2016年10月14日金曜日

株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏が登場。
本文より~

中学入学2日目、「大きなお世話だ」と吠えた。

今回ご登場いただく、株式会社クリエイト・レストランツ、代表取締役社長、池田宏氏は、1960年、山形県酒田市に生まれる。4人家族の2人兄弟。兄とは3つ離れている。
「子どもの頃から、影が薄かった」と池田氏は笑うが、中学入学して2日目、3年生に呼び止められている。本当に影が薄ければ、こうはならないだろう。
「入学して2日目です。3年生が『なまいきな奴だ』と言ってきたんです。『なんなんだ、こいつは』と思って『大きなお世話だ』って怒鳴り返しました。そこまではまぁ、よかったんですが、怒鳴り返したとたん、容赦ないパンチが飛んできて、ボコボコにされました(笑)」。
相手が悪かったそうだ。
「5年後、後楽園ホールで開催されていたボクシングの試合を観ていたら、その先輩というか、3年生がリングに上がって試合をしていたんです。そう、プロボクサーの卵だったんです。そりゃ、勝てません」。
未来のプロボクサーに吹っ掛けられたとはいえ、2学年下、しかも入学早々噛み付いたのだから、池田氏の中学生時代がほぼ想像できる。負けん気というか、怖いモノ知らずの性格もまた想像できる。

初ステージは、50円。ほろ苦いプロデビュー。

高校卒業、母の勧めもあって「東北電力」を受験し、内定をもらう。
「そうですね。あのまま、東北電力で勤めていたら、また違った人生だったでしょうね。むろん、内定をもらっていたんで就職するのが当然なんですが『いざ、就職か』と思うと、なんだか「まだ、働きたくないな』って思いが頭をもたげてきて。それで、内定を辞退して、3年生の年末から今までしてこなかった勉強を、なんとか開始して翌年、東洋大学に進学しました」。
 東洋大学を選択したのは、2人の好きな卒業生がいたからだ。植木等氏と、坂口安吾氏である。「今の人にはピンと来ないかもしれませんが、植木等は当時有名な歌手で、コメディアンです。坂口安吾は小説家です。私は、この2人を先輩にしたくて、東洋大学に進み、植木さんのようになりたくて、音楽サークルに入部します」。
 先輩が歌を歌い、池田氏がギターを弾いて、やがてプロデビューもした。もっとも、プロといっても観客1人に対し、100円支払うような契約だったらしい。「初ステージは悲惨でした。まだゼロのほうが、ある意味マシですよね。観客は1人。ステージが終わって、100円をもらって、2人で分けました」。1人50円のほろ苦いプロデビュー。母には、冗談で「ミュージシャンになる」といったが、信じてもらえるはずもなかった。

日本ケンタッキー・フライド・チキン、入社。

東洋大学を卒業した池田氏は、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下、ケンタッキー)に就職する。何ができるのか、何をしたいのかが、自分でもよくわかっていなかったので「成長している会社」に就職したのが正直なところだそうだ。
ケンタッキーは、1970年3月、日本に登場する。同年7月、三菱商事とKFCコーポレーションの出資により日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が誕生。同年、11月21日、名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に1号店がオープンする。しかし、華々しいデビューとはいかず、半年で1号店は閉店に追い込まれている。
このあたりの経緯は、初代店長であり、のちに社長に就任される大河原毅氏を通し、お伝えさせていただいている。飲食の戦士たちの姉妹サイトであるクロスαをご覧いただきたい。
ケンタッキーは神戸三宮の「トアロード」に出店した4号店で、火が付き、軌道に乗る。池田氏が就職したころは、もっとも元気だった時代だろう。
三菱商事という商社がバックにある。資金力も、ネットワークもある。様々な事業も打ち出した。「私は、9年間、ケンタッキーで勤務します。最後の半年は、ハワイで勤務していました。ケンタッキーを辞めたのは、ピザハットを立ち上げることになったからです」。むろん、関連会社である。現在は、ともに日本KFCホールディングス株式会社の傘下に収まる企業である。

・・・続き
株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏
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