2016年6月29日水曜日

株式会社しゃぶ禅 代表取締役会長 菅野 晃氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にあの伝説のディスコ“マハラジャの創業者のおひとりの株式会社しゃぶ禅 代表取締役会長 菅野 晃氏登場。
本文より~

和歌山の九度山に生まれた、長男と次男。

九度山町は紀ノ川の南側にあり、かつて「真田幸村」が配流させられた町として知られている。この九度山町に今回ご登場いただく菅野氏が生まれたのは1942年のこと。
当時から人口が少なかったに違いないと調べてみたところ、1970年以降に過疎化が進み、年代が代わるたびに一段と人口が減っていた。
菅野氏の父親はこの町でパルプ工場を経営されていたそうである。大阪大学を卒業し、大手化学メーカーに入社。子沢山で、末っ子の菅野氏は5番目の子どもである。しかも、長女とは14歳違い、長男とも7歳離れている。
「いちばん近いのが三女ですが、それでも5歳離れていました。年がぜんぜん違うから兄弟喧嘩もなく、かわいがられて育ったというのが、小さな頃の記憶です」。
事業をされていただけに裕福な環境だったはずだが、菅野氏が小学5年生の時に会社が倒産してしまった。
「そういうこともあって、私が中学1年生の途中で一家で東京に引っ越します」。東京に引っ越したのは、父親の親戚が多くいたからだそうだ。
ところで、この時、長男の菅野諒氏は、すでに大学生である。「兄は、立教大学の経済学部です。彼は、大学を卒業し、大手の証券会社に就職しました」。
小遣いも、兄からもらったそうだ。そんな兄の諒氏は、29歳の時、証券マンとして敏腕を振るいつつ、そのかたわらで飲食店を開業する。
「私が22歳の時ですね。原宿に『檻の中』という今でいうスナックをオープンしました。民家の倉庫を改造したお店で、広さは20坪くらいだったでしょうか。当時として斬新で、靴を脱いで飲食するスタイル。いわゆる『絨毯BAR』です。私も何度か客としていきましたが、丸いテーブルがあって、ギターの弾き語りがあり、お客様は絨毯のうえに座布団を敷いて飲食します。この店が大ブレイクしました」。
絨毯BAR。「絨毯」という響きが、今ではなんとなく懐かしいが、1960年代の当時は、それがまだ、斬新な響きだったのだろう。
「月商300万円。利益は月150万円。初任給が、2万円くらいだった頃のことです。私はちょうどその頃、芝浦工大を卒業し、住友スリーエムに就職。正確な記憶はありませんが、初任給はたしかに2万円くらいだったと思います(笑)」。
当時、「住友スリーエム」はコンピュータに利用する磁気テープなどをつくっていたそうだ。菅野氏は、エンジニアで採用されている。

「最後の20セント」が、大ブレイク。

兄の諒氏は前述通り、最初は証券マンと二足の草鞋を履かれていたわけだが、2年くらいして飲食一本に絞られた。そして、『檻の中』以外にも、2店舗目、3店舗目を出店されていく。
ちなみに、この2つの店名も表記する。2舗目は、渋谷にオープンした「深海魚」。そして、たぶん、こちらのほうが有名な気がするが、六本木にオープンした「最後の20セント」。
いずれも、一世を風靡した店である。
「最後の20セントは、アルカポネみたいな世界観です。スーツの胸ポケットに、おもちゃのピストルを差し込んで」と菅野氏は愉快そうに話す。
もちろん形式は「絨毯BAR」。店内には真紅の絨毯が敷き詰められていた。
この店が、いうならば「マハラジャ」の原型である。
ところで、菅野氏は28歳の頃に、兄の諒氏から誘われている。
「会社組織にするから来いっていうんです。当時、私は6年目でしょ。親会社のスリーエムに1年の留学も決まっていたんです。でも、兄から『給料はこれだよ』って言われ、その額についクラって来て、『わかった』と返答してしまうんです。え? 額ですか?当時、6年目の私の月給が6万円くらいです。兄が提示した額は5~6倍でした(笑)」。
むろん、額だけの話ではないだろう。何かと気をかけてくれる兄の誘いをむげにはできるような菅野氏ではない。
菅野氏は、28歳で「専務取締役」となった。

