本文より~
本州の北端。海の向こうは北海道。
今回、ご登場いただく株式会社GMS、代表取締役、田中剛氏は、1969年10月18日に青森県三厩村に生まれる。三厩村は、「みんまやむら」と読むそうだ。ネットで調べてみると、津軽半島の最北端に位置していた村ということである。北海道と青森を結ぶ青函トンネルが、村の地下を走っている。
「私は、兄弟5人の3男です。4人が男で、女は妹1人です。運動神経は、妹以外、みんな良くって、長男はフェンシングで割と名が通っていました。親父は、祖父の代からつづく、漁師です。青森といえばマグロが有名ですが、私が生まれた頃は、青函トンネルの工事の影響もあって、津軽半島にマグロはいなくなっていたそうです。私も、小さい時は、何度か漁に連れて行ってもらいました。当時は、イカやサメが主でした。親父は、寝る間も惜しんではたらいていました。そういう血を、私もどこかで受け継いでいるんだと思います」。
三厩村は漁業が産業の小さな村だった。小・中とも1クラス。「私らの頃は、とにかく高校出たら働くというのが、当然の選択肢でした。私も、青森山田高校に進学するんですが、卒業してすぐに『天狗』を展開する、テンアライドに就職します」。
「私は、兄弟5人の3男です。4人が男で、女は妹1人です。運動神経は、妹以外、みんな良くって、長男はフェンシングで割と名が通っていました。親父は、祖父の代からつづく、漁師です。青森といえばマグロが有名ですが、私が生まれた頃は、青函トンネルの工事の影響もあって、津軽半島にマグロはいなくなっていたそうです。私も、小さい時は、何度か漁に連れて行ってもらいました。当時は、イカやサメが主でした。親父は、寝る間も惜しんではたらいていました。そういう血を、私もどこかで受け継いでいるんだと思います」。
三厩村は漁業が産業の小さな村だった。小・中とも1クラス。「私らの頃は、とにかく高校出たら働くというのが、当然の選択肢でした。私も、青森山田高校に進学するんですが、卒業してすぐに『天狗』を展開する、テンアライドに就職します」。
ラグビーで、鍛えた心とからだ。
話は少し飛んだが、「青森山田」と言えば、いまや野球の名門校である。中学で野球をやり、ピッチャーで4番だった田中氏である。野球推薦か、と思ったが、そうではないらしい。「それは、いまの話でしょ。私らの時はそうじゃなかった。青森山田の生徒っていうだけで、アルバイトも断られるくらいの高校だったんです(笑)」。
中学では怖いもの知らずの田中氏だったが、さすがに怖い高校だと思っていたそうだ。「公立高校を落ちたので、就職しようと思っていたんです。でも、親父が『高校くらい行け』っていうんで、私立だったんですが、行かせてもらうことにしました」。
中学時代といっぺんして優等生になる。3年間、無遅刻無欠席。「怖いと思っていたんですが、入るとそうでもないんですね。たしかに1/3くらいは怖い人でしたが、残り2/3はバカだったんです。私も含めて(笑)」。
この高校で、田中氏はラグビーに出会っている。優等生の理由も、無遅刻無欠席の理由も、ラグビーが一枚噛んでいる。「ラグビー部の顧問に誘われてね。でも、最初はやる気もなくってサボっていたんです。1年の時は夏合宿にも参加しませんでした。ところが、合宿から帰ってきた奴らをみて、感動しちゃうんですね。みんな別人のようになっていて。格好いいな、と。それで、私も真剣にラグビーをするようになるんです」。
話は脇道にそれるが、ラグビーに偶然はない、という。それが正しいのかどうか、聞いてみた。「そうですね。偶然は、絶対ない。野球とかならピッチャーの調子が悪くて、っていうのがあると思うんですが、ラグビーは強いチームに、弱いチームが勝つなんてことはまずない。偶然がないスポーツだから、相手に勝つには、相手より強くならないといけないんです」。
猛練習をつづけたそうだ。「あの時のことを思えば、どんなことでも耐えられる」と田中氏は笑う。
