本文より~
和歌山の九度山に生まれた、長男と次男。
九度山町は紀ノ川の南側にあり、かつて「真田幸村」が配流させられた町として知られている。この九度山町に今回ご登場いただく菅野氏が生まれたのは1942年のこと。
当時から人口が少なかったに違いないと調べてみたところ、1970年以降に過疎化が進み、年代が代わるたびに一段と人口が減っていた。
菅野氏の父親はこの町でパルプ工場を経営されていたそうである。大阪大学を卒業し、大手化学メーカーに入社。子沢山で、末っ子の菅野氏は5番目の子どもである。しかも、長女とは14歳違い、長男とも7歳離れている。
「いちばん近いのが三女ですが、それでも5歳離れていました。年がぜんぜん違うから兄弟喧嘩もなく、かわいがられて育ったというのが、小さな頃の記憶です」。
事業をされていただけに裕福な環境だったはずだが、菅野氏が小学5年生の時に会社が倒産してしまった。
「そういうこともあって、私が中学1年生の途中で一家で東京に引っ越します」。東京に引っ越したのは、父親の親戚が多くいたからだそうだ。
ところで、この時、長男の菅野諒氏は、すでに大学生である。「兄は、立教大学の経済学部です。彼は、大学を卒業し、大手の証券会社に就職しました」。
小遣いも、兄からもらったそうだ。そんな兄の諒氏は、29歳の時、証券マンとして敏腕を振るいつつ、そのかたわらで飲食店を開業する。
「私が22歳の時ですね。原宿に『檻の中』という今でいうスナックをオープンしました。民家の倉庫を改造したお店で、広さは20坪くらいだったでしょうか。当時として斬新で、靴を脱いで飲食するスタイル。いわゆる『絨毯BAR』です。私も何度か客としていきましたが、丸いテーブルがあって、ギターの弾き語りがあり、お客様は絨毯のうえに座布団を敷いて飲食します。この店が大ブレイクしました」。
絨毯BAR。「絨毯」という響きが、今ではなんとなく懐かしいが、1960年代の当時は、それがまだ、斬新な響きだったのだろう。
「月商300万円。利益は月150万円。初任給が、2万円くらいだった頃のことです。私はちょうどその頃、芝浦工大を卒業し、住友スリーエムに就職。正確な記憶はありませんが、初任給はたしかに2万円くらいだったと思います(笑)」。
当時、「住友スリーエム」はコンピュータに利用する磁気テープなどをつくっていたそうだ。菅野氏は、エンジニアで採用されている。
当時から人口が少なかったに違いないと調べてみたところ、1970年以降に過疎化が進み、年代が代わるたびに一段と人口が減っていた。
菅野氏の父親はこの町でパルプ工場を経営されていたそうである。大阪大学を卒業し、大手化学メーカーに入社。子沢山で、末っ子の菅野氏は5番目の子どもである。しかも、長女とは14歳違い、長男とも7歳離れている。
「いちばん近いのが三女ですが、それでも5歳離れていました。年がぜんぜん違うから兄弟喧嘩もなく、かわいがられて育ったというのが、小さな頃の記憶です」。
事業をされていただけに裕福な環境だったはずだが、菅野氏が小学5年生の時に会社が倒産してしまった。
「そういうこともあって、私が中学1年生の途中で一家で東京に引っ越します」。東京に引っ越したのは、父親の親戚が多くいたからだそうだ。
ところで、この時、長男の菅野諒氏は、すでに大学生である。「兄は、立教大学の経済学部です。彼は、大学を卒業し、大手の証券会社に就職しました」。
小遣いも、兄からもらったそうだ。そんな兄の諒氏は、29歳の時、証券マンとして敏腕を振るいつつ、そのかたわらで飲食店を開業する。
「私が22歳の時ですね。原宿に『檻の中』という今でいうスナックをオープンしました。民家の倉庫を改造したお店で、広さは20坪くらいだったでしょうか。当時として斬新で、靴を脱いで飲食するスタイル。いわゆる『絨毯BAR』です。私も何度か客としていきましたが、丸いテーブルがあって、ギターの弾き語りがあり、お客様は絨毯のうえに座布団を敷いて飲食します。この店が大ブレイクしました」。
絨毯BAR。「絨毯」という響きが、今ではなんとなく懐かしいが、1960年代の当時は、それがまだ、斬新な響きだったのだろう。
「月商300万円。利益は月150万円。初任給が、2万円くらいだった頃のことです。私はちょうどその頃、芝浦工大を卒業し、住友スリーエムに就職。正確な記憶はありませんが、初任給はたしかに2万円くらいだったと思います(笑)」。
当時、「住友スリーエム」はコンピュータに利用する磁気テープなどをつくっていたそうだ。菅野氏は、エンジニアで採用されている。
「最後の20セント」が、大ブレイク。
兄の諒氏は前述通り、最初は証券マンと二足の草鞋を履かれていたわけだが、2年くらいして飲食一本に絞られた。そして、『檻の中』以外にも、2店舗目、3店舗目を出店されていく。
