本文より~
子ども時代から、23歳まで。燻った少年時代。
「ライバル店より50円安くしたが、ぜんぜん客が来なかった」と笑うのは、株式会社ZUND、代表取締役、橋本龍八氏である。1人のラーメン店主に惹かれ、ラーメン店をオープンした頃の話である。
橋本氏が、生まれたのは1978年。出身は兵庫県姫路市である。ご両親は、焼肉店を経営されていた。「親父は甲子園にも何度か出場している有名な高校でピッチャーをしていました」。背番号は「1」。「私も、小学生の頃は、いずれ、と思っていたんです」。リトルリーグで、4番ピッチャー。申し分ない位置にいる。しかし中学生となり、シニアのチームに入ったとたん、「上には、上がいる」と知って、中学2年で野球を辞めてしまった。
野球を辞めた橋本氏は、3年生になって、本人いわく少しぐれた。「暴走族に入って、やんちゃなチームに参加するようになりました。しかし、暴走族といっても、基本明るいヤンキーといった感じです。家庭教師がついていたくらいですから(笑)」。
「工場でバイトを始めたのもこの頃で、パチンコもこの頃からです」。ご両親が離婚されたのもこの頃で、橋本氏は、母について、姉、妹といっしょに家を出た。
卒業文集には、「社長になる」と書いた。小さな心に、小さな炎が灯ったのだろう。
「中学はもちろん卒業したんですが、高校は9ヵ月しか行きませんでした。理由ですか? パチンコに行って、勝った日は軍資金があるでしょ。遊んでいたら、出席日数が足らなくなってしまったんです(笑)」。
16歳で、社会にでた。「23歳までは、建築業で仕事をしていました。だいたい10社くらい経験しました(笑)」。給料は悪くなかったから、車も買った。19歳の時には、現在取締役を務めている奥様と結婚もしている。
「でも、けっして満足していたわけじゃなかったんです。心のなかでは、いつも何かをしてやろうと思っていました」。
いったん灯った炎は、どこかで燻っていた。情熱を傾ける何かが足りなかったからだ。
橋本氏が、生まれたのは1978年。出身は兵庫県姫路市である。ご両親は、焼肉店を経営されていた。「親父は甲子園にも何度か出場している有名な高校でピッチャーをしていました」。背番号は「1」。「私も、小学生の頃は、いずれ、と思っていたんです」。リトルリーグで、4番ピッチャー。申し分ない位置にいる。しかし中学生となり、シニアのチームに入ったとたん、「上には、上がいる」と知って、中学2年で野球を辞めてしまった。
野球を辞めた橋本氏は、3年生になって、本人いわく少しぐれた。「暴走族に入って、やんちゃなチームに参加するようになりました。しかし、暴走族といっても、基本明るいヤンキーといった感じです。家庭教師がついていたくらいですから(笑)」。
「工場でバイトを始めたのもこの頃で、パチンコもこの頃からです」。ご両親が離婚されたのもこの頃で、橋本氏は、母について、姉、妹といっしょに家を出た。
卒業文集には、「社長になる」と書いた。小さな心に、小さな炎が灯ったのだろう。
「中学はもちろん卒業したんですが、高校は9ヵ月しか行きませんでした。理由ですか? パチンコに行って、勝った日は軍資金があるでしょ。遊んでいたら、出席日数が足らなくなってしまったんです(笑)」。
16歳で、社会にでた。「23歳までは、建築業で仕事をしていました。だいたい10社くらい経験しました(笑)」。給料は悪くなかったから、車も買った。19歳の時には、現在取締役を務めている奥様と結婚もしている。
「でも、けっして満足していたわけじゃなかったんです。心のなかでは、いつも何かをしてやろうと思っていました」。
いったん灯った炎は、どこかで燻っていた。情熱を傾ける何かが足りなかったからだ。
TVでみつけたヒーローを追いかけて。
「ひとつです。ひとつだけ上。それなのに、すごくかっこよかった」。そのとき、橋本氏の目に飛び込んできたのは、天空から落とすように湯切りする若きラーメン店主の姿だった。
「TVの情熱大陸に、中村屋の中村栄利さんが取り上げられていたんです。それを拝見して、いてもたってもいられなくなって」。歳がひとつ上。「お店とか、会社をやれるようになるのは、もっとおじさんたちになってからだと勝手にイメージしていたんです」。
