2016年9月28日水曜日

9月27日、日刊ゲンダイの“社長の私生活”に「縁商事」李京旻社長が掲載されました。

9月27日発行の日刊ゲンダイ『社長の私生活』に、「縁商事」李京旻社長の記事が掲載されました。
縁商事株式会社の李社長は創業10年になる韓国人経営者です。
これからベトナムにも進出予定です。

(日刊ゲンダイより)
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2016年9月27日火曜日

キイストンOBの人たち

年代問わずキイストンOBの人から、いろいろ連絡もらいます。
立ち上げから5年くらいの時期から、10年ほど経ち上場目標に展開していた時期の人たちまで・・・・。
辞めても会える環境と人間関係は大事ですね。
なにせその期間一緒に助けてもらった訳ですから・・・。
そんなキイストンも創業24年経ちました。
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株式会社ニッコクトラスト 代表取締役社長 須藤高志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ニッコクトラスト 代表取締役社長 須藤高志氏登場。

須藤、少年。

「一時は、プロのミュージシャンをめざしていた」と須藤社長は、笑う。昔の話である。
「親父は、とにかく頑固な性格でね。今思えば愛情の裏返しなんですが、中学生の頃には新聞配達をさせられましたし、中高一貫の男子校にも入れられました。一言で言えば、怖い父です。でも、高校くらいから、もうこいつはダメだって思ったんでしょうね。好き勝手しても、何も言わなくなりました(笑)」。
小学校の頃は、大人しい性格だったそうだ。父親が、中高一貫の男子校に進学させた理由の一つである。「男子校に入れば、もう少し活発な人間になると思ったんでしょうね。たしかに男子校。だんだん、性格も矯正されていきます」。
父親の期待通り、活発な少年になってはいくが、そのぶん、父の手から離れるようになる。父親への反抗心もあったが、父親もまた、それを望んでいたような気がする。
息子を自立させるため、きびしく躾ようとしていたように思えるからだ。
「中学生の頃から小遣いもない。新聞配達をしろ、と。そういう教育だったんですね、父は。実は、教師に一度、止められたんです。子どもが朝早くから危ないって。でも、親父は『これがうちの教育だ』ってつっぱねました」。もっとも、お金に困っての新聞配達ではない。須藤氏が手にした給料は、父親の手によって、そっくり貯蓄された。
「反抗していたはずなんですが、結局は、父の手のひらのうえにはいたんでしょうね」。一方、父親にも案外、やさしいところがあった。「たとえば、中学からブラスバンドに入り、ドラムを叩き始めるんですが、その時、ドラムを買ってくれたり、ね。ひょっとすれば、少しずつ私のことも認めてくれるようになっていたのかもしれません。ただし、この時、フルセットで買ったものだから、うちにはスペースがない。それで、母方の、母方の祖父は代々のお金持ちなんですが、そこのうちの離れに置かせてもらって練習をしていました」。
新聞配達とブラスバンド。教師が反対した理由もわからなくはない。新聞配達は朝が早い。3時半には起きだして、出勤する。学業とクラブ活動だけでも両立はむずかしいのに、よくつづいたものだ。
夏はまだいいが、冬は走り出すと、氷の刃が向かってくるばかりだ。それでも空は澄んでいたし、たぶん、少年に声をかけてくれる大人との、あったかいふれあいあったことだろう。ブラスバンド部ではドラムを叩き、メンバーと息を合わす。そうしたことを積み重ねることで、少しずつ大人の階段を少しずつ登りはじめたに違いない。
なかなかできる教育ではない。

