2016年8月2日火曜日

株式会社リンガーハット 代表取締役社長 秋本英樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”長崎ちゃんぽんの株式会社リンガーハット 代表取締役社長 秋本英樹氏登場。
本文より~

進路は、公務員以外。

秋本氏が長崎市に生まれたのは、1954年4月6日。3人兄弟の長男である。
父親は日本電信電話公社で勤務されていた。当時はまだ民営化されていないから、公務員となる。
「小さい頃から割と活発な方だった」と、秋本氏。なかでも水泳、野球が得意だった。中学生になると、友人に誘われるまま吹奏楽部に入部。担当はトロンボーンだったそうだ。
中学の吹奏楽部は、つよくて大会で準優勝したこともある。高校は長崎の南山高校。そこから近畿大学に進学している。
専攻は、産業理工学。チューナーをつくるなど、実験主体で、楽しかったそうだ。いつかは父親のように、と思っていたのかもしれない。
ところが、大学生のある夏休み。
日本電信電話公社で、配線のアルバイトをしたことがきっかけで、公務員という生業に幻滅する。「公務員にはなりたくない」。
この時、明確な進路は決めていなかったものの、「公務員」は秋本氏の選択肢から外れた。

飲食は、「水商売」と言われていた時代の話。

就職ではいつかの会社を受けたそうだ。受かった会社もあったが、ピンとこなかった。飲食は、想定外だったが、「長崎ちゃんめん」ですでに有名だったこともあって、秋本氏は、株式会社浜勝を受験する。
まだ飲食が、「水商売」と揶揄されていた時代である。
「そうですね。風当たりは強かったです(笑)。息子を公務員にと思っていたもんですから、そりゃぁ、両親は猛反対でした」。
何も、秋本氏のご両親が特別だったわけではない。大学を出て「飲食」に入るなど考えられない時代だった。それだけ「飲食」の地位が低く、「大学の価値」が高かった時代と言い換えることもできるだろう。
当時の状況を知る意味でも、リンガーハットの沿革を少しお話しておこう。
<リンガーハットの沿革>
昭和37年7月22日、長崎に「とんかつ浜勝」を創業。これが、始まり。昭和39年に株式会社「浜かつ」を設立し、法人化。
株式会社「浜勝」に商号変更されるのは、昭和48年のこと。
「長崎ちゃんめん」(現・「長崎ちゃんぽん」)を主力商品にしたチェー ン店の第1号(リンガーハット長崎宿町店)を長崎市に開店したのは、翌、昭和49年である。
昭和49年は、1974年のことなので、秋本氏が新卒で入社したのは、翌々年の昭和51年となる。秋本氏が入社した頃は、リンガーハットが快進撃を開始する頃と重なる。
ちなみに、店名とおなじ社名。すなわち株式会社リンガーハットになるのは、昭和57年8月のことだ。

株式会社浜勝に就職。

秋本氏の話に戻る。
「両親には反対されましたが、大学の就職課の先生には勧めていただいて、それで、株式会社浜勝に就職することを決めたんです」。
もっとも一度は、不採用だったらしい。
「理工学部だったもんですから、電気の試験があったんです。へんでしょ。なんでも当時は、出身学部に合わせて試験もかえていたそうなんです」。
どうも納得できなかったそうで、秋本氏は、人事部に電話をかけた。
「理由を聞くと、『あなたは技術系でしょ。うちが欲しいのは営業なんです』って言われたんです。え、私のほうはもともとそういうつもりだったし、それで『営業します』って答えたら、今度はちゃんと合格しました(笑)」。
ところで、「水商売」といわれていたように、当時、飲食は、3Kの代表格だった。これは、事実である。
会社の規模もまだ小さい。
「研修は1ヵ月。今では考えられませんが、この1ヵ月間、休みもありませんでした(笑)」。
「リンガーハット」の快進撃が始まった頃でもある。当時からすでに行列ができる人気店だったから、当然、客が来る。店員は休みなくはたらいたが、それでも溢れるばかりの客の対応に追われつづけた。
「しかも、当時は、社員しか鍋が振れなかったんですね。だから、社員が休むわけにはいかない」。
ということは、休めないばかりか、社員である限り、「鍋を振るワザ」はマスターしておかなければならないということだった。
「仕事の合間をみつけて、練習しました。鍋に砂を入れてね(笑)」。鍋のなかで、砂が動く。自在に砂を制御できなければならない。もちろん、修業と言っても、悠長なことは言っていられない。
「出店スピードがハンパなかったからです。私も、たった6ヵ月で店長です(笑)」。

・・・続き

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