2016年5月10日火曜日

株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏登場。
本文より~

関西大学。ボクシングクラブ。

3人兄弟の長男。父親は岩手出身で、新日鉄に勤務されていた。一流会社である。のちに千葉氏が「和民」に入社する時に、反対されたのも頷ける。
千葉氏が生まれたのは、1978年。愛知県の知多半島にある知多郡阿久比町で育った。中学、高校と水泳部に所属していたが、熱心に取り組んだという記憶はない。
1年、浪人し、「一橋大学」を受験するが不合格。滑り止めで受験した関西大学に入学する。「当時、ろくでなしブルースって漫画が流行っていて、それでボクシングに興味を持ち、経験もないのにボクシング部に入部します。ぜんぜん強くはなく、部員も10人くらいの弱小クラブでした。最初は、3部リーグ、私たちの最終年になんとか2部に昇格します。私自身も、3年までは勝てなかったんですが、3年になって突然勝ち始めました(笑)」。
51キロ以下のフライ級だった。ちなみにネットで調べてみると、現在は、当時より部員も増え、1部リーグにまで昇格している。千葉氏らの活躍が引き金になったそうだ。

「和民」に就職。

体育会系で、関西大学出身である。就職時には、15社から内定をもらった。
「大学時代のアルバイトは飲食です。最初のアルバイトは、ホテルの厨房。そこで料理にこだわるシェフの姿をみて、憧れを抱きました。飲食だけではなく、様々な業種の企業を受け内定ももらったんですが、『和民』の渡邊社長の話を聞き、また高杉良氏の『青年社長』を読んで、『和民』に入社を決めたんです」。
冒頭に書いた通り、父から反対される。すでに「和民」は上場していたが、すすんで「息子を飲食に」という時代ではまだなかったのだろう。
「しかし、結局は上場企業だってことで、納得させました」。飲食には、就職するにもカベがあった時の話である。

「和民」、そして独立。

400字詰め原稿用紙、10枚に入社理由を書いた。熱い思いを綴った。10年勤務し、独立するという決意も、そのなかで述べている。
入社8ヵ月目にして、店長になる。「荻窪店です。60坪、120席。スタッフは15名でした」。新卒社員が、わずか8ヵ月で店長になる。稀とは言わないが、千葉氏の実力が評価されたうえでの抜擢だろう。
「オペレーションを強化しました。オーダーから配膳までの時間短縮に取り組んだんです」。今思えば、楽しい時代だった。渡邊社長というキラ星がいて、周りにも尊敬できる先輩・上司がたくさんいたからだ。仕事にも自信があった。「この料理を、この価格で、という『和民』の強みに対する自信ですね」。連日、お客様が来る。予約を増やそうと、周辺のオフィスを回ったこともある。
「『和民』が、私のベースです。人間関係も、『和民』中心です。いまも、当時の先輩たちとはお付き合いがあります」。
「もともと、10年たったら独立すると宣言していたこともあって、32歳で独立しました」。もうひとつ理由がある。「当時、『和民』のオペレーションもずいぶんかわりました。料理も、いままでとは違った。何より数字が優先されました」。
「数字」はすべてを物語るといわれている。しかし、「何を優先すべきか」は経営者の意思でもある。「そういうこともあって、年齢的にも、タイミング的にも、ある意味よかった。でも、妻に『和民を辞める』といったら、大反対されました(笑)」。
32歳。会社のなかでもすでに中堅。給料も、悪くなかった。上司からも引き留めてもらった。それでも、「独立する」という意思を貫いた。

・・・続き

株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏
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