本文より~
パリっ子、江戸っ子たちと交わる。
酒井一之という料理人がいる。厚生労働大臣賞をはじめ、東京都知事賞、東京都最優秀技能賞(江戸の名工)を受賞するなど、日本国内のフランス料理界の頂点に立つ料理人の1人である。著名な料理人で結成した「グラン・デ・トラトン」の事務局長を務めたほか、クスクスやジビエ料理、シャルキュトリーなどを広めた料理人としても有名だ。一之氏が家族とともに長く滞在したフランスには、多くの門下生が訪れている。「ミシュラン」において最年少で1つ星を獲得した松島啓介氏も、その1人とのことだ。
この偉大なる料理人を父に持つのが、今回、ご登場いただいた株式会社ESSENCEの代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏である。酒井氏が生まれたのは、1973年。出身地は、日本ではなくフランス、パリ。父親の一之氏の年表と照らし合わせると、一之氏が「フランス・ホテルムーリス」で勤務されていた時と重なる。
「私が、日本にもどったというか、来たのは、小学校1年の2学期です。日本語がまったくできなかったわけではありませんが、フランス語のように流暢にはしゃべれないし、漢字も読めない。教科書はもちろん授業はすべて日本語でしょ。ぜんぜんついていけませんでした(笑)」。当時、フランス語を流暢にしゃべれる人は、日本に何人くらいいただろう。少年、酒井は、そのうちの1人だった。代わりに、日本語がそううまくない。その事実からも、当時、酒井少年に向けられた周りの子どもたちの目は、ほぼ想像できる。
「パリにいた時は、ニホンジン。こっちに来たら、フランスジンって、バカにされるんです(笑)」。しかし、それも当初だけの話で、いつしか日本語を母国語のように流暢にしゃべっていた。パリっ子は、案外早く、江戸っ子たちに馴染んだのかもしれない。
この偉大なる料理人を父に持つのが、今回、ご登場いただいた株式会社ESSENCEの代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏である。酒井氏が生まれたのは、1973年。出身地は、日本ではなくフランス、パリ。父親の一之氏の年表と照らし合わせると、一之氏が「フランス・ホテルムーリス」で勤務されていた時と重なる。
「私が、日本にもどったというか、来たのは、小学校1年の2学期です。日本語がまったくできなかったわけではありませんが、フランス語のように流暢にはしゃべれないし、漢字も読めない。教科書はもちろん授業はすべて日本語でしょ。ぜんぜんついていけませんでした(笑)」。当時、フランス語を流暢にしゃべれる人は、日本に何人くらいいただろう。少年、酒井は、そのうちの1人だった。代わりに、日本語がそううまくない。その事実からも、当時、酒井少年に向けられた周りの子どもたちの目は、ほぼ想像できる。
「パリにいた時は、ニホンジン。こっちに来たら、フランスジンって、バカにされるんです(笑)」。しかし、それも当初だけの話で、いつしか日本語を母国語のように流暢にしゃべっていた。パリっ子は、案外早く、江戸っ子たちに馴染んだのかもしれない。
一冊の本。
スポーツはサッカーも、スキーもしたが、なかでも空手が上手だった。高校にもなれば、フランス語は忘れ、日本語以外できなくなった。高校の頃からアルバイトにも、精を出した。大学に進学するつもりはぜんぜんない。
「私には、弟がいるんですが、彼は私よりも小さい時に、帰国したものですから、違和感はなかったでしょうね。日本語もすぐにできたし、私は授業にもついていけませんでしたが、彼は、成績も抜群だった。私たち2人は、母の影響もあって、2人とも映画好きになるんですが、弟は大人になってから、アメリカで会社を立ち上げ、3Dのアニメーションの制作などを行うまでになりました。世界的にヒットした作品にも、彼は参加しています」。
弟と比較されると、兄の立場がないように思えた。「そうですね。昔は、父親とも、弟とも口もききませんでした。でも、私の道を開いてくれたのは、この2人なんです」。
高校を卒業し、本人いわく、「ぷらぷらしていた」時のこと、ベッドで寝ていると、弟が、一冊の本を投げてよこした。「何もすることがないんなら、本でも読んだらどうだ」。
弟のジョルジュ眞之氏が、どういうつもりだったか、わからない。しかし、投げられた本は、酒井氏に明確な一本の道を示した。「熊手篤男さんのバーボン専門の本【オンリー、ロンリー、バーボン】です。彼は留学中にバーボンと出会って、帰国してゼロからバーを開きます。当時、トムクルーズのカクテルという映画も好きだったことも影響したんだと思います。本を読み進めていくなかで、『これだ!』『これだ!』と思って」。