ディスコテック。新たな時代の幕開け。

「当時の会社は、むろん若いスタッフばかりです。アルバイトだけで40人くらいはいました。私たちも模索の時代です。時代の先がわからない時代だったんです。ただ、お手本がありました。アメリカです」。
菅野氏によれば、当時は「最後の20セント」もそうだが、生バンドが決め手だった。
「しかし、生バンドはリアルではあるんですが、一流のバンドにはかなわない。なかには下手な奴もいるわけでしょ。ならいっそのこと、ディスクにしたほうが『音楽的に上等なんじゃないか』ってことになって。アメリカではそういうディスコテックっていうのがすでに流行りだしていたこともあって、それをお手本にやってみようということになったんです」。
これが、日本におけるディスコテックの始まりである。ディスコテックは、「ディスコ」の語源となったフランス語「discotheque」、意味は、「レコードの置き場」となるそうだ。
このディスコテックの1号店が「メビウス」である。
「メビウス」がオープンしたのは、昭和50年の頃。ウィキペディアでは、「日本で最初にレコード演奏のみで営業した」と紹介されている。
むろん、こちらの店を記憶している人も少なくないだろう。ともかく、兄、諒氏とともに、菅野氏兄弟の新たな幕が上がる。

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2016年6月25日土曜日

明日、四九日でいよいよ納骨か。

明日、父親の四九日で実家に泊まる。
ひとりだが、なぜか落ち着く。
深夜2時近くになった時、突然家のブレーカーが落ちる。
実家の電気が落ちるって生まれて初めての出来事。
そんな電気付けてないのに、不思議だ。
父親が近くにいるのかな……。
いつも父親が座る座椅子に腰掛け父親が書いてた日記を読んだでみた。
ちょうど数年前、冬場で寒いため約2カ月だけ京都市内の老人介護施設に入居してた父親の日記には、早く家に帰りたい、早く家に帰りたいと数回書いていた。
よほど家が好きだったようだ。
だから、脳梗塞で倒れ、亡くなるまでの半年間、病院で話せない、動けない状態でいたから、よほど寂しかったに違いない!
最後に家で死にたかっただろうな…。
また、日記には東京に行く予定と書いてたが、東京に行くことが本当に元気にの源だったようだ。
いよいよ明日納骨。
この世からあの世に旅立つ時がきた。
お父ちゃん、本当にお疲れさまでした。
そして、大事に育て上げてくれてありがとう!!
あの世で、お母ちゃんと一緒に、また同級生やとり市の仲間たちと会って幸せに過ごしてな。
(いつも実家に帰ると、父親連れてのお決まりコースでした)

2016年6月22日水曜日

株式会社SOLE 代表取締役 上野陽治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社SOLE 代表取締役 上野陽治氏登場。
本文より~

会津若松市にて、過ごした少年時代。

福島県の西部一帯を占める会津地方の中心が、会津若松市である。今回ご登場いただく上野氏が会津若松に生まれたのは1982年のこと。2人兄妹の長男である。
「小学校の頃は、近くの阿賀川で魚を取ったり、泳いだりして遊んでいました。周りの子は、ファミコンを持っていましたが、うちは買ってもらえなかった。ぜんぜん裕福じゃなかったからです」。
成績は10番目くらい。小学4年生からバスケットボールをはじめ、中学校ではバレー部に入った。「野外でするスポーツがどうも苦手だった」と上野氏。バレー部は結構な強豪校で、上野氏の1つ上の学年までは、会津市の大会でつねに優勝していたそうだ。「私たちの代で監督が代わって、急に弱くなりました(笑)」。なんでも監督自身、バレーの経験がなかったそうだ。

