本文より~
小松庵。
3代目である。「祖父が小松庵を創業したのは、大正11年です。祖父から、父へ。そして、私で3代目です。ただ、3人とも性格が違うし、方向も違います。小松庵のDNAは、たしかに継承してきましたが、表現はバラバラです」。
職人堅気の祖父は、店舗展開に消極的だったが、父親はむしろ出店を積極的に行った。「ある意味、祖父に対するアンチテーゼだったかもしれません」。
蕎麦職人から、経営者へ。2代目の挑戦である。
1992年には、池袋メトロポリタンに出店。1994年には、恵比寿ガーデンプレイスへ。1996年には、新宿高島屋へ出店。2000年になってからも5店舗出店するなど店舗展開を図っている。
一方、孫である3代目小松氏は、先祖返りの部分もなくはない。「私自身、職人ではありませんが、『職人』の考えかたや、在りようにはつよくこだわっています」。
職人の仕事は、「文化をつくる仕事でもある」と考えているからだ。次の言葉からも、小松氏の考えが透けてみえる。
「蕎麦屋は、蕎麦をだしていればそれでいいのか。そんなことを考えているわけですから、やっぱり私も、先代たちとはちょっと違いますね(笑)」。
小松氏が生まれたのは、1953年である。生まれは、駒込。すでに、祖父は「小松庵」を創業されている。「祖父の時代は、とりわけ同族経営の時代です。母は、新潟から嫁いできましたが、祖父にすれば働き手が1人増えたくらいにしか思ってなかったんじゃないでしょうか」。
従業員ならまだしも、家族だから余計始末に悪い。「年間365日いっしょです。逃げられない。家族旅行っていっても、社員旅行でしょ。しかも、社員といっても親戚ばかり。母は、長男の嫁ですから、親戚からも冷たい目を向けられていました」。
創業者である祖父に反発できる者はだれもいない。孫の小松氏にとっても、怖い人だった。小松氏も、小学校に上がる頃には、母同様、働き手の1人となった。
「勉強していたら、祖父に殴られるんです。『頭が良くなったら、蕎麦屋をつがなくなる』というのが祖父の言い分。たしかに、あの時は蕎麦屋になんかなるものか、と思っていました」。祖父は、そんな小松氏の気持ち察し、はがゆい思いをしていたのかもしれない。
「ある日、母が『いっしょに逃げよ』といいました。でも、私たちは、逃げ出さなかった。どこかで、小松庵という店に惹かれていたんだと思います」。
祖父が亡くなり、父が2代目になってからも、母は店のために良く働いた。それをつぶさにみていたのは、小松氏ら子どもたちだけではなかった。「私が、銀行関係の方とお話しするようになった時に言われました。『あなたのお母さんは、ほんとうに良く働く人だ。小松庵を支えてきたのは、間違いなくお母さんだ』ってね」。
ちなみに小松氏母は、今もお店に出られることがあるそうだ。
時代は、大正から昭和、平成と移っている。新潟から嫁いできた母がみた当時と比べ、「駒込」の風景はもちろん、「小松庵」もまた、まったく違う姿をしているはずだ。
職人堅気の祖父は、店舗展開に消極的だったが、父親はむしろ出店を積極的に行った。「ある意味、祖父に対するアンチテーゼだったかもしれません」。
蕎麦職人から、経営者へ。2代目の挑戦である。
1992年には、池袋メトロポリタンに出店。1994年には、恵比寿ガーデンプレイスへ。1996年には、新宿高島屋へ出店。2000年になってからも5店舗出店するなど店舗展開を図っている。
一方、孫である3代目小松氏は、先祖返りの部分もなくはない。「私自身、職人ではありませんが、『職人』の考えかたや、在りようにはつよくこだわっています」。
職人の仕事は、「文化をつくる仕事でもある」と考えているからだ。次の言葉からも、小松氏の考えが透けてみえる。
「蕎麦屋は、蕎麦をだしていればそれでいいのか。そんなことを考えているわけですから、やっぱり私も、先代たちとはちょっと違いますね(笑)」。
小松氏が生まれたのは、1953年である。生まれは、駒込。すでに、祖父は「小松庵」を創業されている。「祖父の時代は、とりわけ同族経営の時代です。母は、新潟から嫁いできましたが、祖父にすれば働き手が1人増えたくらいにしか思ってなかったんじゃないでしょうか」。
従業員ならまだしも、家族だから余計始末に悪い。「年間365日いっしょです。逃げられない。家族旅行っていっても、社員旅行でしょ。しかも、社員といっても親戚ばかり。母は、長男の嫁ですから、親戚からも冷たい目を向けられていました」。
創業者である祖父に反発できる者はだれもいない。孫の小松氏にとっても、怖い人だった。小松氏も、小学校に上がる頃には、母同様、働き手の1人となった。
「勉強していたら、祖父に殴られるんです。『頭が良くなったら、蕎麦屋をつがなくなる』というのが祖父の言い分。たしかに、あの時は蕎麦屋になんかなるものか、と思っていました」。祖父は、そんな小松氏の気持ち察し、はがゆい思いをしていたのかもしれない。
「ある日、母が『いっしょに逃げよ』といいました。でも、私たちは、逃げ出さなかった。どこかで、小松庵という店に惹かれていたんだと思います」。
祖父が亡くなり、父が2代目になってからも、母は店のために良く働いた。それをつぶさにみていたのは、小松氏ら子どもたちだけではなかった。「私が、銀行関係の方とお話しするようになった時に言われました。『あなたのお母さんは、ほんとうに良く働く人だ。小松庵を支えてきたのは、間違いなくお母さんだ』ってね」。
ちなみに小松氏母は、今もお店に出られることがあるそうだ。
時代は、大正から昭和、平成と移っている。新潟から嫁いできた母がみた当時と比べ、「駒込」の風景はもちろん、「小松庵」もまた、まったく違う姿をしているはずだ。
蕎麦屋の3代目の挑戦。
