本文より~
高校生から社会に出る。
米田氏は、1985年10月6日、神戸市に生まれる。
生まれてすぐ、父親の転勤で東京都の江戸川区に移り住んだ。子どもの頃は、喧嘩もし、何でもいちばんでないと我慢できない性格だったので、努力し常に1番を取っていたそうだ。
兄弟は、3人。米田氏は次男坊である。
「自儘」という言葉がある。「周囲の事情など考えずに、自分の思うままに物事をする」という意味だ。子どもの頃の米田氏はまさに、その言葉通りの行動を取っていた。
高校を辞めることになったのも、いうならば自儘な生活が原因だった。
「その頃からすでに独立心が旺盛だったものですから、高校に行くにしても時間がもったいないなと思っていたんです。しかし、父親に説得されて、渋々、進学するんですが、1年目で早速、留年が決定的となって。そうなると、1年をもう一回やるわけで、『そんな時間、オレにはない』と思ってしまうんです。まさに、身勝手なヤローですよね。それから、通信制の高校に鞍替えしたんですが。高校を退学する時、父親が学校に来て、『申し訳ありませんでした』って先生に頭を下げていたんです。それをみて…」。
それをみて、親父に頭を下げさせてしまったことを反省し、このままじゃダメだと思い「すべてがかわった」、と米田氏はいう。
生まれてすぐ、父親の転勤で東京都の江戸川区に移り住んだ。子どもの頃は、喧嘩もし、何でもいちばんでないと我慢できない性格だったので、努力し常に1番を取っていたそうだ。
兄弟は、3人。米田氏は次男坊である。
「自儘」という言葉がある。「周囲の事情など考えずに、自分の思うままに物事をする」という意味だ。子どもの頃の米田氏はまさに、その言葉通りの行動を取っていた。
高校を辞めることになったのも、いうならば自儘な生活が原因だった。
「その頃からすでに独立心が旺盛だったものですから、高校に行くにしても時間がもったいないなと思っていたんです。しかし、父親に説得されて、渋々、進学するんですが、1年目で早速、留年が決定的となって。そうなると、1年をもう一回やるわけで、『そんな時間、オレにはない』と思ってしまうんです。まさに、身勝手なヤローですよね。それから、通信制の高校に鞍替えしたんですが。高校を退学する時、父親が学校に来て、『申し訳ありませんでした』って先生に頭を下げていたんです。それをみて…」。
それをみて、親父に頭を下げさせてしまったことを反省し、このままじゃダメだと思い「すべてがかわった」、と米田氏はいう。
理不尽な社会のなかでみつけた、目標。
「それから1年生が終わるまではまじめに出席しました。そうすると、通信の学校に行っても2年から編入できたからです」。
「せめて高卒の肩書は」と、父親に勧められたに違いない。もっとも通信制だから、仕事もできる。早く社会に出たいと思っていた米田氏にとっても最良の選択でもあった。
「最初に就職したのは、土建関係の会社です。まだ17歳ですから、父親の了承も必要でした」。
父親はなかなか「うん」と言わなかったそうだ。しかし、結局、息子の意思をたしかめて、「承諾してくれた」という。同時に、一通の手紙が渡された。息子と社会に対する父の思いが綴られていた。「あの時の手紙は、いまも大事に残しています」と米田氏はいう。
「現場作業ですから、肉体的にも相当きびしかったんですが、それ以上に、まあ、理不尽な会社だったんです」。
「人に使われるというのは、こういうことか」。それをいやになるほど味わった。
「結局、経営陣のやりかたにに反発して、退職します。その時に、私のなかでは大きな目標が生まれたんです。『経営者になる』という目標です」。
「せめて高卒の肩書は」と、父親に勧められたに違いない。もっとも通信制だから、仕事もできる。早く社会に出たいと思っていた米田氏にとっても最良の選択でもあった。
「最初に就職したのは、土建関係の会社です。まだ17歳ですから、父親の了承も必要でした」。