ツイストパーマをかけ、茶髪で決める。

会津工業高校に進学した上野氏は、音楽に熱中する。音楽は野外でやらないから問題がない。バンドを結成し、ライブハウスで演奏した。チケットをさばくついでに、女の子にアプローチし、連絡先を聞いたりもした。多少なりとも利益がでたというから、人気バンドだったのだろう。もっとも、親から小遣いを貰ったことがない上野氏である。ケータイ代のために、セブンイレブンでアルバイトもしなければならなかった。
「音楽は、高校1年からスタートしました。当時は、パンクが流行っていて、私の頭もツイストパーマで茶髪です。だからと言って、真面目じゃないわけじゃありません。ただ、担任の先生がおおらかな人だったから許されたものの、そうでなければ、ずいぶん怒られたかもしれない。バイトも、髪型も、校則違反です(笑)」。
「セブンイレブンのバイトは楽しかったです。オーナーがとてもいい人で、私らをかわいがってくれました。展示会にも連れていってもらったし、経営のことも、勉強させてくれました」。
仕入れから流通、販売まで。原価がわかれば、利益構造もイメージできる。すべてがわかったわけではないが、高校時代から、そういう経営目線を持っていたことが伺える。
「そうですね。たしかにあの頃から経営に関心があった気がします。ライブだって、チケットをさばいて会場費を払って、残りが利益でしょ。さばいただけ、利益になる。そういう単純な構造に惹かれたんでしょう」。

6年間の下積み時代。

「お金があったら、東京に行っていたかもしれません」と上野氏は言う。会津だけでは、なかなかいい会社に出会えなかったからだ。「当時、カリスマ美容師っていうのが流行っていて、一時は、美容師もいいなと思ったんですが、専門の学校に行くにも、とにかくお金がない。とはいっても普通の就職を考えていたのは最初だけで、卒業する頃には、独立を前提に考えていました。そして、就職したのがバーです。いちばん、給料もいいし、何より私にも独立できそうな気がしたからです」。
月23万円。たしかに給料も悪くなかった。両親に反対されたが、聞く耳をもたなかったそうだ。「合計6年間。昼夜逆転の生活です」。この6年間を上野氏は、「下積み」と明言している。6年間、独立という目標を見失わなかった証拠ともいえるだろう。
独立すると明言していたが、実際に独立すると、後指をさされたそうだ。あいつにできるわけがない、と。「いわば、同業のライバルですから、そう言われてもしかたありません」と上野氏は悪きっている。
ところで資金はどうしたんだろう。「いっときは300万円くらいまで貯めたんですが…」と苦笑い。
一人暮らしを始め、車も購入して、使ってしまったそうだ。
「そういう意味では、目標を見失いかけていた時期があったのも事実です。これではまずい、と思ったのが23歳の時です」。再チャレンジ開始。1年間で150万円を貯蓄した。これが、独立の元手となる。

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株式会社SOLE 代表取締役 上野陽治氏
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21日の日刊ゲンダイに、小松庵総本家の小松社孝至社長が取り上げられました。

21日の日刊ゲンダイ『社長の私生活』に、六義園近くに本店がある小松庵総本家の小松社孝至社長の記事が掲載されました。
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6月21日、千葉商科大学池田ゼミにて株式会社フレッシュネスの紫関社長の講義でした。

今年で5年目に突入の現役飲食経営者によるゼミ講義。
21日は千葉商科大学・サービス創造学部の池田ゼミにて、フレッシュネスバーガー(株式会社フレッシュネス)の紫関社長の講義でした。
今回も事前課題を基に、学生たちに案を出してもらうという内容でした。
池田ゼミ生の皆さん、池田先生に感謝です!!
大変いい講義でした。
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2016年6月21日火曜日

勘の良さ、空気を読む力を磨く。

人の表情見てるといろんなことがわかる様になる。
つまり、勘が磨かれたり、空気が読める様になる。

個人差があるもののそれは努力すれば、誰でもできること。
だから、野球やサッカーなどスポーツとは違い、
数をこなせばこなす分努力で解決出来る!

それを若い時にやるかやらないかで大きな差が出る。
ただ、年齢やキャリアが出てくると、後輩が入りプライドが邪魔するからそうもいかないかな(笑)
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2016年6月20日月曜日

キイストンの営業マン、皆が力付けてくれてます!

今の体制になり、営業マンが力を付けてきてくれています!!
求人営業の経験者や大手企業出身からの採用もしましたが、
やはり素直で向上心ある20代の営業未経験が力を発揮してくれてます。
キイストンは昔からそうでしたが、はやり夢・希望を持った人材がいいですね!