就職。


「高校では、飲食のバイトも始めます。今思えば、これが私の原点ですね。就職の時に『飲食』が念頭にあったのも、この時に『飲食っていいな』と思ったからなんです」。
須藤氏は、駒澤大学に進学する。冒頭の一文はこの時のこと。ブラスバンドに熱中していた須藤氏は、この時、バンド活動に精力的に取り組んでいた。「私だけじゃなく、誰でも、一時はいけるんじゃないかと思うんです。でも、知れば知るほど難しいってことがわかてくる。言っても何千人に1人の世界でしょ。大きなカベが立ちはだかる。その一方で、就職が近づいてくるわけです。それでメンバーが1人抜け、2人抜け。やがて、『オレも』と、私も就職活動を開始するんです」。
前述した通り、就職するなら飲食だと思っていた。
チャンスは向こうから近づいてきた。
「就活の時期に、2人の従弟から誘われるんです。1人は、いまのうちの会社、ニッコクトラストで勤務していた人間で、もう1人は、レストランを何軒か経営していまして、『チェーン化するんで、来てくれないか』という話でした」。
はたから見れば、リスクはあっても後者のほうが楽しそうだ。「そうですね。でも、その時、両者には雲泥の差があったんです」と須藤。どういうことだろう。
「レストランのほうは、以前、バイトもしていたんで、だいたいわかるんです。朝7時~夜11時まで。奥さんもいっしょだったし、寝ることも、休むこともできないことがわかっていました。逆に、ニッコクトラストっていう、つまり、うちの会社ですが、うちで連れていかれたのは、大手町にある銀行の社内食堂です。そりゃ天国みたいですよ。2時には、ランチが終わっていますから、みんなでゆったり食事なんかして、笑いあっている。安定しているし、『利益もいいんだ』って、聞かされて」。
なるほど、雲泥の差である。
「『どうだ、うちはいいだろう』って言われて。『そうか、そうだよな』です(笑)。天国と地獄があるとすれば、そりゃ、ニッコクトラストが天国でしょ。そう、まさに天国だと思って入社するんです。ふつうの人なら、もうちょっと事前に調べるかもしれませんけどね(笑)」。
安パイを取った。正確に言えば、取ったつもりでいた。

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2016年9月20日火曜日

有限会社誠屋 代表取締役 宮田朋幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社誠屋 代表取締役 宮田朋幸氏登場。
本文より~

バンド時代の始まり。

宮田氏は、1970年10月6日。茨城県で生まれる。2人兄弟の次男。
「両親はともに銀行員で、職場結婚だそうです。父は勤勉なタイプで、夜が遅いもんですから、土日しか家にいない人だと思っていました(笑)。母の躾が厳しく、その反動ではねっ返りになったことも…。小さな頃は、母の実家である和菓子屋に行って、家族で手伝ったりもしていました」。
父の転勤で、東京や栃木で暮らしたこともあるそうだ。
「小学校に入学する前に東京に行き、3年まで東京にいて、そのあと、6年の夏休みまで茨城の古河で暮らしていました。夏休みが明けると、今度は真壁町。中・高になってようやく、勝田で落ち着きます(笑)」。
結構な転校歴だ。
「転校するのはイヤでしたね。それなりに知恵もつくんですが、最初の転校ではいじめられたりもしましたから」。
小学校からサッカー選手だった。古河時代には7つの小学校の選抜メンバーに選出されている。
「読売のサッカークラブと試合をしたんですが、惨敗です(笑)」と宮田氏。試合が始まる前から飲み込まれていたそうだ。「サッカーが盛んな町の、いわばエリートばかりなんですが、相手を観て、すぐさま観念しました」。
さすがに小学校の選抜メンバーといっても、クラブチームにはかなわなかったようだ。中学校でも、宮田氏はサッカーをつづけている。だが、少しずつ関心の天秤が「遊び」に傾いた。
「練習に出ない日がだんだん多くなって、遊びが生活の中心になっていきました。中学3年生の時には、ドラムを叩いて遊ぶようになりました」。ただし、こちらは、のちに「遊び」の域を超える。
「小学校6年生の時に、ブラスバンドを観てドラムに憧れていたんです。友人宅の、納屋にあった機材を引っ張り出してきて、ドラムの練習を開始したんです」。
これが、バンド時代の始まり。