大学時代まで、ぱっとしなかった。外交的でもない。女子とわいわい騒ぐということもできないタイプだった。「大学で初めて、生涯の友ができた。それが、今の妻です(笑)」。
小松氏は、青山学院に進学。青学で始めたオーケストラで知り合ったそうだ。「それまで、何か楽器をしていたかというと、ぜんぜんそんなことはなかったんですが、突然、やろうと思ったんですよね。なぜか」。踏み込んだ先に、奥様がいた。音楽にもむろん惹かれた。文化への傾倒も、この頃に始まったのかもしれない。
「怠け者だが、凝り性」と小松氏は自己分析する。怠け者のほうはともかく、凝りだしたらとまらない。余談だが、30歳から始めたテニスでは、コーチを務めるまでになっている。その頃には、だれかれともなく言葉を交わす外交的な性格になっている。これも、たぶん奥様のおかげである。
小松氏は、1977年、同大学の理工学部、物理科を卒業している。大学出身の飲食経営者は少なくないが、理系というのはめずらしい。「ものごとを論理的に考える癖がついてしまっている」と笑う。だから、知り合った頃には、偏屈な奴と思われる時もあるそうだが、交流が深まれば、たいていの人は小松氏に好意を持つ。「経営者の多くは、現象を観る。私が観るのは、原理です」。
心ある人は、小松氏の言葉にいつか耳を傾けるようになる。ある会合に参加した時もそうだった。最初は、言葉がまるでかみ合わなかった。ただ、「2年で本質的な議論ができるようになった」と小松氏はいう。
「旨ければいい」。それでは「旨い」という現象にしか、目が向いていない。店は、存続しなければならないし、儲からなければならない。そうしなければ、文化を継承する職人も、生まれない。
「蕎麦屋は、少なくなっているんです。『それは、なぜか』を根本から考えないといけない。つまり、減少という事象のみに目を向けるのではなく、原理から考えないといけない。労働環境もそうでしょう。でも、それだけではない。文化や、時代背景など、実は、社会の体制にまで手を突っ込んでいかなければ、解決できない問題なんです」。
むろん、蕎麦屋が自らできることは限られている。だからといって、放っておくことはできない。3年前リニューアルした「総本家 小松庵 駒込本店」は、小松氏のひとつの挑戦だ。
ネットなどで確認いただきたいが、蕎麦屋という外観ではない。小松氏自ら「蕎麦屋っぽくないようにした」と豪語する。外観は、高級レストランに近い佇まいである。「つくりたかったのは、非日常」。けっして安くはない。ランチでも3500円。それでも、客は溢れる。
「蕎麦っていうのは、旨いだけでは経営が難しいです。旨いのはもちろんですが、それだけではだめってことです。安ければいい、でもない」。では、どうすればいいのか。その答え探しのために、小松氏は、新たな挑戦を開始したに違いない。
・・・続き小松氏は、青山学院に進学。青学で始めたオーケストラで知り合ったそうだ。「それまで、何か楽器をしていたかというと、ぜんぜんそんなことはなかったんですが、突然、やろうと思ったんですよね。なぜか」。踏み込んだ先に、奥様がいた。音楽にもむろん惹かれた。文化への傾倒も、この頃に始まったのかもしれない。
「怠け者だが、凝り性」と小松氏は自己分析する。怠け者のほうはともかく、凝りだしたらとまらない。余談だが、30歳から始めたテニスでは、コーチを務めるまでになっている。その頃には、だれかれともなく言葉を交わす外交的な性格になっている。これも、たぶん奥様のおかげである。
小松氏は、1977年、同大学の理工学部、物理科を卒業している。大学出身の飲食経営者は少なくないが、理系というのはめずらしい。「ものごとを論理的に考える癖がついてしまっている」と笑う。だから、知り合った頃には、偏屈な奴と思われる時もあるそうだが、交流が深まれば、たいていの人は小松氏に好意を持つ。「経営者の多くは、現象を観る。私が観るのは、原理です」。
心ある人は、小松氏の言葉にいつか耳を傾けるようになる。ある会合に参加した時もそうだった。最初は、言葉がまるでかみ合わなかった。ただ、「2年で本質的な議論ができるようになった」と小松氏はいう。
「旨ければいい」。それでは「旨い」という現象にしか、目が向いていない。店は、存続しなければならないし、儲からなければならない。そうしなければ、文化を継承する職人も、生まれない。
「蕎麦屋は、少なくなっているんです。『それは、なぜか』を根本から考えないといけない。つまり、減少という事象のみに目を向けるのではなく、原理から考えないといけない。労働環境もそうでしょう。でも、それだけではない。文化や、時代背景など、実は、社会の体制にまで手を突っ込んでいかなければ、解決できない問題なんです」。
むろん、蕎麦屋が自らできることは限られている。だからといって、放っておくことはできない。3年前リニューアルした「総本家 小松庵 駒込本店」は、小松氏のひとつの挑戦だ。
ネットなどで確認いただきたいが、蕎麦屋という外観ではない。小松氏自ら「蕎麦屋っぽくないようにした」と豪語する。外観は、高級レストランに近い佇まいである。「つくりたかったのは、非日常」。けっして安くはない。ランチでも3500円。それでも、客は溢れる。
「蕎麦っていうのは、旨いだけでは経営が難しいです。旨いのはもちろんですが、それだけではだめってことです。安ければいい、でもない」。では、どうすればいいのか。その答え探しのために、小松氏は、新たな挑戦を開始したに違いない。
株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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