本文より~
中学時代、目標だったのはパイロット。
今回ご登場いただく、株式会社フレッシュネスの代表取締役 紫関氏が生まれたのは1961年7月29日である。出身は千葉県千葉市。「父親は、川崎製鉄の子会社で勤務していました。私は、一人っ子。甘やかされていたわけじゃないけど、特に『勉強しろ』って言われた記憶もないね。当時はね。野球ですよ。放課後になるとさ。友達なんかが公園に集まってさ。棒切れ持って、野球が始まるんです」。
遊んでばかりいたわけではない。
「ぜんぜん覚えてないんだけどさ。5歳の時に、母に『バイオリンをやりたい』っていったそうなんです。どうしてだろうね。でも、バイオリンはまだ無理ってことで、エレクトーンを習いました。小学3年で辞めちゃったおかげで、いまじゃぜんぜん弾けないんだけどね」。
勉強はしないと書いたが、成績は良かったそうだ。運動も、音楽も良くできたほうだという。
「私が小学6年生の時に、千葉で国体が開催されることになり、鼓笛隊を編成するってことで、各小学校から楽器ができる生徒が集められたんです。私はトランペットを吹きました。今思えば、いい思い出の一つだね」。
中学ではバレー部に入部。この頃にはなぜか、パイロットになりたいと漠然と思っていたそうだ。「理由は、もう忘れちゃったよ。たぶん、テレビかなんかの影響なんでしょうね。パイロットになるぞって(笑)」。
たしかに、頭脳明晰、運動神経抜群。パイロットもあながち無理な目標ではなかったはずだ。
「なんでも、できる」と思い込んでいた紫関氏が、初めてカベにぶち当たったのは、高校受験のことである。それでも県内でも有数の学校に進学するのだが、めざすはトップ校だっただけに、悔しい思いをしたのは事実である。
「それでね。入学当初は、学年でもトップクラスだって思っていたんです。ところが、因数分解のテストでなんと赤点です(笑)。いまだから笑えますが、当時は悔しくって。本来、負けず嫌いですから、『ちくしょう』って思って、駿台に通い始めました(笑)」。
もっとも、駿台通いは、初の東京通いでもある。けっして、予備校では優等生ではなかったそうだ。
遊んでばかりいたわけではない。
「ぜんぜん覚えてないんだけどさ。5歳の時に、母に『バイオリンをやりたい』っていったそうなんです。どうしてだろうね。でも、バイオリンはまだ無理ってことで、エレクトーンを習いました。小学3年で辞めちゃったおかげで、いまじゃぜんぜん弾けないんだけどね」。
勉強はしないと書いたが、成績は良かったそうだ。運動も、音楽も良くできたほうだという。
「私が小学6年生の時に、千葉で国体が開催されることになり、鼓笛隊を編成するってことで、各小学校から楽器ができる生徒が集められたんです。私はトランペットを吹きました。今思えば、いい思い出の一つだね」。
中学ではバレー部に入部。この頃にはなぜか、パイロットになりたいと漠然と思っていたそうだ。「理由は、もう忘れちゃったよ。たぶん、テレビかなんかの影響なんでしょうね。パイロットになるぞって(笑)」。
たしかに、頭脳明晰、運動神経抜群。パイロットもあながち無理な目標ではなかったはずだ。
「なんでも、できる」と思い込んでいた紫関氏が、初めてカベにぶち当たったのは、高校受験のことである。それでも県内でも有数の学校に進学するのだが、めざすはトップ校だっただけに、悔しい思いをしたのは事実である。
「それでね。入学当初は、学年でもトップクラスだって思っていたんです。ところが、因数分解のテストでなんと赤点です(笑)。いまだから笑えますが、当時は悔しくって。本来、負けず嫌いですから、『ちくしょう』って思って、駿台に通い始めました(笑)」。
もっとも、駿台通いは、初の東京通いでもある。けっして、予備校では優等生ではなかったそうだ。
国立も、めざしたが、あっけなく撃沈。
「大学受験は、2回やっています。現役の時は、国立と早稲田と慶応と中央大学を受けたんだが、ぜんぶだめ。で、翌年も、受けたんだが縁がなかったのか、結局、青学に落ち着きました」。
