には、就職するにもカベがあった時の話である。

「和民」、そして独立。

400字詰め原稿用紙、10枚に入社理由を書いた。熱い思いを綴った。10年勤務し、独立するという決意も、そのなかで述べている。
入社8ヵ月目にして、店長になる。「荻窪店です。60坪、120席。スタッフは15名でした」。新卒社員が、わずか8ヵ月で店長になる。稀とは言わないが、千葉氏の実力が評価されたうえでの抜擢だろう。
「オペレーションを強化しました。オーダーから配膳までの時間短縮に取り組んだんです」。今思えば、楽しい時代だった。渡邊社長というキラ星がいて、周りにも尊敬できる先輩・上司がたくさんいたからだ。仕事にも自信があった。「この料理を、この価格で、という『和民』の強みに対する自信ですね」。連日、お客様が来る。予約を増やそうと、周辺のオフィスを回ったこともある。
「『和民』が、私のベースです。人間関係も、『和民』中心です。いまも、当時の先輩たちとはお付き合いがあります」。
「もともと、10年たったら独立すると宣言していたこともあって、32歳で独立しました」。もうひとつ理由がある。「当時、『和民』のオペレーションもずいぶんかわりました。料理も、いままでとは違った。何より数字が優先されました」。
「数字」はすべてを物語るといわれている。しかし、「何を優先すべきか」は経営者の意思でもある。「そういうこともあって、年齢的にも、タイミング的にも、ある意味よかった。でも、妻に『和民を辞める』といったら、大反対されました(笑)」。
32歳。会社のなかでもすでに中堅。給料も、悪くなかった。上司からも引き留めてもらった。それでも、「独立する」という意思を貫いた。

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株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏
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2016年5月6日金曜日

GW少しゆっくりさせてもらいました。

このGW(ゴールデンウィーク)、少しゆっくりさせてもらいました。
おかげで充電出来ました。
元気発信企業で、かつトップは元気でないとシャレになりませんからね(笑)


2016年5月4日水曜日

都内各エリアのマンション高騰率(東京都内)

曳舟エリアが、山手線外側エリアでマンシヨン高騰率4位。
また、品川エリアは相変わらず高く、山手線内側でマンション高騰率2位。

もしかして、先見の眼があるのでは…(笑)

2016年5月3日火曜日

久々に昔の自分の姿見てるようで嬉しい!

前職時代の20代の頃、ほぼ未達成の営業所の悪い環境ややる気の無い人もいるなかで、自分は個人も営業所も1位獲りたくて他人にも自分にも厳しかったな。
よくいつでも辞めてやるって言ってました(笑)
それから30年の時が経ち、今よく似た営業マン時が巡り会え、若かりし頃を思い出させてくれ意欲湧かしてくれます。
良くしようとすると当然のこと。
こんな奴がトップになれる環境を作らねば…。

2016年5月2日月曜日

箱根ロープウェイ、大涌谷駅までの運転が再開されました。

箱根ロープウェイ、大涌谷駅までの運転が再開されましたので行ってきました。
名物『黒たまご4月28日からくろたまご館4(旧ロッヂ富士見苑)で販売。
1個で7年長寿になるということですが、父親が食べれるようになれば食べさせてやりたいです。
(大涌谷駅より)
(芦ノ湖&富士山)

株式会社エキサイト 代表取締役社長 井口孝志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エキサイト 代表取締役社長 井口孝志氏登場。
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ラグビー少年、船に乗る。