ブレイク。その時をめざし、上京。

高校は、工業高校に進んだ。なんでも、当時流行っていた次原隆二氏作の「よろしくメカドック」に触発され、「自動車整備士になろうと思っていた」からだそうだ。
「初めは工業高校の独特の雰囲気に圧倒され、『失敗した!』と思いました。でも、慣れは怖いもんで、どんどん楽しくなっていくんです。この頃から、バンドに打ち込むようになりました」。
他校までアンテナを広げ、楽器がうまい奴をスカウトし、4人でパンクバンドを結成した。その一方で、バイクにもハマり、暴走族にも入りかけた。「大晦日に走ることになっていたんですが、たまたまバイクが故障して走れず、運よく暴走族入りを免れました(笑)」。
当時の宮田氏は、ライブともなれば、ストレートパーマをかけ、髪を立てていた。美容室には、月に2回。常連だった。
ただし、遊びじゃない。ファンもいた。評価もされた。
「当時は、イベントホールのようなところで、オーディションを勝ち抜いた高校生がプロと一緒にライブができるイベントがあり、それによく出ていました。ちょっと人気者になって、今思えば、結構、個性的なファンが集まってくれていたと思います」。
学校では、はっちゃけていたが、バンドは真剣である。高校を卒業して1年後、4人で上京。「イエローモンキーのようなバンドに憧れていた」という。バンドのメッカだと高円寺に住み、おなじメンバー4人で、5年間活動した。
「ベースが抜け、ギターが抜け、メンバーを入れ替えながらやっていたんですが、うまくいかず解散しました」。宮田氏は、別のバンドに参加し、活動をつづけた。
とはいえ、プロでないぶん、バンドとバイトは、おなじ意味だった。バンドをつづけるには、バイトを辞めるわけにはいかなかったからだ。

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2016年9月15日木曜日

求人広告でも大きな提案できるように底上げしております。

うちの営業マン諸君は全員、求人広告でも大きな提案(採れる最適提案)できるようになってくれています!!
営業はキャリアでなく経験をどれだけ踏んだかによります。
いくら5年、10年と在籍していても、やったことないとプロセスもわかりませんし、他社でも話出来ません。
少しずつですが、確実に成長してくれているので、そろそろ営業全体が大化けするの待ってます。
組織は人材で大きく変わりますね。
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2016年9月13日火曜日

9月29日東証一部の株式会社ヨシックス 代表取締役 吉岡昌成氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”9月29日東証一部の株式会社ヨシックス 代表取締役 吉岡昌成氏登場。
本文より~

「何しろ、暇がない。高校2年からずっとそうやった」。

吉岡氏の父は、メーカーの下請け工場を営み輸出用カバンを作っていた。小さい頃から何かにつけて手伝わされていた吉岡氏にとって、それがイヤだった記憶がある。高校は工業高校の機械科に進んだ。当時は生徒会長をやったり、学生運動にも参加したりしていたそうだ。
「私が生まれ育った大阪市の生野いうたらね、おなじ大阪の平野や八尾もいっしょやけど、町工場が立ち並ぶ町ですわ。うちも、その内の一つで、典型的な家内工業やった。ところが、高校2年の時に親父が亡くなってしもうて、それで工場はたたみました。それからは、バイトに明け暮れ、大学には進学したんですが、受験当日しか学校に行った記憶がないねんな、これが(笑)」。
高校では機械科だったが、進んだのは建築科。
「最初は、うちの家も工場やったし、漠然と機械科かなと思うてた。でもそれやったら、うちの親父といっしょで家内工業どまりちゃうかなぁ思うところもあって、今にして思えばちょっと生意気な考えやけどね。そんな時、あるTV番組で女性建築士を観たんやね。当時は、列島改造論とかで建築にスポットがあたっとってね、その女性がえらい格好よう見えて。それで、『建築や』と、建築科に進んだ。単純なもんや(笑)」。
『建築や』と思って入学はしたが、出席した記憶はないという。前述のとおり、時間の許す限りバイトに明け暮れていた。バイト歴を列挙すると、鉄筋工、工場、屋根瓦葺、レストランのボーイ・・・と、割のいいバイトには片っ端から申し込んだ。大卒の初任給が約12万円の時代に、月のバイト料が20万円にもなったというから、その働きぶりが窺い知れる。もっとも無駄使いは一切していない。10万円を家に渡し、残りで学費を払っていたそうだ。
「お金はあっても、友達と遊ぶなんて考えられへんかった。何しろ、暇がない。これは、高校2年からずうっとそうやった」。