中学では怖いもの知らずの田中氏だったが、さすがに怖い高校だと思っていたそうだ。「公立高校を落ちたので、就職しようと思っていたんです。でも、親父が『高校くらい行け』っていうんで、私立だったんですが、行かせてもらうことにしました」。
中学時代といっぺんして優等生になる。3年間、無遅刻無欠席。「怖いと思っていたんですが、入るとそうでもないんですね。たしかに1/3くらいは怖い人でしたが、残り2/3はバカだったんです。私も含めて(笑)」。
この高校で、田中氏はラグビーに出会っている。優等生の理由も、無遅刻無欠席の理由も、ラグビーが一枚噛んでいる。「ラグビー部の顧問に誘われてね。でも、最初はやる気もなくってサボっていたんです。1年の時は夏合宿にも参加しませんでした。ところが、合宿から帰ってきた奴らをみて、感動しちゃうんですね。みんな別人のようになっていて。格好いいな、と。それで、私も真剣にラグビーをするようになるんです」。
話は脇道にそれるが、ラグビーに偶然はない、という。それが正しいのかどうか、聞いてみた。「そうですね。偶然は、絶対ない。野球とかならピッチャーの調子が悪くて、っていうのがあると思うんですが、ラグビーは強いチームに、弱いチームが勝つなんてことはまずない。偶然がないスポーツだから、相手に勝つには、相手より強くならないといけないんです」。
猛練習をつづけたそうだ。「あの時のことを思えば、どんなことでも耐えられる」と田中氏は笑う。
料理のプロの技。
前述通り、高校を卒業した田中氏は「天狗」を展開するテンアライドに入社する。2年間、居酒屋で勤務して、もう辞めようと思ったそうだ。「それが、社長の耳に入って、居酒屋がイヤでも、中華ならいいだろうって、逆に、中華の立ち上げに誘われるんです」。
この時、田中氏は、「プロを観た」という。どういうことだろう。「中華の新事業です。それを立ち上げるために、まず四川飯店に3ヵ月修業に行きました。当時20歳くらいでした。四川飯店で勤務されていた山本さんを会社にお招きし、その下で料理を教わりました。ぜんぜん、敵わなかったです。もちろん、敵うなんて思っていたわけじゃないですが、私も2年間居酒屋で調理をしていましたから、多少はと思っていたんです。でも、山本さんの前にでると、タケノコ一つ切れないんです(笑)」。何から何まで、まさにプロの技だった。
「中華料理の値段は、コックの腕の値段だ」という話を良くされたそうだ。「『フカヒレも、そうだ。素材が、けっして高価なわけじゃない。しかし、何日もかけ食べられるようにして、味をととのえる。その時間と技が、値段になっているんだ』。そんな話です。私の力のなさを痛感するとともに、中華料理の奥深さを魅せられた時でした」。
得難い時間を得た。ふつうなら、四川飯店出身の料理人から直接指導してもらえるチャンスはそうない。しかも、田中氏は本格的に料理を習ったこともない素人同然だからなおさらだ。
指導いただいた山本氏には、感謝が尽きない。ちなみに、現在、山本氏は、田中氏の下で、一つの店を運営されている。
この時、田中氏は、「プロを観た」という。どういうことだろう。「中華の新事業です。それを立ち上げるために、まず四川飯店に3ヵ月修業に行きました。当時20歳くらいでした。四川飯店で勤務されていた山本さんを会社にお招きし、その下で料理を教わりました。ぜんぜん、敵わなかったです。もちろん、敵うなんて思っていたわけじゃないですが、私も2年間居酒屋で調理をしていましたから、多少はと思っていたんです。でも、山本さんの前にでると、タケノコ一つ切れないんです(笑)」。何から何まで、まさにプロの技だった。
「中華料理の値段は、コックの腕の値段だ」という話を良くされたそうだ。「『フカヒレも、そうだ。素材が、けっして高価なわけじゃない。しかし、何日もかけ食べられるようにして、味をととのえる。その時間と技が、値段になっているんだ』。そんな話です。私の力のなさを痛感するとともに、中華料理の奥深さを魅せられた時でした」。
