本文より~
教科書は、「料理マンガ」。
海老とトマトの鶏白湯スープ/生姜スープ。スープは、このいずれかをチョイスする。この2種類のスープ選びから始まる「ベジつけめん」は、麺と、チャーシューなどの具材が、絵画のように美しく盛られた目にも楽しい「つけめん」である。
「ベジつけめんは、3号店目となる、新宿1丁目の『gotsubo』でお出ししているラーメンです。店名通り、5坪の小さなお店ですが、女性客も多く、高い評価を頂戴しています」とのこと。2016夏限定メニューは、更に独創的で、「冷たいトウモロコシのラーメン(890円)」は月・火は長芋とオクラのスープ、水・木はトマトとキュウリのスープ、金・土はキノコのスープと、2日毎にスープも入れ替わる。
「上質でワクワクするようなラーメン」と社長の庄野氏はそう表現するが、実際に目の当りにすると、パスタに近い。というか、ラーメンとパスタが融合した新たな食のカテゴリーという気がしなくもない。
さて、今回ご登場いただくのは、この「ベジつけめん」をはじめ、独創的なラーメンを生み出し、いまやサンフランシスコに海外1号店をオープンするまでとなったラーメンクリエーターであり、株式会社麺庄の社長、庄野智治氏である。
庄野氏は、1980年2月12日、生まれる。なんでも、ラーメンというか、食に熱烈な興味を持ったのは、庄野家では庄野氏だけだった。
「小学3年生の頃から、剣道をはじめます」。理由は、「剣道場に一目ぼれした」とのこと。結局、中学2年生までつづけ、区大会や県大会で入賞したこともあるそうだ。
「次男ということもあったんだと思いますが、両親は、とにかく何でも自由にさせてくれました」。
「私がつくった料理も、いつもほめてくれました」。
実は、庄野氏。子どもの頃から、食べ歩きが大好きだった。とくにラーメンがお気に入り。食べるだけではなく、つくることも大好きだった。好きな漫画は「クッキングパパ」。「クッキングパパ」「美味しんぼ」漫画に出てくるレシピが、教科書だった。父や母や兄が褒めてくれたのは、その時につくった料理の数々である。
「家ではもちろんですが、友人宅でも、冷蔵庫を開け、なかにある食材で料理をつくっていました」とのこと。少年たちが、口々に、「庄野は、料理の天才だ」といったのは、この頃のことである。早くも、料理人の片鱗がうかがえる話でもある。
「ベジつけめんは、3号店目となる、新宿1丁目の『gotsubo』でお出ししているラーメンです。店名通り、5坪の小さなお店ですが、女性客も多く、高い評価を頂戴しています」とのこと。2016夏限定メニューは、更に独創的で、「冷たいトウモロコシのラーメン(890円)」は月・火は長芋とオクラのスープ、水・木はトマトとキュウリのスープ、金・土はキノコのスープと、2日毎にスープも入れ替わる。
「上質でワクワクするようなラーメン」と社長の庄野氏はそう表現するが、実際に目の当りにすると、パスタに近い。というか、ラーメンとパスタが融合した新たな食のカテゴリーという気がしなくもない。
さて、今回ご登場いただくのは、この「ベジつけめん」をはじめ、独創的なラーメンを生み出し、いまやサンフランシスコに海外1号店をオープンするまでとなったラーメンクリエーターであり、株式会社麺庄の社長、庄野智治氏である。
庄野氏は、1980年2月12日、生まれる。なんでも、ラーメンというか、食に熱烈な興味を持ったのは、庄野家では庄野氏だけだった。
「小学3年生の頃から、剣道をはじめます」。理由は、「剣道場に一目ぼれした」とのこと。結局、中学2年生までつづけ、区大会や県大会で入賞したこともあるそうだ。
「次男ということもあったんだと思いますが、両親は、とにかく何でも自由にさせてくれました」。
「私がつくった料理も、いつもほめてくれました」。
実は、庄野氏。子どもの頃から、食べ歩きが大好きだった。とくにラーメンがお気に入り。食べるだけではなく、つくることも大好きだった。好きな漫画は「クッキングパパ」。「クッキングパパ」「美味しんぼ」漫画に出てくるレシピが、教科書だった。父や母や兄が褒めてくれたのは、その時につくった料理の数々である。
「家ではもちろんですが、友人宅でも、冷蔵庫を開け、なかにある食材で料理をつくっていました」とのこと。少年たちが、口々に、「庄野は、料理の天才だ」といったのは、この頃のことである。早くも、料理人の片鱗がうかがえる話でもある。
高校生、ラーメンを自作。
高校生からバイトをする人は少なくない。庄野氏も、高校3年から居酒屋でアルバイトを開始している。しかし、高校生の時から、骨を炊いてラーメンを自作するなんていう人は少ないのではないか。