「その弁当屋さんに、飛び込んだんです」。

通った記憶がないという大学を無事卒業するのが1977年のことである。
「就職したのは姫路のガス屋さんです。入社してすぐに、新規事業の建築関係部署に先輩と配属されて、2人で営業しました。工事が絡むから、契約が取れると、受注額は結構大きな金額になった。しばらくしたら、既存の事業より売上率が高なった。そりゃ忙しかったけど、ハナ高々で、給料もほかの部署の同期より良かったんちゃうかな。けど、そのうちにどんどんノルマが凄うなって、先輩がノイローゼみたいになってもうた。会社出てけえへんようになってしもたから、部署はもうワシ一人や。それでも、情状酌量なんてあらへん、『一人でなんとかせえ』ですよ。なんや、いっぺんにアホらしなって、それで辞めました」。
3年8か月勤続した会社だった。
「会社辞めて、いっとき、毛皮の卸なんかもやりました。スナックで知り合った、その店の常連さんに紹介されて始めたんやけど、400万円くらい売り上げた月もあったわな。原価がだいたい3割やったから、少々値引きしても100万円くらい利益はあった。でも、毛皮が売れるのは冬だけやった。2月になったら、全然売れへんなって、これも辞めました。けど、1回でも100万円も儲けたらアカンな。サラリーマンは、もう無理やった。ほんで、なんかええ仕事ないかなぁと、昔のお得意さん回っとったら、ある会社の人が、『あの弁当屋さんが、建築関係の人探しとったで』いうて教えてくれはったんです。『よっしゃ。それや』思うて、その弁当屋さんに飛び込んだんです」。
神戸に本社を置く、のちに大手となる弁当チェーン店だった。それが、飲食との出会い、と言えば出会い。
「建築の仕事をもらう代わりに、フランチャイズ契約を結んで、私も弁当屋を始めました。ちょうど名古屋に進出する時やったんで、私も一緒になって出てきて、うちが名古屋1号店を出店しました。そやから、元々飲食は、建築の仕事をもらうために、ある意味しゃぁなしに始めた事業やったんです。でも、無理しても、やって正解やった。弁当屋さんの仕事が実績になって、居酒屋やファミリーレストランからも、内装・外装の仕事をもらうようになります。名古屋で有名な店も、何店舗も手掛けました」。
その一方で、フランチャイズで始めた弁当屋も拡大する。
「せやね、20店舗くらいまでになったんちゃうかな」。
ただし、この時はまだ、副業という感覚でしかなかった。これが、1985年の話である。

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2016年9月7日水曜日

6日の日刊ゲンダイに、「駒八」八百坂仁社長が取り上げられました。

9月6日発行の日刊ゲンダイ『社長の私生活』に、「駒八」八百坂仁社長の記事が掲載されました。
いつも笑顔で創業から40年お店に立ち続けておられます!!
(日刊ゲンダイより)
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うれしい1通の手紙。

キイストンではもう数年継続して大学生・社会人のインターンシップを導入しています。
弊社運営の“飲食の戦士たち”の社長取材を経験してもらい、多くの人たちが、仕事の大変さと楽しさ、社長に生き様を聞いて感動し修了してます。