中学からラグビーを始めた。中学2年からは、スクールに通うほどのちからの入れようだった。
「札幌で唯一、花園に出ている公立高校に受かるために勉強もしました」。花園とはいうまでもなく、高校ラグビーの聖地である。
「私が進学したのは、札幌では毎年優勝している公立学校です。でも、あくまで札幌での話で、毎年、札幌ではいちばんでしたが、北海道の大会では勝ちきれず、ついに花園の切符は手に入りませんでした」。
今回ご登場いただいた、株式会社エキサイトの代表取締役社長、井口孝志氏は1974年7月2日、札幌市に生まれる。小さな頃はからだが大きかったが、中学では背丈が伸びず、ラグビーではフォワードのなかでも、小柄な選手が多いフランカーというポジションだったそうだ。
大学でも、ラグビーをつづけた。
進学したのは、現東京海洋大学。船舶関係の国立大学である。この大学にもラグビー部はあった。だが、井口氏いわく「伝統はあったが、弱い大学だった」そうである。
大学の4年間は、寮生活を送っている。「バイトは、基本、船関係しか許されません。私も、港湾などでバイトをしました。海洋にも出ます。ある意味、優遇されていました。学費も安いし、大学生活の最後には国からお金をもらって、76日かけ世界一周もさせてもらいました」。もっとも4人で暮らす寮生活も、船のうえの生活も、過酷だった。海洋に出ると、海が荒れ、甲板で波にさらわれそうになったこともある。卒業生の1/3~1/2は、外航船などの船乗りになった。
しかし、井口氏は、技術系の仕事に就くため大学院に進んだ。船乗りにならなかったのは、船酔いがきつかったからだそうだ。とはいえ、この4年間は、井口氏の視界を広げた4年間ではなかったか。いままで経験したことのない、息が詰まる寮生活もそうだし、世界一周も、その要因の一つである。
ラグビーで鍛えたからだがモノを言った4年間ということもできるだろう。

日揮、入社。インドネシア、滞在。

「就職したのは、日揮」と井口氏はいう。日揮といえば、世界的なエンジニアリング会社である。「私の動機も、日揮なら、『船より大きなモノがつくれる』でした。スケールの大きさに惹かれたんです」。海外に行けることも、動機の一つ。
「海外にはもともと興味があって、20歳の時に1ヵ月だけですが、語学留学もしました」。
「大きなモノづくり」「海外」。この2つが決め手となったそうだ。
狙い通り、本社で3年半勤務したのち、海外に旅立っている。
「インドネシアです。こちらで1年半くらい仕事をさせていただきました。日本人は私を含め8人、従業員は400名です。衣食住も手当され、60万円の給料とは別にお小遣いまで支給されました。でも、残念なことに街まで3時間。週末以外は、遊びにもいけませんでした(笑)」。
海外での暮らし。お金もあって贅沢な暮らしができたが、井口氏は「もういい」と思ったそうだ。その思いを証明するように、帰国後、「日揮」を退職している。会社勤めが、どうも性に合わなかったからだ。

1億円、5年分割で、「ひもの屋」を買った。

「海外が、もういいっていうより、やっぱりサラリーマンだとできることも限られてしまう。日揮にはむろん感謝はしていますが、もっと自由に海外とも接したかった。そうするためには、起業するしかありませんでした」。
「起業する」と、簡単に宣言しても、すぐにできるわけはない。この時、すでに井口氏は31歳。技術一筋のエンジニアである。できることも限られている。
「そうですね。ふつう、起業、独立なんていうと、すぐにできるわけはないと思われがちですが、私の場合は、案外スムーズでした」。
どういうことだろう?
「『つぼ八』を創業された石井誠二さんの本を読んで、すべてがスタートします。当時、石井さんは、八百八町を創業され、『八百八町』『ひもの屋』を展開されていました。ビジネスのスキームも独特で、私は、『ひもの屋』を1億円で買いました」。買った?「そう、5年分割です。もちろん、石井さんに認められた者しか起業でないスキームです。私は、何名もいた候補生のなかでも、いち早く起業させていただいた方です」。
井口氏と同様のスキームで起業した人もいたが、全員が成功したわけではないそうだ。「だめなら、店ごと石井さんに返すことになっていました。確率的には40人いて10人が成功するかどうかです。それでも、多くのチャレンジャーが挑戦しました」。