大学では、テニスサークルに所属。青春を謳歌した。その大学時代が終了する。「あの頃は、いちばんが金融関係で、つぎがマスコミとか、いろいろあって、サービス業っていうのはやっぱりいちばん下。そういうヒエラルキーが出来上がっていたんだな」。
ある意味、飲食の敷居は、マスコミや金融などより高かった。行きたいと思っても、回りから反対されるからだ。「まさに私の場合がそうだったんだよね。いま思うとね、ちょっと単純なんですが、大学時代にホテルでバイトをしていたでしょ。それと当時やっていたテレビドラマから影響をもろに受けてね。それで、ホテルに行くと言ったら、ゼミの先生に呼び出され、1時間説教をくらった。それでも、意思は固かった。就職したのは、東急ホテルです」。当時、東急ホテルは株式を上場。破竹の勢いで出店を重ねていた。
大学では、テニスサークルに所属。青春を謳歌した。その大学時代が終了する。「あの頃は、いちばんが金融関係で、つぎがマスコミとか、いろいろあって、サービス業っていうのはやっぱりいちばん下。そういうヒエラルキーが出来上がっていたんだな」。
ある意味、飲食の敷居は、マスコミや金融などより高かった。行きたいと思っても、回りから反対されるからだ。「まさに私の場合がそうだったんだよね。いま思うとね、ちょっと単純なんですが、大学時代にホテルでバイトをしていたでしょ。それと当時やっていたテレビドラマから影響をもろに受けてね。それで、ホテルに行くと言ったら、ゼミの先生に呼び出され、1時間説教をくらった。それでも、意思は固かった。就職したのは、東急ホテルです」。当時、東急ホテルは株式を上場。破竹の勢いで出店を重ねていた。
うろこ取り、エビの背ワタ取りで学んだこと。
「新卒、しかも大卒でしょ。いわば幹部候補なんですよ。しかも、私は入社式の際に、新卒の代表に選ばれたもんですから、なかなか人間関係も難しかったと思います」。新卒は、ぜんぶで40~50人。大卒はそのなかで7~8人。いわばエリートだ。
ホテルに配属されると、まずはローテーションで仕事を経験する。ベルボーイ、半月。ハウスクリーニング、半月。調理1ヵ月、レストラン1ヵ月。宴会も、仕込みも、ぜんぶ経験する。
「私が配属されたのは、今はもうないんですが、銀座の東急ホテルです。夏になるとビアガーデンが始まるんですが、ある日、私がイカを焼いていると、たまたまテニスサークルの後輩が通って、『アレ』って。『先輩、それってアルバイトじゃないですよね』なんてね。気まずくはなかったけど、なんかね」。
いちばん辛かったのは、仕込みだという。「仕込みっていうのはね。たとえば魚のうろこを取るなら、ずっと取る。エビの背ワタを取るなら、ずっと取る。1日中その作業ですよ。でも、今思えば、そういうことをする人がいて、ホテルって成り立っているんだなというのが、わかった、すべての仕事をローテーションで経験したのは、大きな財産になった気がするね」。
ホテルに配属されると、まずはローテーションで仕事を経験する。ベルボーイ、半月。ハウスクリーニング、半月。調理1ヵ月、レストラン1ヵ月。宴会も、仕込みも、ぜんぶ経験する。
「私が配属されたのは、今はもうないんですが、銀座の東急ホテルです。夏になるとビアガーデンが始まるんですが、ある日、私がイカを焼いていると、たまたまテニスサークルの後輩が通って、『アレ』って。『先輩、それってアルバイトじゃないですよね』なんてね。気まずくはなかったけど、なんかね」。
いちばん辛かったのは、仕込みだという。「仕込みっていうのはね。たとえば魚のうろこを取るなら、ずっと取る。エビの背ワタを取るなら、ずっと取る。1日中その作業ですよ。でも、今思えば、そういうことをする人がいて、ホテルって成り立っているんだなというのが、わかった、すべての仕事をローテーションで経験したのは、大きな財産になった気がするね」。
・・・続き
株式会社フレッシュネス 代表取締役 紫関 修氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)