今回、残念ながら1社もアポイント取れなかったO君より1通の手紙頂きました。
取れなくても一生懸命やりきることで得ることもあったと思うととても嬉しいです。
より多くの若者が、2週間という期間で自信を付けてくれ、就活にも役立つのでやり甲斐もあります。
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2016年9月6日火曜日

株式会社J・ART 代表取締役 坂井哲史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に元焼肉屋さかい創業者の株式会社J・ART 代表取締役 坂井哲史氏登場。
本文より~

代々、引き継がれた起業家精神。

「株式会社美濃坂」という美術刀剣を製造・販売する会社がある。本社は岐阜県各務原市にあり、創業は1973年に遡る。「1973年。私は親父が経営していた合資会社坂井縫製を合資会社美濃坂に改め、刀剣ビジネスをスタートさせました」。坂井家は代々、起業家精神が旺盛な家系だ。父親も、祖父も起業家である。今回、ご登場いただいた株式会社J・ARTの坂井氏は、そうした星の下に生まれている。
「ただし、私は、大学を卒業すると坂井家の長男にあるまじき決断をして『岐阜プラスチック工業』という会社に就職しました。親父も、祖父も、経営者ですから、サラリーマンとはどんなものか想像するだけでしたが、やってみると案外、快適でした(笑)」。
「もちろん、就いた仕事にも関係していると思います。営業職だったんです。駆け引きも楽しく、仕事も楽しい。評価もいただけた。それに、賞与という臨時の給料だっていただけるわけでしょ。辞める気もぜんぜんありませんでした。でも、ある日のこと、ある得意先が販売している模造刀をみて、祖父や親父から受け継いだ起業家精神が、いきなり目覚めたんです」。
坂井家には代々伝わる真刀があった。
「真刀と比べると、模造刀は良くできてはいるものの、言っても、おもちゃです。でも、その、おもちゃの刀が飛ぶように売れているというんです。そりゃ、火がつきますよね」。
3年に亘るサラリーマン生活にピリオドを打ち、坂井氏は、25歳の時にして「刀剣ビジネス」を開始する。はからずも坂井家の血を証明することになった。
むろん、紆余曲折はあったが、坂井氏が経営する「美濃坂」は、3年足らずで刀剣製造販売のトッププレイヤーとなる。そして、坂井氏は潤沢な資金を手にすることになった。

好奇心旺盛な少年時代。

坂井氏は、1948年、岐阜県の各務原市に生まれる。いまでは岐阜市や名古屋市のベッドタウンでとしても有名だが、祖父が旅館を経営していたことからもわかる通り、当時から、人口は少なくなかったようだ。
「一時、岐阜市でも暮らしましたが、私が小学校に上がる頃、ふたたび各務原市で生活を始めます。小学校では、チャンバラごっこ。好奇心が旺盛な少年で、とにかく、いろんなところに出かけていました。一方、勉学には無関心で、授業はたいくつでなりませんでした(笑)」。
勉強ギライというより、知識を押し付けるだけの授業がイヤだった。坂井氏も次のように言っている。
「子どもの頃から、管理されるのがとにかくイヤ。だから、『早く大人になって、自由にやりたいことを、やってやる』と思っていました」。
中学校生活も、勉強という意味では、たいくつな毎日だった。
「父や母は、勉強しろとは一切言いませんでした。ただし、祖母は、『金勘定をきちんとしろ』など3つの戒めを口ぐせのように語っていました」。
ちなみに、この祖母は、坂井氏が尊敬する一人で、「祖父以上に経営者だった」と語っている。「美濃坂」を命名したのも、この祖母である。
祖父祖母、父母、起業家精神にあふれた坂井家の人々と比べれば、学校の先生も、失礼な話だが物足りなく映ったのだろう。「リスペクトできるような先生はいなかった」と坂井氏も語っている。
やがて、義務教育の中学校を卒業。高校生活が始まる。

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