おかげで、私も営業マンの延長からやっと違う動きがやっと出来るようになりました。
メンバー指導や戦略面もどんどんできる人材に任せて、自社内で社長を沢山輩出したい!
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2016年6月15日水曜日

6月14日、帝京大学にて“企業人交流会”で麺食の中原社長お話し頂きました。

14日、帝京大学の経済学部・磯山ゼミにて“企業人交流会”という初の試みを実施されました。
これは会社の代表の方に参加頂き、ゼミ生に働く魅力、仕事研究で、職業選択意識を身につけさせるということで、座談会形式でした。
今回限定3社だけなんで、うち1社外食業界枠を頂き、外食代表として麺食(喜多方ラーメン坂内)の中原社長にお話して頂きました。
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株式会社GMS 代表取締役 田中 剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社GMS 代表取締役 田中 剛氏登場。
本文より~

本州の北端。海の向こうは北海道。

今回、ご登場いただく株式会社GMS、代表取締役、田中剛氏は、1969年10月18日に青森県三厩村に生まれる。三厩村は、「みんまやむら」と読むそうだ。ネットで調べてみると、津軽半島の最北端に位置していた村ということである。北海道と青森を結ぶ青函トンネルが、村の地下を走っている。
「私は、兄弟5人の3男です。4人が男で、女は妹1人です。運動神経は、妹以外、みんな良くって、長男はフェンシングで割と名が通っていました。親父は、祖父の代からつづく、漁師です。青森といえばマグロが有名ですが、私が生まれた頃は、青函トンネルの工事の影響もあって、津軽半島にマグロはいなくなっていたそうです。私も、小さい時は、何度か漁に連れて行ってもらいました。当時は、イカやサメが主でした。親父は、寝る間も惜しんではたらいていました。そういう血を、私もどこかで受け継いでいるんだと思います」。
三厩村は漁業が産業の小さな村だった。小・中とも1クラス。「私らの頃は、とにかく高校出たら働くというのが、当然の選択肢でした。私も、青森山田高校に進学するんですが、卒業してすぐに『天狗』を展開する、テンアライドに就職します」。

ラグビーで、鍛えた心とからだ。

話は少し飛んだが、「青森山田」と言えば、いまや野球の名門校である。中学で野球をやり、ピッチャーで4番だった田中氏である。野球推薦か、と思ったが、そうではないらしい。「それは、いまの話でしょ。私らの時はそうじゃなかった。青森山田の生徒っていうだけで、アルバイトも断られるくらいの高校だったんです(笑)」。
中学では怖いもの知らずの田中氏だったが、さすがに怖い高校だと思っていたそうだ。「公立高校を落ちたので、就職しようと思っていたんです。でも、親父が『高校くらい行け』っていうんで、私立だったんですが、行かせてもらうことにしました」。
中学時代といっぺんして優等生になる。3年間、無遅刻無欠席。「怖いと思っていたんですが、入るとそうでもないんですね。たしかに1/3くらいは怖い人でしたが、残り2/3はバカだったんです。私も含めて(笑)」。
この高校で、田中氏はラグビーに出会っている。優等生の理由も、無遅刻無欠席の理由も、ラグビーが一枚噛んでいる。「ラグビー部の顧問に誘われてね。でも、最初はやる気もなくってサボっていたんです。1年の時は夏合宿にも参加しませんでした。ところが、合宿から帰ってきた奴らをみて、感動しちゃうんですね。みんな別人のようになっていて。格好いいな、と。それで、私も真剣にラグビーをするようになるんです」。
話は脇道にそれるが、ラグビーに偶然はない、という。それが正しいのかどうか、聞いてみた。「そうですね。偶然は、絶対ない。野球とかならピッチャーの調子が悪くて、っていうのがあると思うんですが、ラグビーは強いチームに、弱いチームが勝つなんてことはまずない。偶然がないスポーツだから、相手に勝つには、相手より強くならないといけないんです」。
猛練習をつづけたそうだ。「あの時のことを思えば、どんなことでも耐えられる」と田中氏は笑う。