「コロッケ屋さんが骨をわけてくれたんです。それをうちにあった小ぶりな寸胴で、じっくり炊いて…」。キッチンは、小学生の頃から、庄野氏の縄張りでもあった。
この時も、出来上がったラーメンをふるまうと、みんなからお世辞抜きで「天才だ」と称賛された。
「そりゃ、旨くて当然です。原価もまったく気にしていないわけですから。しかも一杯入魂ですからね(笑)」。
決断も、早い。
もっとも、すぐに独立というわけにはいかない。ラーメンづくりには、素人ながらも、いや正しくいえば素人だからの、自信があったが、資金もない。
社会というものも勉強しなければならなかった。
「それで、知り合いに、飲食店の工事を請け負っている会社があったので、そちらに厄介になりました」。営業もしたし、現場にも入り、汗を流したそうだ。
「いつ、もしくは何歳になったら、独立すると決めていましたか?」と聞くと、「そういうのは、決めてなかったんですが、とにかく資金が貯まったらと思っていました」。
結局、3~4年で、独立資金を貯めた。短い期間で用意したのは、意思の表れである。
ところで、高校生からラーメンを自作するようになっているが、そもそもラーメンだと思ったのは、なぜなんだろう。
「『ラーメン巌流島』っていうテレビ番組があったんです。その番組を観たのが、ラーメンに興味を持つようになったきっかけですね。当時は、荻窪の『春木屋』さんや『丸長』さん、『大勝軒』さんに良く通っていました。専門学校に進んでいたら、フランス料理を専攻するつもりだったんですが、大学に進みましたから、ラーメンはもちろん、料理はすべて独学です。だから、店をやるには、かつて『天才』と言われたラーメンでと、甘い考えでスタートしたわけです」。
大学2年で中退して、3年だから、1年浪人を入れて、24歳の時である。
「資金も貯まった頃に、いい物件もあって、よし、ってことで、オープンしました」。その店が1号店である「麺や庄の」である。
「たまたま、当時ブレイクしたカレーハウスの創業店の跡地だったんです。10坪、10席です。人気店を生み出した創業の地ですから、そこでやってだめだったら、飲食店の経営は向いていないことになる。だめだったら、ぜんぶ捨てて、ふつうのサラリーマンになろうと思っていました」。
「コロッケ屋さんが骨をわけてくれたんです。それをうちにあった小ぶりな寸胴で、じっくり炊いて…」。キッチンは、小学生の頃から、庄野氏の縄張りでもあった。
この時も、出来上がったラーメンをふるまうと、みんなからお世辞抜きで「天才だ」と称賛された。
「そりゃ、旨くて当然です。原価もまったく気にしていないわけですから。しかも一杯入魂ですからね(笑)」。
決断も、早い。
もっとも、すぐに独立というわけにはいかない。ラーメンづくりには、素人ながらも、いや正しくいえば素人だからの、自信があったが、資金もない。
社会というものも勉強しなければならなかった。
「それで、知り合いに、飲食店の工事を請け負っている会社があったので、そちらに厄介になりました」。営業もしたし、現場にも入り、汗を流したそうだ。
「いつ、もしくは何歳になったら、独立すると決めていましたか?」と聞くと、「そういうのは、決めてなかったんですが、とにかく資金が貯まったらと思っていました」。
結局、3~4年で、独立資金を貯めた。短い期間で用意したのは、意思の表れである。
ところで、高校生からラーメンを自作するようになっているが、そもそもラーメンだと思ったのは、なぜなんだろう。
「『ラーメン巌流島』っていうテレビ番組があったんです。その番組を観たのが、ラーメンに興味を持つようになったきっかけですね。当時は、荻窪の『春木屋』さんや『丸長』さん、『大勝軒』さんに良く通っていました。専門学校に進んでいたら、フランス料理を専攻するつもりだったんですが、大学に進みましたから、ラーメンはもちろん、料理はすべて独学です。だから、店をやるには、かつて『天才』と言われたラーメンでと、甘い考えでスタートしたわけです」。
大学2年で中退して、3年だから、1年浪人を入れて、24歳の時である。
「資金も貯まった頃に、いい物件もあって、よし、ってことで、オープンしました」。その店が1号店である「麺や庄の」である。
「たまたま、当時ブレイクしたカレーハウスの創業店の跡地だったんです。10坪、10席です。人気店を生み出した創業の地ですから、そこでやってだめだったら、飲食店の経営は向いていないことになる。だめだったら、ぜんぶ捨てて、ふつうのサラリーマンになろうと思っていました」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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