本文より~
横須賀の町に抱かれて。
「母と2人暮らしだった」と今回ご登場いただいた有限会社「たのし屋本舗」下澤 敏也氏。3歳から大の祭り好き。25歳~45歳くらいまで神輿の頭を任されていたそうだ。
「小学校くらいから、母と私の2人暮らしです。父とはちょくちょく会ってはいましたが、母1人、子1人です。親戚も少なかったもんですから、心を通わせることができたのは友達だけでした」。
そのぶん、友達を大事にした。当時は、商店街もまだイキイキしていた。子どもたちは駄菓子屋にむらがり、歓声を上げた。大人たちも、そんな子どもたちを時には叱りながらも、目を細めてみていたはずだ。
下澤家は友達のたまり場。いつも下澤氏の周りには友人がいた。祭りもみんなといっしょだった。「祭りが大好きな理由は、どこかで、真剣な触れ合いを求めていたんだと思います」。
小学6年生の頃からはバイトもした。「お彼岸やお盆の時期に、お花屋さんでアルバイトしました。日給7000円。超破格です(笑)」。
中学は、私学の横須賀学院。「中・高一貫の学校です。ドアツードアで40分。中・高一貫ですから、当然、高校も横須賀学院です。ちゃらちゃらした、楽しい学校でした(笑)」。
中学時代には海の家でバイト。バイトで貯めたお金で7万円もするギターを買ったが、すぐに飽きてしまって高価な置物になった。
ところで、横須賀は、神奈川県の東南部、三浦半島に位置する。東は、東京湾、西は相模湾に挟まれた格好だ。下澤氏の家も海に近く、下澤氏も、高校時代、毎日、海で遊んでいたそうだ。
横須賀という町に抱かれ、下澤少年は、大きくなっていった。
「小学校くらいから、母と私の2人暮らしです。父とはちょくちょく会ってはいましたが、母1人、子1人です。親戚も少なかったもんですから、心を通わせることができたのは友達だけでした」。
そのぶん、友達を大事にした。当時は、商店街もまだイキイキしていた。子どもたちは駄菓子屋にむらがり、歓声を上げた。大人たちも、そんな子どもたちを時には叱りながらも、目を細めてみていたはずだ。
下澤家は友達のたまり場。いつも下澤氏の周りには友人がいた。祭りもみんなといっしょだった。「祭りが大好きな理由は、どこかで、真剣な触れ合いを求めていたんだと思います」。
小学6年生の頃からはバイトもした。「お彼岸やお盆の時期に、お花屋さんでアルバイトしました。日給7000円。超破格です(笑)」。
中学は、私学の横須賀学院。「中・高一貫の学校です。ドアツードアで40分。中・高一貫ですから、当然、高校も横須賀学院です。ちゃらちゃらした、楽しい学校でした(笑)」。
中学時代には海の家でバイト。バイトで貯めたお金で7万円もするギターを買ったが、すぐに飽きてしまって高価な置物になった。
ところで、横須賀は、神奈川県の東南部、三浦半島に位置する。東は、東京湾、西は相模湾に挟まれた格好だ。下澤氏の家も海に近く、下澤氏も、高校時代、毎日、海で遊んでいたそうだ。
横須賀という町に抱かれ、下澤少年は、大きくなっていった。
「三浦半島」で、みつけたもの。
「大学だけは出ておこうかなと思って、受験します。進んだのは、関東学院大学の夜間です」。やりたいことがなかった。なにをすべきかもわからない。「そうですね。方向が決まっていたら、大学にわざわざ行かなかったでしょうね」。
昼間も、実は、夜もバイトに明け暮れた。だから、大学にはほとんど通っていない。知り合いのクリーニング店を中心に、添乗員や、ラーメン店でもはたらきました。
卒業後も25歳までクリーニングで勤務した。「その頃から独立は意識していました。クリーニング店を退職した後、30歳まで4年間、居酒屋で修業。調理も一通り覚え、いよいよ独立と、創作居酒屋を立ち上げたんですが、お客様がぜんぜんいらっしゃらない(笑)」。
当初は、「いつかは、横浜や東京へ」とも思っていたそうだ。創作居酒屋で、女子の目も意識して、料理もスタイリッシュなものにした。友達も、知り合いも、たくさんいたから、それはそれで、「なんとかなる」と思っていたそうだ。20席。いま思えば信じられないが、席が埋まることもなかった。見事に鼻を折られた。
「たしかに、みんな来てくれたんですが、だいだい夜中なんです。彼らが来るのは。で、朝まで(笑)。それはそれで楽しかったんですが、儲からない。半年くらいで、行き詰まりました。ヤバイと思った、そんな時、1人で三浦半島をぐるっとひと回りしたんです」。
「衝撃を受けた」と下澤氏はいう。「江戸前の穴子は旨いと聞いていました。でも、それだけじゃなかったんです」。