料理のプロの技。

前述通り、高校を卒業した田中氏は「天狗」を展開するテンアライドに入社する。2年間、居酒屋で勤務して、もう辞めようと思ったそうだ。「それが、社長の耳に入って、居酒屋がイヤでも、中華ならいいだろうって、逆に、中華の立ち上げに誘われるんです」。
この時、田中氏は、「プロを観た」という。どういうことだろう。「中華の新事業です。それを立ち上げるために、まず四川飯店に3ヵ月修業に行きました。当時20歳くらいでした。四川飯店で勤務されていた山本さんを会社にお招きし、その下で料理を教わりました。ぜんぜん、敵わなかったです。もちろん、敵うなんて思っていたわけじゃないですが、私も2年間居酒屋で調理をしていましたから、多少はと思っていたんです。でも、山本さんの前にでると、タケノコ一つ切れないんです(笑)」。何から何まで、まさにプロの技だった。
「中華料理の値段は、コックの腕の値段だ」という話を良くされたそうだ。「『フカヒレも、そうだ。素材が、けっして高価なわけじゃない。しかし、何日もかけ食べられるようにして、味をととのえる。その時間と技が、値段になっているんだ』。そんな話です。私の力のなさを痛感するとともに、中華料理の奥深さを魅せられた時でした」。
得難い時間を得た。ふつうなら、四川飯店出身の料理人から直接指導してもらえるチャンスはそうない。しかも、田中氏は本格的に料理を習ったこともない素人同然だからなおさらだ。
指導いただいた山本氏には、感謝が尽きない。ちなみに、現在、山本氏は、田中氏の下で、一つの店を運営されている。

ラーメン店、オープンまで。

「オープンするって時に、病気がちだった親父が危ないってことで、実は、会社を辞めて青森に帰ります。でも、向こうにいたら、ぜんぜんだめで親父の見舞いにもほぼいかず昔のツレと遊んでばかりいました。でも、東京で働き詰めだったでしょ。だから仕事が習性になっていたんでしょうね。仕事をしたくなっちゃって。たまたま友達が出稼ぎに行くっていうもんですから、私もついていきました。鳶職でした。川口ジャンクションや、レインボーブリッジ。あれに少しはかかわっています」。
どこかで飲食に戻りたかった、と田中氏はいう。鳶をやりがなら、焼き鳥店でバイトをしたのは、その思いを少しでも満足させるためだった。鳶職も、結構、いい給料になった。でも、心は飲食である。そんな時、行きつけの喫茶店のマスターが、救いの糸を垂らしてくれた。
「資金を出すから、ということでラーメン店をすることになったんです。中華じゃなく、ラーメン専門店です。すぐにオープンっていうわけにもいきませんから、とりあえず、あるラーメン店でバイトを開始しました。そのあと、いろいろあって店を辞めて、トラックの運転手になります。トラックに乗ったのは日本中のラーメンを食べ歩くためでした。そうしながら、1年半くらいかけて、スープをつくりました」。 スープは豚骨。田中氏が全国のラーメンのなかで、最も旨いと思ったラーメンが「博多ラーメン」だったからだ。
「『うまかっちゃん』ってインスタントラーメンがあるでしょ。最初食べた時、あぁ、これがあの『うまかっちゃん』の本物だ、って感動して。当時は背油が主流だったんですが、私はこの博多の味で勝負しようと思ったんです。でも、博多ラーメンって麺も違うんです。だから、わざわざ博多までトラックで行って、いまもお付き合いがある製麺所まで探して。それでいよいよオープンするわけです」。
1995年11月30日、足立区に田中氏、初のラーメン店がオープンする。

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2016年6月8日水曜日

株式会社マグネティックフィールド 代表取締役 山本将守氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マグネティックフィールド 代表取締役 山本将守氏登場。
本文より~

