2016年10月26日水曜日

旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”創業90周年の旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏登場。
本文より~

やりだしたら、途中で逃げない。それが流儀。

群馬県国定村。今では伊勢崎市となっている。この国定村に、丹羽氏が誕生したのは、1956年である。兄と妹に挟まれた次男坊。運動神経が良く、中学時代から始めた卓球で群馬県の郡大会で優勝している。
「高校は前橋商業に進学しました。卓球が強い学校で、インターハイにも9年連続で出場しているような学校でした」。県立だから、むろん推薦で入学はできない。にもかかわらず同期には、中学時代に全国大会で1位や2位になったような選手がいたそうだ。
「そういう奴がいたもんだから、1年の時は入部を見送ったんです(笑)。でも、さすがに何もしないというのもなんだから、2年になって入部します。もともと巧い選手ばかりでしたし、1年の遅れがあったもんですから、なかなかいい成績は残せませんでした」。
それでも、当時は3年連続インターハイに出場している。県では群を抜いたチームだったのだろう。「練習は、それなりにきつかったですね。辞める奴も結構いました。私は2年からですが、最後までちゃんと続けました」。
1年のブランクは、肉体的にもハンディキャップとなったはずだ。おなじ練習をしても、疲労度は、1年分、異なる。それでも、やりだしたら、途中で逃げない。それが、丹羽氏の流儀なのだろう。
これから先を進めていくわけだが、我々は、度々、その流儀に、驚かされることになる。

旭鮨総本店で、寿司職人になるための、見習い期間がスタートする。

「私が鮨屋をやろうと思ったのは、なんといえばいいんでしょうね。何もやりたいことがなかったから、っていうのがいちばん正しい気がしますね」。
丹羽氏が鮨屋に入る経緯はこうだ。
「もともと鮨屋でバイトをしている奴がいたんです。もちろん、群馬で、です。そいつが『高校を卒業したら、東京の鮨屋で仕事を始めるからついてきてくれ』っていうんですね。それで、私もついて行って面談もいっしょに受けたら、家に帰った時には、その鮨屋から合格通知が届いていたんです」。
その鮨屋が、その後、40年以上勤務することになる「旭鮨総本店」である。
「それで、さっきも言ったように、『これだ』っていうものがなかったから、『鮨屋でもいいか』って、私が就職して。いっしょにいった奴は、結局、地元の鮨屋ではたらくことになったから、私1人が東京に向かうことになるんです」。
高卒で、鮨屋というのは、当時、どういう選択肢だったんだろうか。丹羽氏が18歳とすれば、1974年のことである。1970年、万国博覧会が開催され、食文化においても、「マクドナルド」や「ケンタッキー・フライド・チキン」が日本に登場する一方、「すかいら~く」などのファミリレストランも台頭する。飲食店の経営が近代化されていくのも、この頃からだ。
しかし、鮨屋は、まだまだ旧態依然とした、伝統文化に染まったままだったに違いない。鮨職人も、むろん徒弟制の時代だったはずである。
「旭鮨の創業は、1927年ですから、私が入社した頃ですでに50年ちかく経っていました。いわゆる老舗です。いい寿司職人がいて、その技を代々、受け継ぐことで、はじめて成り立つ商売ですから、私たちも、ある意味ちゃんと育てていただきました。いまはもう、そういうシステムではないんですが、当時は5年です。5年続ければ、見習い終了です」。
5年といえば、ずいぶん長い期間だが、伝統の技を受け継ぐというのはそういうことなのだろう。
「私の同期は、8名です。実は、この8名が全員、5年の修業を終え、見習いを卒業するんです。その後も含めていままでの90年間で、全員が辞めずに卒業したのは、私らが唯一なんです」。
いい勲章である。8人は寮生活。数名が1部屋でいっしょに生活した。どんな話をしていたんだろう。へこんだ仲間がいれば、励ましあい、逆に、いいことがあれば、全員で喜びあった、そんな関係だったに違いない。いずれにしても、「やりだしたら、途中で逃げない」という丹羽氏の流儀はここでも貫かれている。

・・・続き
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