その日のうちに、熊手篤男氏が経営する一つのバーの門を叩いた。場所は、渋谷。「たまたまですが、うちの父がやっていた店の隣のビルだったんです。熊手さんはいらっしゃいませんでしたが、店長が対応してくださって。そうですね、当時は、相当、流行っていました。30席で、ウエイティングがでるくらいでした」。すぐに採用された。しかし、殴る、蹴るが横行していた。
「鉄拳制裁もあるような店だったんですが、あの時、はじめて巧くなる喜びを、人生において初めて体験できすることができました。私にとって大きな、大きな体験です」。
もっと、巧くなりたい。向上心に火が付いた。そして、違ったバーも経験するために、いったん退職する。
「いま思えば、話は出来上がっていたんだと思います。その時、父から『どうせバーテンダーをするんだったら、バーテンダーをしながら世界一周したらどうか』って言われて。その話に食いついてしまったんです。世界一周するアスカって船のバーテンダーです」。
ところが、履歴書を持っていくとあっけなく断られた。「高卒じゃだめだということでした。父にそう、言われたと言ったら、じゃあ、専門学校に入ったらどうだ、と。ハナから専門学校に行かすためのしかけだったんです(笑)」。
専門学校では、父に習ってフランス料理を専攻する。しかし、授業中も、ずっとカクテルの勉強をしていた。「昼は専門学校でしょ。夜はバーで勤務していました。ほとんど寝ていません」。それだけのひたむきだったし、それだけエネルギーがあった証明だ。1冊の本との出会い、ともかく酒井氏は、走り始めた。
「私には、弟がいるんですが、彼は私よりも小さい時に、帰国したものですから、違和感はなかったでしょうね。日本語もすぐにできたし、私は授業にもついていけませんでしたが、彼は、成績も抜群だった。私たち2人は、母の影響もあって、2人とも映画好きになるんですが、弟は大人になってから、アメリカで会社を立ち上げ、3Dのアニメーションの制作などを行うまでになりました。世界的にヒットした作品にも、彼は参加しています」。
弟と比較されると、兄の立場がないように思えた。「そうですね。昔は、父親とも、弟とも口もききませんでした。でも、私の道を開いてくれたのは、この2人なんです」。
高校を卒業し、本人いわく、「ぷらぷらしていた」時のこと、ベッドで寝ていると、弟が、一冊の本を投げてよこした。「何もすることがないんなら、本でも読んだらどうだ」。
弟のジョルジュ眞之氏が、どういうつもりだったか、わからない。しかし、投げられた本は、酒井氏に明確な一本の道を示した。「熊手篤男さんのバーボン専門の本【オンリー、ロンリー、バーボン】です。彼は留学中にバーボンと出会って、帰国してゼロからバーを開きます。当時、トムクルーズのカクテルという映画も好きだったことも影響したんだと思います。本を読み進めていくなかで、『これだ!』『これだ!』と思って」。
その日のうちに、熊手篤男氏が経営する一つのバーの門を叩いた。場所は、渋谷。「たまたまですが、うちの父がやっていた店の隣のビルだったんです。熊手さんはいらっしゃいませんでしたが、店長が対応してくださって。そうですね、当時は、相当、流行っていました。30席で、ウエイティングがでるくらいでした」。すぐに採用された。しかし、殴る、蹴るが横行していた。
「鉄拳制裁もあるような店だったんですが、あの時、はじめて巧くなる喜びを、人生において初めて体験できすることができました。私にとって大きな、大きな体験です」。
もっと、巧くなりたい。向上心に火が付いた。そして、違ったバーも経験するために、いったん退職する。
「いま思えば、話は出来上がっていたんだと思います。その時、父から『どうせバーテンダーをするんだったら、バーテンダーをしながら世界一周したらどうか』って言われて。その話に食いついてしまったんです。世界一周するアスカって船のバーテンダーです」。
ところが、履歴書を持っていくとあっけなく断られた。「高卒じゃだめだということでした。父にそう、言われたと言ったら、じゃあ、専門学校に入ったらどうだ、と。ハナから専門学校に行かすためのしかけだったんです(笑)」。
専門学校では、父に習ってフランス料理を専攻する。しかし、授業中も、ずっとカクテルの勉強をしていた。「昼は専門学校でしょ。夜はバーで勤務していました。ほとんど寝ていません」。それだけのひたむきだったし、それだけエネルギーがあった証明だ。1冊の本との出会い、ともかく酒井氏は、走り始めた。
・・・続き
株式会社ESSENCE 代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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