本文より~
たくましい、少年の選択軸。
福津市は、北九州市と福岡市のほぼ中間に位置する。政令指定都市にはさまれた格好である。北部は海に面している。「山と海があって、静かなところだった」と今回ご登場いただいた花田氏。花田氏は1957年に、この福津市に生まれている。
「福津市っていうのは静かなところで、産業といっても農業くらいしかなかった。うちも専業農家で、私は百姓の長男です。母方の祖父は、馬喰だった。馬喰っていうのは、牛の仲介人のことです」。
トマト、イチゴ、お米と、父の畑やたんぼでは、なんでも採れた。山も、食材の宝庫である。「春になると、『金になる』っていってね。山に、わらびやつくしを採りに行くんです」。仲間連中を引き連れて、山に行く。わらびやつくしを採り、それを父親にJAに持ち込んで、換金してもらっていたそうだ。なんとも、たくましい話である。
中学生から土建屋で、アルバイトもしている。
中学ですでに身長は177センチ。ちなみにピーク時には、体重も92キロあったそうだ。
「大学に進学するつもりもぜんぜんなかった。進学する奴は多くいましたが、それより、お金が欲しいから就職を選択します」。早く給料もらって遊びたい、それが本音だった。
次のエピソードもおもしろい。「最初に就職したのは、業務用の厨房機器の総合メーカーです。船舶で使う厨房機器の分電盤をつくるエンジニアでした。でも、半年で、転職します。いっしょに社会に出た同級生1人1人に、いくら給料もらっているのかを確認して、いちばん高い会社に転職したんです」。職種は、営業だった。「ま、職種は、なんでも良かった。大事なのは、どれだけ給料がいいかだったんです」。
豪快な選択である。
「福津市っていうのは静かなところで、産業といっても農業くらいしかなかった。うちも専業農家で、私は百姓の長男です。母方の祖父は、馬喰だった。馬喰っていうのは、牛の仲介人のことです」。
トマト、イチゴ、お米と、父の畑やたんぼでは、なんでも採れた。山も、食材の宝庫である。「春になると、『金になる』っていってね。山に、わらびやつくしを採りに行くんです」。仲間連中を引き連れて、山に行く。わらびやつくしを採り、それを父親にJAに持ち込んで、換金してもらっていたそうだ。なんとも、たくましい話である。
中学生から土建屋で、アルバイトもしている。
中学ですでに身長は177センチ。ちなみにピーク時には、体重も92キロあったそうだ。
「大学に進学するつもりもぜんぜんなかった。進学する奴は多くいましたが、それより、お金が欲しいから就職を選択します」。早く給料もらって遊びたい、それが本音だった。
次のエピソードもおもしろい。「最初に就職したのは、業務用の厨房機器の総合メーカーです。船舶で使う厨房機器の分電盤をつくるエンジニアでした。でも、半年で、転職します。いっしょに社会に出た同級生1人1人に、いくら給料もらっているのかを確認して、いちばん高い会社に転職したんです」。職種は、営業だった。「ま、職種は、なんでも良かった。大事なのは、どれだけ給料がいいかだったんです」。
豪快な選択である。
セリに立ち、未来を広げた、20代の話。
「転職したのは、ローカルではいちばん大きな食肉卸の会社でした。月13万円。独立までの9年間、この会社にいました」。
仕事は、ルートセールス。車に食材を積んで、肉屋やスーパーに運び、営業した。
「まだまだ小僧だったんですが、入社してスグに現場を仕切るようになりました。とにかく、先輩にも『あれせぇ、これせぇ』って生意気な奴です。でも、私が段取りしたほうが早く終わるから、みんな言うことを聞きます。16:45になったらタイムカードの前にならばせて、17時にはオフィスは無人です(笑)」。
「遊びに行かなあかん」。だから、花田氏も必死だった。もっとも、花田氏が仕切るようになって、業績もアップした。朝は早くから働いた。学校給食も担当していたから、朝7時前には荷物を積んでオフィスを出発する毎日だった。
「とにかく早く終わって遊べるようになったから、それは、それで良かったんですが、大手だから、拠点も少なくない。だから、転勤する先輩も少なくなかった。そういうのが、だんだん見えてくるんです。このままいけば私もいつ転勤させられるかわからなかったから、セリに立ったんです。本社近くに市場があり、セリに立てる人間は、転勤はまずさせられないことがわかったからです」。
もちろん、すぐにセリに立てるわけではない。昼休みを利用して、毎日、セリを見学した。「観ているだけでしたが、毎日、少しずつですが、理解できてくるんです。半年くらいしたら、セリに立って肉を買うまでになっていました」。
