2016年12月14日水曜日

株式会社アークス 代表取締役 米田周平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アークス 代表取締役 米田周平氏登場。
本文より~

高校生から社会に出る。

米田氏は、1985年10月6日、神戸市に生まれる。
生まれてすぐ、父親の転勤で東京都の江戸川区に移り住んだ。子どもの頃は、喧嘩もし、何でもいちばんでないと我慢できない性格だったので、努力し常に1番を取っていたそうだ。
兄弟は、3人。米田氏は次男坊である。
「自儘」という言葉がある。「周囲の事情など考えずに、自分の思うままに物事をする」という意味だ。子どもの頃の米田氏はまさに、その言葉通りの行動を取っていた。
高校を辞めることになったのも、いうならば自儘な生活が原因だった。
「その頃からすでに独立心が旺盛だったものですから、高校に行くにしても時間がもったいないなと思っていたんです。しかし、父親に説得されて、渋々、進学するんですが、1年目で早速、留年が決定的となって。そうなると、1年をもう一回やるわけで、『そんな時間、オレにはない』と思ってしまうんです。まさに、身勝手なヤローですよね。それから、通信制の高校に鞍替えしたんですが。高校を退学する時、父親が学校に来て、『申し訳ありませんでした』って先生に頭を下げていたんです。それをみて…」。
それをみて、親父に頭を下げさせてしまったことを反省し、このままじゃダメだと思い「すべてがかわった」、と米田氏はいう。

理不尽な社会のなかでみつけた、目標。

「それから1年生が終わるまではまじめに出席しました。そうすると、通信の学校に行っても2年から編入できたからです」。
「せめて高卒の肩書は」と、父親に勧められたに違いない。もっとも通信制だから、仕事もできる。早く社会に出たいと思っていた米田氏にとっても最良の選択でもあった。
「最初に就職したのは、土建関係の会社です。まだ17歳ですから、父親の了承も必要でした」。
父親はなかなか「うん」と言わなかったそうだ。しかし、結局、息子の意思をたしかめて、「承諾してくれた」という。同時に、一通の手紙が渡された。息子と社会に対する父の思いが綴られていた。「あの時の手紙は、いまも大事に残しています」と米田氏はいう。
「現場作業ですから、肉体的にも相当きびしかったんですが、それ以上に、まあ、理不尽な会社だったんです」。
「人に使われるというのは、こういうことか」。それをいやになるほど味わった。
「結局、経営陣のやりかたにに反発して、退職します。その時に、私のなかでは大きな目標が生まれたんです。『経営者になる』という目標です」。

経営者をめざすには、まず営業は避けて通れない。

「営業を知らなければと思って、通信系の会社に就職しました。そちらで、約3年間、営業の仕事をしました。
その後は経営を学ぶためにベンチャー・リンクに入社しました」。
ベンチャー・リンクとは、もともとかかわりがあったそうだ。「一度、ベンチャー・リンク関連の店で、アルバイトをしていたんです。そのとき、いまでも尊敬する上司となる山田さんという方に出会って」。

「ベンチャー・リンク」の日々。


ベンチャー・リンクに入社した米田氏は、日々の仕事と、日々の勉強に追われた。「あの時はさすがに、もうちょっと勉強しといたほうがよかったって、思いました」。
米田氏は笑っていうが、当時は、切実な悩みでもあった。「だって、仕事だけで、もう、24時間なわけですよ。それに勉強でしょ。時間がない」。
「相当、きつかった」と米田氏がいうのも頷ける。しかし、そこまで米田氏を動かしたものはなんだったんだろう。「一言で言い表わすなら、『夢』です。しかし、ベンチャー・リンクという組織のなかで仕事をしていたからだとも思うんです。尊敬できる先輩ばかりでしたから」。
大卒の先輩らと違って、20歳で入社した米田氏は、年下である。可愛がってもらっていたのだろうし、逆に米田氏が先輩たちに刺激を与えていたのも間違いない事実だろう。
「当時は、そういう意味では恵まれた環境だったと思います。私もそうですが、当時の先輩たちの多くも独立して、起業されています。その事実が当時のことを何よりも雄弁に物語っていると思います」。
たしかに、ベンチャー・リンクの、事業以外の功績を一つ挙げるとすれば、米田氏らのような「経営者を輩出したこと」となるだろう。外食ビジネスのなかだけでも、ベンチャー・リンク卒業生の、社長は数多い。

・・・続き
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2016年12月6日火曜日

株式会社麺庄 代表取締役 庄野智治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社麺庄 代表取締役 庄野智治氏登場。
本文より~

