本文より~
代々、引き継がれた起業家精神。
「株式会社美濃坂」という美術刀剣を製造・販売する会社がある。本社は岐阜県各務原市にあり、創業は1973年に遡る。「1973年。私は親父が経営していた合資会社坂井縫製を合資会社美濃坂に改め、刀剣ビジネスをスタートさせました」。坂井家は代々、起業家精神が旺盛な家系だ。父親も、祖父も起業家である。今回、ご登場いただいた株式会社J・ARTの坂井氏は、そうした星の下に生まれている。
「ただし、私は、大学を卒業すると坂井家の長男にあるまじき決断をして『岐阜プラスチック工業』という会社に就職しました。親父も、祖父も、経営者ですから、サラリーマンとはどんなものか想像するだけでしたが、やってみると案外、快適でした(笑)」。
「もちろん、就いた仕事にも関係していると思います。営業職だったんです。駆け引きも楽しく、仕事も楽しい。評価もいただけた。それに、賞与という臨時の給料だっていただけるわけでしょ。辞める気もぜんぜんありませんでした。でも、ある日のこと、ある得意先が販売している模造刀をみて、祖父や親父から受け継いだ起業家精神が、いきなり目覚めたんです」。
坂井家には代々伝わる真刀があった。
「真刀と比べると、模造刀は良くできてはいるものの、言っても、おもちゃです。でも、その、おもちゃの刀が飛ぶように売れているというんです。そりゃ、火がつきますよね」。
3年に亘るサラリーマン生活にピリオドを打ち、坂井氏は、25歳の時にして「刀剣ビジネス」を開始する。はからずも坂井家の血を証明することになった。
むろん、紆余曲折はあったが、坂井氏が経営する「美濃坂」は、3年足らずで刀剣製造販売のトッププレイヤーとなる。そして、坂井氏は潤沢な資金を手にすることになった。
「ただし、私は、大学を卒業すると坂井家の長男にあるまじき決断をして『岐阜プラスチック工業』という会社に就職しました。親父も、祖父も、経営者ですから、サラリーマンとはどんなものか想像するだけでしたが、やってみると案外、快適でした(笑)」。
「もちろん、就いた仕事にも関係していると思います。営業職だったんです。駆け引きも楽しく、仕事も楽しい。評価もいただけた。それに、賞与という臨時の給料だっていただけるわけでしょ。辞める気もぜんぜんありませんでした。でも、ある日のこと、ある得意先が販売している模造刀をみて、祖父や親父から受け継いだ起業家精神が、いきなり目覚めたんです」。
坂井家には代々伝わる真刀があった。
「真刀と比べると、模造刀は良くできてはいるものの、言っても、おもちゃです。でも、その、おもちゃの刀が飛ぶように売れているというんです。そりゃ、火がつきますよね」。
3年に亘るサラリーマン生活にピリオドを打ち、坂井氏は、25歳の時にして「刀剣ビジネス」を開始する。はからずも坂井家の血を証明することになった。
むろん、紆余曲折はあったが、坂井氏が経営する「美濃坂」は、3年足らずで刀剣製造販売のトッププレイヤーとなる。そして、坂井氏は潤沢な資金を手にすることになった。
好奇心旺盛な少年時代。
坂井氏は、1948年、岐阜県の各務原市に生まれる。いまでは岐阜市や名古屋市のベッドタウンでとしても有名だが、祖父が旅館を経営していたことからもわかる通り、当時から、人口は少なくなかったようだ。
「一時、岐阜市でも暮らしましたが、私が小学校に上がる頃、ふたたび各務原市で生活を始めます。小学校では、チャンバラごっこ。好奇心が旺盛な少年で、とにかく、いろんなところに出かけていました。一方、勉学には無関心で、授業はたいくつでなりませんでした(笑)」。
勉強ギライというより、知識を押し付けるだけの授業がイヤだった。坂井氏も次のように言っている。
「子どもの頃から、管理されるのがとにかくイヤ。だから、『早く大人になって、自由にやりたいことを、やってやる』と思っていました」。
中学校生活も、勉強という意味では、たいくつな毎日だった。
「父や母は、勉強しろとは一切言いませんでした。ただし、祖母は、『金勘定をきちんとしろ』など3つの戒めを口ぐせのように語っていました」。
ちなみに、この祖母は、坂井氏が尊敬する一人で、「祖父以上に経営者だった」と語っている。「美濃坂」を命名したのも、この祖母である。
祖父祖母、父母、起業家精神にあふれた坂井家の人々と比べれば、学校の先生も、失礼な話だが物足りなく映ったのだろう。「リスペクトできるような先生はいなかった」と坂井氏も語っている。
やがて、義務教育の中学校を卒業。高校生活が始まる。
「一時、岐阜市でも暮らしましたが、私が小学校に上がる頃、ふたたび各務原市で生活を始めます。小学校では、チャンバラごっこ。好奇心が旺盛な少年で、とにかく、いろんなところに出かけていました。一方、勉学には無関心で、授業はたいくつでなりませんでした(笑)」。
勉強ギライというより、知識を押し付けるだけの授業がイヤだった。坂井氏も次のように言っている。
「子どもの頃から、管理されるのがとにかくイヤ。だから、『早く大人になって、自由にやりたいことを、やってやる』と思っていました」。
中学校生活も、勉強という意味では、たいくつな毎日だった。
「父や母は、勉強しろとは一切言いませんでした。ただし、祖母は、『金勘定をきちんとしろ』など3つの戒めを口ぐせのように語っていました」。
ちなみに、この祖母は、坂井氏が尊敬する一人で、「祖父以上に経営者だった」と語っている。「美濃坂」を命名したのも、この祖母である。
祖父祖母、父母、起業家精神にあふれた坂井家の人々と比べれば、学校の先生も、失礼な話だが物足りなく映ったのだろう。「リスペクトできるような先生はいなかった」と坂井氏も語っている。
やがて、義務教育の中学校を卒業。高校生活が始まる。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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