「三浦半島は、食材の宝庫」と、知ったのはこの時。太平洋に突き出した半島は、東が東京湾、先端が南で太平洋、西が相模湾と3方向が海に囲まれている。「東と西では、獲れる魚も違うし、同じ魚でも味が異なる」そうだ。「陸に上がれば、畑には野菜があるし、卵もある、もちろん牛肉も。海に囲まれているから土も豊かで、ミネラルが豊富なんです」。
そこに暮らしながら、そこを知らなかった。ただしく言えば、三浦半島に暮らしながら、三浦半島のかたちしか知らなかった。もう少し下澤氏的にいえば、「三浦半島の食材のちからを知らなかった」ということになるだろう。
「それからです。魚も、野菜も、オーバーに言えば切るだけ。それが、うちのメニューになりました。ところが、創作時代より、お客様がいらしてくださって」。
もう、オープンして20年以上になるが、実は、この日、インタビューしたのは1号店。大人から子どもまで、にぎやかな声が、インタビューテープに刻まれている。席はほぼ満席だった。
「そうですね。これが、三浦半島のちからだと思うんです」。むろん、下澤氏が仕入れる食材は簡単に手に入らない貴重なものばかりだ。
「東京で食べれば、価格もぜんぜん違いますし、なんであれ、やはり鮮度がまったく違いますから」。食材のストーリーまで語れるようになった。「この魚が旨いのはなぜか」といったストーリーは、「旨さ」を際立たせる調味料となる。しかし、この調味料こそ、そう簡単には手に入らない。
昼間も、実は、夜もバイトに明け暮れた。だから、大学にはほとんど通っていない。知り合いのクリーニング店を中心に、添乗員や、ラーメン店でもはたらきました。
卒業後も25歳までクリーニングで勤務した。「その頃から独立は意識していました。クリーニング店を退職した後、30歳まで4年間、居酒屋で修業。調理も一通り覚え、いよいよ独立と、創作居酒屋を立ち上げたんですが、お客様がぜんぜんいらっしゃらない(笑)」。
当初は、「いつかは、横浜や東京へ」とも思っていたそうだ。創作居酒屋で、女子の目も意識して、料理もスタイリッシュなものにした。友達も、知り合いも、たくさんいたから、それはそれで、「なんとかなる」と思っていたそうだ。20席。いま思えば信じられないが、席が埋まることもなかった。見事に鼻を折られた。
「たしかに、みんな来てくれたんですが、だいだい夜中なんです。彼らが来るのは。で、朝まで(笑)。それはそれで楽しかったんですが、儲からない。半年くらいで、行き詰まりました。ヤバイと思った、そんな時、1人で三浦半島をぐるっとひと回りしたんです」。
「衝撃を受けた」と下澤氏はいう。「江戸前の穴子は旨いと聞いていました。でも、それだけじゃなかったんです」。
「三浦半島は、食材の宝庫」と、知ったのはこの時。太平洋に突き出した半島は、東が東京湾、先端が南で太平洋、西が相模湾と3方向が海に囲まれている。「東と西では、獲れる魚も違うし、同じ魚でも味が異なる」そうだ。「陸に上がれば、畑には野菜があるし、卵もある、もちろん牛肉も。海に囲まれているから土も豊かで、ミネラルが豊富なんです」。
そこに暮らしながら、そこを知らなかった。ただしく言えば、三浦半島に暮らしながら、三浦半島のかたちしか知らなかった。もう少し下澤氏的にいえば、「三浦半島の食材のちからを知らなかった」ということになるだろう。
「それからです。魚も、野菜も、オーバーに言えば切るだけ。それが、うちのメニューになりました。ところが、創作時代より、お客様がいらしてくださって」。
もう、オープンして20年以上になるが、実は、この日、インタビューしたのは1号店。大人から子どもまで、にぎやかな声が、インタビューテープに刻まれている。席はほぼ満席だった。
「そうですね。これが、三浦半島のちからだと思うんです」。むろん、下澤氏が仕入れる食材は簡単に手に入らない貴重なものばかりだ。
「東京で食べれば、価格もぜんぜん違いますし、なんであれ、やはり鮮度がまったく違いますから」。食材のストーリーまで語れるようになった。「この魚が旨いのはなぜか」といったストーリーは、「旨さ」を際立たせる調味料となる。しかし、この調味料こそ、そう簡単には手に入らない。
・・・続き
有限会社たのし屋本舗 代表取締役 下澤敏也氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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