中村氏のひとふりの「天空落とし」が、そのイメージを破壊した。翌日、橋本氏は中村氏に直接電話をかけ、車で7時間かけ、会いに行っている。「どんな人間か、この目でたしかめてみたかったんです」。
その日のうちに、アパートのコンロを改造した。寸胴を買ってきて、研究に勤しんだ。
「この時も、建築関係の会社で勤務していましたから、仕事が終わってからです。もちろん、ラーメンなんてインスタントしかつくったことがなかったし、食べた回数も、そうなかった。そんな私が、ラーメンづくりに熱中するんです」。ラーメンの向こうには、中村氏の姿があった。それを追いかける。ラーメンづくりのノウハウ本を片手に、である。家賃5万円のアパートがラーメンづくりの研究室と化した。
「最初は鶏ガラ、テールのスープでした。どちらかと言えば、あっさり系が好きで、鶏ガラのことが本に書いてあったからです」。
もちろんラーメンも食べ歩いた。いまのとんこつ系になったのは、食べ歩きの結果、である。「最初につくったのは鶏ガラ、テールのスープも結構、旨かったんですよ」と橋本氏は笑う。
研究を始めて半年後、橋本氏は早くも1店舗目をオープンしている。冒頭の話は、その時のことだ。
「私と妻と3人のバイトでスタートしました。そう、かなりでかい店です。坪数でいえば30坪ありました。味も悪いわけではなかったんですが、2つ隣に行列のできるラーメン店があって」。それで、そこより50円安くしたわけだが、客は振り向かなかった、わけである。
問題は、橋本氏にもあった。素人である。1杯なら旨いラーメンがつくれたが、その味を維持することができなかった。だからオープン3日で、一度クローズした。「営業をしながら、スープの味を維持できなかったんです」。
ラーメン店を開業したものの、「ラーメン屋は、地獄だ」と思ったそうだ。
中村栄利氏の背中が遠のく。
「TVの情熱大陸に、中村屋の中村栄利さんが取り上げられていたんです。それを拝見して、いてもたってもいられなくなって」。歳がひとつ上。「お店とか、会社をやれるようになるのは、もっとおじさんたちになってからだと勝手にイメージしていたんです」。
中村氏のひとふりの「天空落とし」が、そのイメージを破壊した。翌日、橋本氏は中村氏に直接電話をかけ、車で7時間かけ、会いに行っている。「どんな人間か、この目でたしかめてみたかったんです」。
その日のうちに、アパートのコンロを改造した。寸胴を買ってきて、研究に勤しんだ。
「この時も、建築関係の会社で勤務していましたから、仕事が終わってからです。もちろん、ラーメンなんてインスタントしかつくったことがなかったし、食べた回数も、そうなかった。そんな私が、ラーメンづくりに熱中するんです」。ラーメンの向こうには、中村氏の姿があった。それを追いかける。ラーメンづくりのノウハウ本を片手に、である。家賃5万円のアパートがラーメンづくりの研究室と化した。
「最初は鶏ガラ、テールのスープでした。どちらかと言えば、あっさり系が好きで、鶏ガラのことが本に書いてあったからです」。
もちろんラーメンも食べ歩いた。いまのとんこつ系になったのは、食べ歩きの結果、である。「最初につくったのは鶏ガラ、テールのスープも結構、旨かったんですよ」と橋本氏は笑う。
研究を始めて半年後、橋本氏は早くも1店舗目をオープンしている。冒頭の話は、その時のことだ。
「私と妻と3人のバイトでスタートしました。そう、かなりでかい店です。坪数でいえば30坪ありました。味も悪いわけではなかったんですが、2つ隣に行列のできるラーメン店があって」。それで、そこより50円安くしたわけだが、客は振り向かなかった、わけである。
問題は、橋本氏にもあった。素人である。1杯なら旨いラーメンがつくれたが、その味を維持することができなかった。だからオープン3日で、一度クローズした。「営業をしながら、スープの味を維持できなかったんです」。
ラーメン店を開業したものの、「ラーメン屋は、地獄だ」と思ったそうだ。
中村栄利氏の背中が遠のく。
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