セリに立つ。あの喧騒とスピードにひるまない、度胸も、判断力もいる。むろん、判断するには、いい目をしていなければいけない。花田氏にはもともと、天賦の才があったのだろう。セリに立っただけで、肉質までわかった、という。だから、顧客の要望通りの肉を仕入れることができた。
「それまでは、セリに立つ人間が、自分がいいと思う肉だけをセリ落としていたんです。でも、私は逆で、顧客が欲しいと望む肉をセリ落としました。それが評判になって、指名されるケースが増えて最終的には部署のお客様のほとんどが、私の顧客なってしまいました」。
当時の社長も元気な新人の、花田氏をかわいがってくれたそうだ。21歳の時には、「視察だ」と言って、渡米した。費用はでなかったが、休みはもらえた。
「そうですね。当時は4階建の工場だったんですが、やがて、工場全部、私の傘下におさめました(笑)」。24歳の時には本社の課長職に、その若さで抜擢されている。異例の人事だったはずだ。
「社長にすれば若返りという狙いもあったはずです」。ともかく花田氏は、みるみる頭角を現し、地位を固める。社長とも直に話ができる立場になった。そして、入社して9年が過ぎた。
「独立のきっかけは、社長の代替わりです。でも、顧客もぜんぶ、私の客でしょ。なかなか認めてもらえません。それで営業所をだす感覚でどうですか? と言って、それでようやくOKがでました」。
花田氏が立ち上げたのは、食品機械の販売会社。「肉をさわれば、すぐに儲かる」とわかっていたが、1年間は、手をださなかった。育ててもらった恩義もあったし、花田氏自身のこだわりでもあった。
仕事は、ルートセールス。車に食材を積んで、肉屋やスーパーに運び、営業した。
「まだまだ小僧だったんですが、入社してスグに現場を仕切るようになりました。とにかく、先輩にも『あれせぇ、これせぇ』って生意気な奴です。でも、私が段取りしたほうが早く終わるから、みんな言うことを聞きます。16:45になったらタイムカードの前にならばせて、17時にはオフィスは無人です(笑)」。
「遊びに行かなあかん」。だから、花田氏も必死だった。もっとも、花田氏が仕切るようになって、業績もアップした。朝は早くから働いた。学校給食も担当していたから、朝7時前には荷物を積んでオフィスを出発する毎日だった。
「とにかく早く終わって遊べるようになったから、それは、それで良かったんですが、大手だから、拠点も少なくない。だから、転勤する先輩も少なくなかった。そういうのが、だんだん見えてくるんです。このままいけば私もいつ転勤させられるかわからなかったから、セリに立ったんです。本社近くに市場があり、セリに立てる人間は、転勤はまずさせられないことがわかったからです」。
もちろん、すぐにセリに立てるわけではない。昼休みを利用して、毎日、セリを見学した。「観ているだけでしたが、毎日、少しずつですが、理解できてくるんです。半年くらいしたら、セリに立って肉を買うまでになっていました」。
セリに立つ。あの喧騒とスピードにひるまない、度胸も、判断力もいる。むろん、判断するには、いい目をしていなければいけない。花田氏にはもともと、天賦の才があったのだろう。セリに立っただけで、肉質までわかった、という。だから、顧客の要望通りの肉を仕入れることができた。
「それまでは、セリに立つ人間が、自分がいいと思う肉だけをセリ落としていたんです。でも、私は逆で、顧客が欲しいと望む肉をセリ落としました。それが評判になって、指名されるケースが増えて最終的には部署のお客様のほとんどが、私の顧客なってしまいました」。
当時の社長も元気な新人の、花田氏をかわいがってくれたそうだ。21歳の時には、「視察だ」と言って、渡米した。費用はでなかったが、休みはもらえた。
「そうですね。当時は4階建の工場だったんですが、やがて、工場全部、私の傘下におさめました(笑)」。24歳の時には本社の課長職に、その若さで抜擢されている。異例の人事だったはずだ。
「社長にすれば若返りという狙いもあったはずです」。ともかく花田氏は、みるみる頭角を現し、地位を固める。社長とも直に話ができる立場になった。そして、入社して9年が過ぎた。
「独立のきっかけは、社長の代替わりです。でも、顧客もぜんぶ、私の客でしょ。なかなか認めてもらえません。それで営業所をだす感覚でどうですか? と言って、それでようやくOKがでました」。
花田氏が立ち上げたのは、食品機械の販売会社。「肉をさわれば、すぐに儲かる」とわかっていたが、1年間は、手をださなかった。育ててもらった恩義もあったし、花田氏自身のこだわりでもあった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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