教科書は、「料理マンガ」。

海老とトマトの鶏白湯スープ/生姜スープ。スープは、このいずれかをチョイスする。この2種類のスープ選びから始まる「ベジつけめん」は、麺と、チャーシューなどの具材が、絵画のように美しく盛られた目にも楽しい「つけめん」である。
「ベジつけめんは、3号店目となる、新宿1丁目の『gotsubo』でお出ししているラーメンです。店名通り、5坪の小さなお店ですが、女性客も多く、高い評価を頂戴しています」とのこと。2016夏限定メニューは、更に独創的で、「冷たいトウモロコシのラーメン(890円)」は月・火は長芋とオクラのスープ、水・木はトマトとキュウリのスープ、金・土はキノコのスープと、2日毎にスープも入れ替わる。
「上質でワクワクするようなラーメン」と社長の庄野氏はそう表現するが、実際に目の当りにすると、パスタに近い。というか、ラーメンとパスタが融合した新たな食のカテゴリーという気がしなくもない。
さて、今回ご登場いただくのは、この「ベジつけめん」をはじめ、独創的なラーメンを生み出し、いまやサンフランシスコに海外1号店をオープンするまでとなったラーメンクリエーターであり、株式会社麺庄の社長、庄野智治氏である。
庄野氏は、1980年2月12日、生まれる。なんでも、ラーメンというか、食に熱烈な興味を持ったのは、庄野家では庄野氏だけだった。
「小学3年生の頃から、剣道をはじめます」。理由は、「剣道場に一目ぼれした」とのこと。結局、中学2年生までつづけ、区大会や県大会で入賞したこともあるそうだ。
「次男ということもあったんだと思いますが、両親は、とにかく何でも自由にさせてくれました」。
「私がつくった料理も、いつもほめてくれました」。
実は、庄野氏。子どもの頃から、食べ歩きが大好きだった。とくにラーメンがお気に入り。食べるだけではなく、つくることも大好きだった。好きな漫画は「クッキングパパ」。「クッキングパパ」「美味しんぼ」漫画に出てくるレシピが、教科書だった。父や母や兄が褒めてくれたのは、その時につくった料理の数々である。
「家ではもちろんですが、友人宅でも、冷蔵庫を開け、なかにある食材で料理をつくっていました」とのこと。少年たちが、口々に、「庄野は、料理の天才だ」といったのは、この頃のことである。早くも、料理人の片鱗がうかがえる話でもある。

高校生、ラーメンを自作。

高校生からバイトをする人は少なくない。庄野氏も、高校3年から居酒屋でアルバイトを開始している。しかし、高校生の時から、骨を炊いてラーメンを自作するなんていう人は少ないのではないか。
「コロッケ屋さんが骨をわけてくれたんです。それをうちにあった小ぶりな寸胴で、じっくり炊いて…」。キッチンは、小学生の頃から、庄野氏の縄張りでもあった。
この時も、出来上がったラーメンをふるまうと、みんなからお世辞抜きで「天才だ」と称賛された。
「そりゃ、旨くて当然です。原価もまったく気にしていないわけですから。しかも一杯入魂ですからね(笑)」。
決断も、早い。
もっとも、すぐに独立というわけにはいかない。ラーメンづくりには、素人ながらも、いや正しくいえば素人だからの、自信があったが、資金もない。
社会というものも勉強しなければならなかった。
「それで、知り合いに、飲食店の工事を請け負っている会社があったので、そちらに厄介になりました」。営業もしたし、現場にも入り、汗を流したそうだ。
「いつ、もしくは何歳になったら、独立すると決めていましたか?」と聞くと、「そういうのは、決めてなかったんですが、とにかく資金が貯まったらと思っていました」。
結局、3~4年で、独立資金を貯めた。短い期間で用意したのは、意思の表れである。
ところで、高校生からラーメンを自作するようになっているが、そもそもラーメンだと思ったのは、なぜなんだろう。
「『ラーメン巌流島』っていうテレビ番組があったんです。その番組を観たのが、ラーメンに興味を持つようになったきっかけですね。当時は、荻窪の『春木屋』さんや『丸長』さん、『大勝軒』さんに良く通っていました。専門学校に進んでいたら、フランス料理を専攻するつもりだったんですが、大学に進みましたから、ラーメンはもちろん、料理はすべて独学です。だから、店をやるには、かつて『天才』と言われたラーメンでと、甘い考えでスタートしたわけです」。
大学2年で中退して、3年だから、1年浪人を入れて、24歳の時である。
「資金も貯まった頃に、いい物件もあって、よし、ってことで、オープンしました」。その店が1号店である「麺や庄の」である。
「たまたま、当時ブレイクしたカレーハウスの創業店の跡地だったんです。10坪、10席です。人気店を生み出した創業の地ですから、そこでやってだめだったら、飲食店の経営は向いていないことになる。だめだったら、ぜんぶ捨てて、ふつうのサラリーマンになろうと思っていました」。
・・・続き
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2016年12月5日月曜日

夢を買いに有楽町に行きました!!

2016年もあと1か月、とうとう師走となりました。
最後に“夢を買い”に有楽町の「西銀座チャンスセンター」に行きました!!
まあ2時間近く並びましたね・・・。
そしてついに1番窓口でゲット!!