ちなみに、この2つの店名も表記する。2舗目は、渋谷にオープンした「深海魚」。そして、たぶん、こちらのほうが有名な気がするが、六本木にオープンした「最後の20セント」。
いずれも、一世を風靡した店である。
「最後の20セントは、アルカポネみたいな世界観です。スーツの胸ポケットに、おもちゃのピストルを差し込んで」と菅野氏は愉快そうに話す。
もちろん形式は「絨毯BAR」。店内には真紅の絨毯が敷き詰められていた。
この店が、いうならば「マハラジャ」の原型である。
ところで、菅野氏は28歳の頃に、兄の諒氏から誘われている。
「会社組織にするから来いっていうんです。当時、私は6年目でしょ。親会社のスリーエムに1年の留学も決まっていたんです。でも、兄から『給料はこれだよ』って言われ、その額についクラって来て、『わかった』と返答してしまうんです。え? 額ですか?当時、6年目の私の月給が6万円くらいです。兄が提示した額は5~6倍でした(笑)」。
むろん、額だけの話ではないだろう。何かと気をかけてくれる兄の誘いをむげにはできるような菅野氏ではない。
菅野氏は、28歳で「専務取締役」となった。
ちなみに、この2つの店名も表記する。2舗目は、渋谷にオープンした「深海魚」。そして、たぶん、こちらのほうが有名な気がするが、六本木にオープンした「最後の20セント」。
いずれも、一世を風靡した店である。
「最後の20セントは、アルカポネみたいな世界観です。スーツの胸ポケットに、おもちゃのピストルを差し込んで」と菅野氏は愉快そうに話す。
もちろん形式は「絨毯BAR」。店内には真紅の絨毯が敷き詰められていた。
この店が、いうならば「マハラジャ」の原型である。
ところで、菅野氏は28歳の頃に、兄の諒氏から誘われている。
「会社組織にするから来いっていうんです。当時、私は6年目でしょ。親会社のスリーエムに1年の留学も決まっていたんです。でも、兄から『給料はこれだよ』って言われ、その額についクラって来て、『わかった』と返答してしまうんです。え? 額ですか?当時、6年目の私の月給が6万円くらいです。兄が提示した額は5~6倍でした(笑)」。
むろん、額だけの話ではないだろう。何かと気をかけてくれる兄の誘いをむげにはできるような菅野氏ではない。
菅野氏は、28歳で「専務取締役」となった。
ディスコテック。新たな時代の幕開け。
「当時の会社は、むろん若いスタッフばかりです。アルバイトだけで40人くらいはいました。私たちも模索の時代です。時代の先がわからない時代だったんです。ただ、お手本がありました。アメリカです」。
菅野氏によれば、当時は「最後の20セント」もそうだが、生バンドが決め手だった。
「しかし、生バンドはリアルではあるんですが、一流のバンドにはかなわない。なかには下手な奴もいるわけでしょ。ならいっそのこと、ディスクにしたほうが『音楽的に上等なんじゃないか』ってことになって。アメリカではそういうディスコテックっていうのがすでに流行りだしていたこともあって、それをお手本にやってみようということになったんです」。
これが、日本におけるディスコテックの始まりである。ディスコテックは、「ディスコ」の語源となったフランス語「discotheque」、意味は、「レコードの置き場」となるそうだ。
このディスコテックの1号店が「メビウス」である。
「メビウス」がオープンしたのは、昭和50年の頃。ウィキペディアでは、「日本で最初にレコード演奏のみで営業した」と紹介されている。
むろん、こちらの店を記憶している人も少なくないだろう。ともかく、兄、諒氏とともに、菅野氏兄弟の新たな幕が上がる。
菅野氏によれば、当時は「最後の20セント」もそうだが、生バンドが決め手だった。
「しかし、生バンドはリアルではあるんですが、一流のバンドにはかなわない。なかには下手な奴もいるわけでしょ。ならいっそのこと、ディスクにしたほうが『音楽的に上等なんじゃないか』ってことになって。アメリカではそういうディスコテックっていうのがすでに流行りだしていたこともあって、それをお手本にやってみようということになったんです」。
これが、日本におけるディスコテックの始まりである。ディスコテックは、「ディスコ」の語源となったフランス語「discotheque」、意味は、「レコードの置き場」となるそうだ。
このディスコテックの1号店が「メビウス」である。
「メビウス」がオープンしたのは、昭和50年の頃。ウィキペディアでは、「日本で最初にレコード演奏のみで営業した」と紹介されている。
むろん、こちらの店を記憶している人も少なくないだろう。ともかく、兄、諒氏とともに、菅野氏兄弟の新たな幕が上がる。
・・・続き
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