得難い時間を得た。ふつうなら、四川飯店出身の料理人から直接指導してもらえるチャンスはそうない。しかも、田中氏は本格的に料理を習ったこともない素人同然だからなおさらだ。
指導いただいた山本氏には、感謝が尽きない。ちなみに、現在、山本氏は、田中氏の下で、一つの店を運営されている。
ラーメン店、オープンまで。
「オープンするって時に、病気がちだった親父が危ないってことで、実は、会社を辞めて青森に帰ります。でも、向こうにいたら、ぜんぜんだめで親父の見舞いにもほぼいかず昔のツレと遊んでばかりいました。でも、東京で働き詰めだったでしょ。だから仕事が習性になっていたんでしょうね。仕事をしたくなっちゃって。たまたま友達が出稼ぎに行くっていうもんですから、私もついていきました。鳶職でした。川口ジャンクションや、レインボーブリッジ。あれに少しはかかわっています」。
どこかで飲食に戻りたかった、と田中氏はいう。鳶をやりがなら、焼き鳥店でバイトをしたのは、その思いを少しでも満足させるためだった。鳶職も、結構、いい給料になった。でも、心は飲食である。そんな時、行きつけの喫茶店のマスターが、救いの糸を垂らしてくれた。
「資金を出すから、ということでラーメン店をすることになったんです。中華じゃなく、ラーメン専門店です。すぐにオープンっていうわけにもいきませんから、とりあえず、あるラーメン店でバイトを開始しました。そのあと、いろいろあって店を辞めて、トラックの運転手になります。トラックに乗ったのは日本中のラーメンを食べ歩くためでした。そうしながら、1年半くらいかけて、スープをつくりました」。 スープは豚骨。田中氏が全国のラーメンのなかで、最も旨いと思ったラーメンが「博多ラーメン」だったからだ。
「『うまかっちゃん』ってインスタントラーメンがあるでしょ。最初食べた時、あぁ、これがあの『うまかっちゃん』の本物だ、って感動して。当時は背油が主流だったんですが、私はこの博多の味で勝負しようと思ったんです。でも、博多ラーメンって麺も違うんです。だから、わざわざ博多までトラックで行って、いまもお付き合いがある製麺所まで探して。それでいよいよオープンするわけです」。
1995年11月30日、足立区に田中氏、初のラーメン店がオープンする。
どこかで飲食に戻りたかった、と田中氏はいう。鳶をやりがなら、焼き鳥店でバイトをしたのは、その思いを少しでも満足させるためだった。鳶職も、結構、いい給料になった。でも、心は飲食である。そんな時、行きつけの喫茶店のマスターが、救いの糸を垂らしてくれた。
「資金を出すから、ということでラーメン店をすることになったんです。中華じゃなく、ラーメン専門店です。すぐにオープンっていうわけにもいきませんから、とりあえず、あるラーメン店でバイトを開始しました。そのあと、いろいろあって店を辞めて、トラックの運転手になります。トラックに乗ったのは日本中のラーメンを食べ歩くためでした。そうしながら、1年半くらいかけて、スープをつくりました」。 スープは豚骨。田中氏が全国のラーメンのなかで、最も旨いと思ったラーメンが「博多ラーメン」だったからだ。
「『うまかっちゃん』ってインスタントラーメンがあるでしょ。最初食べた時、あぁ、これがあの『うまかっちゃん』の本物だ、って感動して。当時は背油が主流だったんですが、私はこの博多の味で勝負しようと思ったんです。でも、博多ラーメンって麺も違うんです。だから、わざわざ博多までトラックで行って、いまもお付き合いがある製麺所まで探して。それでいよいよオープンするわけです」。
1995年11月30日、足立区に田中氏、初のラーメン店がオープンする。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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