酒屋の次男。

兄弟は2人。兄は良く勉強ができた。「ゲームマニアで、オタク」というのが弟である山本氏の評価。父親は、酒屋を創業。地域密着型の家族経営をつづけていた。
「まだコンビニもない時代に朝の4時や5時まで仕事をしていました。地元の人には、愛されていたと思います。父は外回り、母は、なか。2人で役割をきっちりわけていたようです。でも、朝から晩までがむしゃらに働いていたから、子どもの私たちをみられない。そういう苛立ちもあったんだと思うんですが、2人は喧嘩ばかりしていたという印象です。でも、いいパートナーだったんだと思う。私は小っちゃい頃から『母ちゃん、母ちゃん』って、母を追いかけるタイプ。肝っ玉、母ちゃんが、大好きだったんです」。
兄とは異なり、弟の山本氏は、ゲーム機器のなかではなく、グラウンドを駆けるゲームに没頭した。
「小学校からサッカーを始めるんです。高校は愛工大名電に進学します。名古屋では、強豪校の一つです」。その強豪校で、3年生の時にはキャプテンを務めている。
なんでも、1年生の時には100名いた部員が、卒業時には20名くらいになっていたそうだ。
「私の家から学校までも距離があったんですが、学校からグランドまでが片道18キロ。雨の日も自転車で学校とグランドを往復です(笑)」。
雨の日は制服までびしょ濡れ。2時30分に授業は終わり、4時にグラウンド到着。全体練習は6時までだが、その後も、練習をつづけた。帰宅は12時。ご両親もたいへんだったに違いない。
ちなみに、愛知工業大学名電高等学校、いわゆる「愛工大名電」は、野球の名門校。山本氏の言う通り、サッカーも強豪で、県大会で、ベスト4にはつねに名を連ねている。

サッカー留学?

がむしゃらに仕事をする父と母を観てきた。そんな父母を観て「かっこいい」と表現する山本氏である。山本氏自身も、仕事とは違うがサッカーに没頭する。
当時のサッカー部監督は、そんな山本氏をどうみていたのだろうか。高校3年の夏、山本氏にブラジルへのサッカー留学を勧めた。これがのちにひと波乱を巻き起こすきっかけになるのだが、この時は、夏休みの1ヵ月半のみ。
「日本とブラジルでは、戦術からして違います。いい勉強になりました。高校を卒業して、もう一度ブラジルに渡ったのは、こういう経緯もあったからです」。
高校を卒業した山本氏は、某Jリーグチームのエージェントを通して、ブラジルに渡る。しかし、そのエージェントに一杯食わされた。
「ブラジルに渡ったとたん、エージェントとの音信が不通です。騙されたんだと思ったものの、どうすることもできません。留学の費用や渡航費以外にも、父は、生活費のために400万円くらい渡していたらしいんですが、それも、これも全部パーです」。
2度目といっても、まだ18歳。ずいぶん心細かったことだろう、と思っていたが、どうも、そうではなかったようだ。想像以上に、自立している。
「留学先として予定していたクラブチームのグランドまで行って、グランドの周辺を疾走して、アピールしました。狙い通り、オーナーの目に止まり、テストを受けさせてもらって、見事、合格です。しかし、またまたエージェントの手抜きで、労働ビザが下りないことがわかったんです」。
ふたたび煮え湯を飲まされる。それでも、あきらめず留まった。
「正式なサッカーチームではプレーできないんで、ストリートサッカーもしました。相手のラフプレイで、指をぜんぶ折られたのも、この時。医者に行っても言葉が通じない。生きてくために、言葉も必死で学習しました」。
日本人も多かったのだろう。必死に生きる青年を町の人も応援した。「マサモリ」。町にでれば、いろんな人に声をかけられた。
のちに、山本氏は、あるJリーガーチームで、通訳のような仕事をするのだが、それができたのも、この時があったからだ。日本の有名な酒蔵の親戚の方と縁ができたのも、この時。「物語りですよ」と山本氏。
地球の反対側。18歳の青年は、歯を食いしばることで、様々なことを学んだのだろう。期間にしておよそ1年。とんだ波乱の人生だが、サッカーをあきらめたわけではなかった。

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旧山国小学校同窓会の記事が6日の京都新聞夕刊に。

今年1月23日に40年ぶりの小学校時代の同窓会、楽しかったな・・・。
記録映画を作成して頂いたことで、本当にいい想い出残してもらった。
(6/6京都新聞夕刊より)

2016年6月2日木曜日

6月2日、花研の草野社長、青山学院大学にてゼミ講義されました。

本日6月2日、花研の草野社長に、青山学院大学の総合文化政策学部・堀内にて講義して頂きました。
草野社長は、元くるまやラーメンの代表で大変苦労されましたが、今やこの花研を年商30億円規模まで成長させられました。
キイストンは学生と飲食経営者をつなぐ架け橋やってます。
より多くの学生の皆さんが少しでも飲食業界、また独立に興味を持っていただければ・・・。
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