父親はなかなか「うん」と言わなかったそうだ。しかし、結局、息子の意思をたしかめて、「承諾してくれた」という。同時に、一通の手紙が渡された。息子と社会に対する父の思いが綴られていた。「あの時の手紙は、いまも大事に残しています」と米田氏はいう。
「現場作業ですから、肉体的にも相当きびしかったんですが、それ以上に、まあ、理不尽な会社だったんです」。
「人に使われるというのは、こういうことか」。それをいやになるほど味わった。
「結局、経営陣のやりかたにに反発して、退職します。その時に、私のなかでは大きな目標が生まれたんです。『経営者になる』という目標です」。
経営者をめざすには、まず営業は避けて通れない。
「営業を知らなければと思って、通信系の会社に就職しました。そちらで、約3年間、営業の仕事をしました。
その後は経営を学ぶためにベンチャー・リンクに入社しました」。
ベンチャー・リンクとは、もともとかかわりがあったそうだ。「一度、ベンチャー・リンク関連の店で、アルバイトをしていたんです。そのとき、いまでも尊敬する上司となる山田さんという方に出会って」。
その後は経営を学ぶためにベンチャー・リンクに入社しました」。
ベンチャー・リンクとは、もともとかかわりがあったそうだ。「一度、ベンチャー・リンク関連の店で、アルバイトをしていたんです。そのとき、いまでも尊敬する上司となる山田さんという方に出会って」。
「ベンチャー・リンク」の日々。
ベンチャー・リンクに入社した米田氏は、日々の仕事と、日々の勉強に追われた。「あの時はさすがに、もうちょっと勉強しといたほうがよかったって、思いました」。
米田氏は笑っていうが、当時は、切実な悩みでもあった。「だって、仕事だけで、もう、24時間なわけですよ。それに勉強でしょ。時間がない」。
「相当、きつかった」と米田氏がいうのも頷ける。しかし、そこまで米田氏を動かしたものはなんだったんだろう。「一言で言い表わすなら、『夢』です。しかし、ベンチャー・リンクという組織のなかで仕事をしていたからだとも思うんです。尊敬できる先輩ばかりでしたから」。
大卒の先輩らと違って、20歳で入社した米田氏は、年下である。可愛がってもらっていたのだろうし、逆に米田氏が先輩たちに刺激を与えていたのも間違いない事実だろう。
「当時は、そういう意味では恵まれた環境だったと思います。私もそうですが、当時の先輩たちの多くも独立して、起業されています。その事実が当時のことを何よりも雄弁に物語っていると思います」。
たしかに、ベンチャー・リンクの、事業以外の功績を一つ挙げるとすれば、米田氏らのような「経営者を輩出したこと」となるだろう。外食ビジネスのなかだけでも、ベンチャー・リンク卒業生の、社長は数多い。
米田氏は笑っていうが、当時は、切実な悩みでもあった。「だって、仕事だけで、もう、24時間なわけですよ。それに勉強でしょ。時間がない」。
「相当、きつかった」と米田氏がいうのも頷ける。しかし、そこまで米田氏を動かしたものはなんだったんだろう。「一言で言い表わすなら、『夢』です。しかし、ベンチャー・リンクという組織のなかで仕事をしていたからだとも思うんです。尊敬できる先輩ばかりでしたから」。
大卒の先輩らと違って、20歳で入社した米田氏は、年下である。可愛がってもらっていたのだろうし、逆に米田氏が先輩たちに刺激を与えていたのも間違いない事実だろう。
「当時は、そういう意味では恵まれた環境だったと思います。私もそうですが、当時の先輩たちの多くも独立して、起業されています。その事実が当時のことを何よりも雄弁に物語っていると思います」。
たしかに、ベンチャー・リンクの、事業以外の功績を一つ挙げるとすれば、米田氏らのような「経営者を輩出したこと」となるだろう。外食ビジネスのなかだけでも、ベンチャー・リンク卒業生の、社長は数多い。
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