2016年10月19日水曜日

株式会社壱OR八 代表取締役会長兼社長 増子竜一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社壱OR八 代表取締役会長兼社長 増子竜一氏登場。
本文より~

パレスホテル入社、3年はしがみついてやる。

増子氏は、1976年1月27日、東京都豊島区に生まれている。父親は自営業を営んでいたそうだが、増子氏が小学2年生の時に廃業し、一家は、小平に移り住んだ。
「父は、無口な人で、家では母が主導権をにぎっていました。私自身は小さな頃からかぎっ子で、保育園も、夕方まで残っていました」。勉強はしなかったそうだが、スポーツには精をだし、中学卒業までサッカーを続けた。
高校は立川にある男子校。普通科だったが、大半の生徒が就職するような学校だったらしい。「飲食もいいかな、と思ったのは高校時代で、トレンディドラマに出ていたお洒落なお店を観て、憧れたのがきっかけです(笑)」。
三者面談で、「ホテルマンは、かっこいいぞ」と先生に勧められ、立川にオープンする予定の「パレスホテル」に入社を決める。ただし、思い通りにはいかないもので、最初の半年は、本社勤務となる。「本社で、何を勉強しろと言われたと思います? ふつう英語とかでしょ。でも、私が言われたのは、日本語でした(笑)」。
たしかに、と思う。今どき、大学をでても、ただしい日本語を操れる人は少ない。しかし、本人にとってはどうだっただろう。ともかく、「3年は、続けてやる」と思っていたそうである。

2つの店での、修業時代。

「私が配属されたのは、宿泊部です。TVで観たのは、格好いいバーテンダーだったんです。バー部門への異動を何度も希望したんですが、辞めるまでずっと宿泊部でした(笑)」。
それだけではないが、結局、4年でホテルを退職した。飲食業が念頭にあったのだろう。当時、吉祥寺で人気店だった、「チャールストンカフェ」のオープニングにスタッフとして参加する。これが22歳の時である。
「今では、住みたい町№1になって、すっかり昼間の町って印象ですが、当時の吉祥寺は、まだ夜の町だったんです。風俗もあったし、飲みや繁盛した。私も酒が好きで、吉祥寺って町も好きだったもんですから、吉祥寺で仕事を探しました。『チャールストンカフェ』は朝まで営業するカジュアルなイタリアンです。アルバイトからスタートして4年、勤務し、次に『ワイズテーブル』で勤務します。『サルヴァトーレ』の前身となるバール部門に配属され、こちらで2年間勤務しました。大きな声では言えませんが、当時は15時間勤務です。家にも帰れません(笑)。ただ、それで、仕事の筋肉がついた、と感謝しています。ともかく、これで、ホテル時代から数えて10年です。28歳で独立という目標も掲げていましたので、会社が上場する前だったんですが、2年で辞表だし、退職しました。」。
「チャールストンカフェ」も「ワイズテーブル」も、いい経験になった。「チャールストンカフェ」では、今なお、尊敬する先輩にも出会った。
「全体を盛り上げるというか、凄い人でした。その先輩に引っ張られるように、スタッフも、全員が真剣です。みんなで飲みに行っても、仕事の話。悔しくて、泣き出す女の子もいたほどです。それでも、チームワークは抜群。今でも、いちばん仲がいい連中かもしれません。そういう店をつくったのが、その先輩だったんです」。
いろんな意味で薫風を受け、刺激も受け、独立までの日々が過ぎた。「私は、料理人ではないんで、何をするかは、ある意味、フリーハンドです。バーもいいですが、とにかく料理をだす店をつくりたかった。それで、目をつけたのが、リゾットだったんです」。
「もともとイタリアンだったから、イタリアンといえばパスタやピザの専門店だな、と思っていた時に、アレ? リゾットがないぞ(笑)って。ふつう2~3品はあるでしょ。しかし、リゾット専門店がない。リゾットは、具によって何通りにも広がる楽しい料理なんです。よし、これで勝負しよう、と思い立ちました」。

初期投資は1500万円。

「ワイズテーブルを退職して、オープンするまで半年以上かかっているんです。というのも、なかなかいい物件がみつからない。だから、その半年は、パチンコ店でバイトをしていました(笑)」。
ようやく見つかったのが、吉祥寺の駅からそう遠くないビルの地下1階だった。「駅からそう遠くはなかったんですが、イタリアンをここでする? ってロケーションだったんです。イタリアンだから、女の子がターゲット。でも、近くには、風俗街があって、呼び込みのお兄さん方の横を抜けきらなければ、来ることができない(笑)。それでも、今思えば当時は、そういう町だけど、元気があり、人が多かったのも事実です。オープンするなら吉祥寺だと決めていたもんですから、ようやく空いた物件を手放すわけにはいきませんでした」。
家賃は安かったが保証金が20ヵ月とべらぼうだった。
「もともと四川料理店の居抜きだったんですが、内装が気に入らなくて、ぜんぶやり直しました。それで、かかったお金が1500万円です」。手元にあった軍資金は、300~400万円。残りは、金融公庫と信用金庫から借り入れた。「担保がたいへんだったんです。それぞれ500万円ずつの融資を受けたんですが、代わりに、実家を担保にしろ、と。そりゃ、親は納得できなかったし、猛反対です。父親が、事業に失敗しているから尚更です」。
土下座をして、事業計画書をみてもらって。ご両親にすれば、家を担保にすることはもちろんだが、事業リスクを背負う、その意味を、息子に教えたかったのだろう。
10年という時間の経緯を知っていても、迂闊な返事はできるはずがなかった。しかし、ご両親は、息子のやりたいという思いを尊重されることになる。

・・・続き
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