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株式会社マル安 会長 中山 望氏登場。

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中国河南省。

中国河南省は、黄河の下流にあり、殷の都をはじめ、中国の歴史のなかでも重要な都市が置かれたところだそうだ。ちなみに、殷は紀元前17世紀頃に建国されたという。日本ではまだ縄文時代である。
さて、今回、ご登場いただいた中山氏が、この河南省に生まれたのは、1963年である。兄弟は3人で、弟と妹がいる。両親は学校の先生をされていた。中山氏が初来日したのは、23歳の時。1986年のことである。
「当時の日本は、バブルの只中です。私は、中小企業の研修制度に応募し、初めて日本に来ました。研修という名目ですが、人手不足の解消が狙いだったんだと思います」。
勤務したのは、沼津の水産会社。
「研修期間は1年でしたので、初めての日本はわずか1年です。ですが、この1年はとても濃い1年です。上司に銀座に連れて行ってもらったのも、この時です。衝撃を受けました(笑)」。
もともと中山氏は、研修団の副団長という肩書で来日していた。当時の中国は改革解放政策を行っていて、資本主義について学ぶことが一つの目的だったそうだ。
1年の研修期間を経て、帰国した中山氏は、今度は学留学生として再来日。それが26歳の時だ。
「当時の中国は留学ブームだったんですね。私は日本で、日本語学校に通いました。この時、ラーメン店や居酒屋、ホテルの配膳などのアルバイトを経験します。今の原点と言えるかもしれません」。

33歳、経営者への道。

「26歳で再来日し、いろいろなアルバイトをやりながら生計を立て暮らしました。33歳の時に、在日中国人の先輩に『店をやらないか』と声をかけてもらい、新宿歌舞伎町にあった和風居酒屋店の店主となります。同時に、内装業も開始しました」。
33歳、中山氏の人生が大きく動く時である。アルバイトから、経営者へ。結局、この時は失敗に終わるが、それも、一つの経験であり、財産となったはずである。
「内装のほうでは愛知万博にもかかわったんですが、どうもうまくいかない。結局、どちらも行き詰まってしまったんです」。
店も、内装事業も手放した中山氏は、中国人向けの新聞発行を手伝ったり、貿易の仕事に手を出したりした。
「やりたいと思ったことには、なんでもチャレンジしました。2005年、横浜市中区で料金均一の居酒屋をオープンしたのも、この挑戦の延長と言えるかもしれません。『遊食家 楽店』というお店です」。

料金均一。

中山氏は、「楽店」で2つの仕掛けをした。一つは、営業時間である。
「当時は、深夜帯に営業しているお店が少なかったんです。私は、歌舞伎町で店をやっていたもんですから、深夜帯にもお客さんがいることがわかっていました。だから、営業時間を深夜から朝9時までとしたんです」。
もう一つはすでに書いたが「料金均一」である。のち、この料金均一はブームとなるが、その先鞭をつけたのが、この中山氏がオープンした「楽店」である。
「もともとは、古民家風の高級なお店だったんです。しかし、もうバブルの頃でもないし、いわゆるデフレです。デフレ時代に、いままでと同じ発想では、通用しない。それで、思いついたのが、料金均一です」。
バブルの頃から日本に来た中山氏は、日本人以上に日本を観てきた人である。
「いまでは、かなりの数になりましたが、当時、何百円均一なんてお店は、まだまだ少なかったんです」。
デフレの風に乗った。「料金均一」と銘打ったお店は、すぐに客の心をつかんだ。営業を開始すると同時に、客が殺到する。ようやくつかんだ勝機である。

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株式会社マル安 会長 中山 望氏
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2016年5月1日日曜日

性格は変わらないが人格は変わると…。

またまた、こんな内容書かれてるブログ見つけました。

人間どなたも
性格は変わりません
ですから性格は
いじらないことです 
性格は変わりませんが
人格が変わります


なるほど…

あと期待はしますが、過度な期待はしないことですかね

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