2017年1月25日水曜日

株式会社OvationPlus 代表取締役 梅村雄士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社OvationPlus 代表取締役 梅村雄士氏登場。
本文より~

熊本県水俣市。

「バルザル」。マークは店名の「ザル」から取った、サル。ちょっぴり悪役のようなおサルさんがモチーフとなっている。「バルザル」が神戸、六甲道にオープンしたのは、2009年9月のこと。以来、神戸三宮、大阪梅田を皮切りに、現在では、五反田、蒲田、大井町と東京進出も果たしている。
今回はこの「バルザル」の生みの親、OvationPlusの代表取締役、梅村氏にご登場いただいた。
梅村氏が生まれたのは、1978年。出身は熊本県水俣市。海沿いの温泉街で、ご両親は曾祖父の代から温泉旅館を営んでおられたそうだ。もっともすでに廃業されているとのこと。梅村氏によれば、部屋数は15あったが、年間の売上高は、今、梅村氏が経営している、「バルザル」の小箱1店舗にも及ばなかったという。そこからもわかる通り、けっして裕福ではなかったが、妹2人と家族5人暮らすには、それで十分だったのだろう。ともかく、海も、山もある、自然豊かな町で梅村氏は、育った。
ところで、梅村氏は小学4年生から野球を始めている。中学でバスケットボールに転向。なんでも、当時の人気漫画「スラムダンク」の影響を受けて、バスケに転向したそうだ。
当時の中学校の様子も、梅村氏は「ビーバップハイスクールのしょぼい版みたいな感じ(笑)」と表現する。「スラムダンク」も「ビーバップハイスクール」もいうまでもなく、当時の人気漫画である。漫画を知っているこちらには、その平易なたとえで、当時の様子がよく伝わってくる。
高校でもバスケットボールを続けた。「学校が少ないから、2回勝てばベスト16とかです。バスケ部は、学年で10人くらい。私はレギュラーでした」。
とくに、かわったことはなかった。
ふつうの中学生だったし、高校生だった。

流通科学大(神戸市西区)へ。

「流通科学大学」は、ダイエーグループの創始者、中内功氏により設立された神戸市西区にある大学である。設立は1988年。さて、高校を卒業した梅村氏は、熊本を離れ、のちにホームグランドともなる神戸に向かった。むろん、大学進学のためである。
「流通科学大学は、ダイエーの創業者の中内さんが設立されたんですが、いまの人はあまり知らないみたいですね。それが少し残念です」。もっとも梅村氏自身もなにか目的があったわけではなさそうだ。「受験した大学のなかで、真っ先に合格通知が来たから決めた」と進学の理由を語っている。
大学時代の、ビアホールのバイトが飲食に進むきっかけとなっている。もっとも、飲食に向いていると思ったのは、就職活動で臨んだ、ある化粧品会社の面接時のこと。「面接官にビアホールのバイトのことを聞かれたんです。『どうでしたか?』って、そうしたら、何も考えず、『天職でした』ってポロリと口から、そんな言葉がこぼれ落ちたんです。それで、『そうか、進むならやっぱり飲食だよな』となって」。
ただし、この時、就職はけっしてうまくいなかったようだ。フリーター生活に突入する。

フリーター職。

「フリーターになったのは、バイトが楽しくて、もうこれでいいか、みたいな。正直にいえば、そんな感じだったんです」。フリーターから社員にもなり、25歳で、独立を果たす。ただし、独立と言っても、案外、軽くスタートしている。
「すでに独立して2店舗経営していた先輩が、新たに新店をオープンすることになって。三宮駅から歩いて5分。いい立地なんですが、地下の1・2F。先輩は、地下2Fで店を開きたかったそうなんですが、1Fもセットでないと貸せないと言われたらしく、それで、私にやらないかと声をかけてくれたんです」。
先輩を経由した融資と、知り合いに頼んで貸してもらった合計1000万円でスタートした。「飲食店ではたらいていましたが、開業にどれだけの費用がかかるかなんて知らないんです。だから、最初は1000万円もあれば充分と思っていたんですが。ぜんぜんですね。スケルトンの状態からでしたし」。
節約のため、ペンキはジブンらで塗った。厨房機器も、自ら購入して、取り付けだけお願いした。「今思えば、ラッキーな時代でした。まだ『ぐるなび』『ホットペッパー』の威力が凄かった時代で、『ホットペッパー』に10万円ぶんの広告を掲載すれば、100万円ぶん返ってくるというイメージです。つまり、広告を打てば、どんどん儲かったんですね」。
ロケーションも悪くなかったのだろう。ロケーション×広告の相乗効果だ。社員2人、アルバイト10人。店名は、両親の旅館にちなんで「松の家」とした。
フリーター卒業はもちろん社員まで卒業したが、気分はまだフリーターの延長だった。もっとも、毎月、せっせと返済した。「月商は400~500万円です。ぜんぜん手元に残さず、返済に回しました。広告で反響があったから、苦しまずに済んだ。ただし、毎日、現場に出ていましたから、仕事に追われっぱなしだったのは事実です」。

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2017年1月18日水曜日

ビッグクリエイト株式会社 代表取締役 北浦大作氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ビッグクリエイト株式会社 代表取締役 北浦大作氏登場。
本文より~

大学時代まで。

祖父の代からの事業家である。現在も、実家は兄でもある長男が引き継ぎ、繊維関係の事業を行っている。「私が、起業しようと思ったのは、小学校の頃、社会見学ではじめて父親のはたらく姿を観た時です」。経営者である、父親の姿が、格好良かった。その姿に惹かれたのだという。原点は、そこにある。
北浦氏が生まれたのは、1976年12月23日。出身は、大阪府泉佐野。大阪湾岸の南側に位置する市である。「兄2人の影響で、幼稚園の年長からサッカーをはじめます。小学、中学とクラブ活動をしていました。高校でも続けるつもりだったんですが、『推薦でないと』と暗に断られ、サークルのようなチームを立ち上げ、他校と試合をしたりしていました」。
自らクラブチームを立ち上げるなど、この頃から起業家の片鱗をみせている。大学は、京都の「龍谷大学」に進んだ。もっとも、北浦氏が選択した学科のキャンパスは、滋賀にあった。それもあって、大学4年間は、滋賀で暮らしている。
大学時代は、家庭教師の「トライ」のアルバイトで、月20万円も稼いだそうだ。ただし、家庭教師のバイトではない。営業のバイトだった。北浦氏らしい、選択である。

独立。その始まり。

大学2年、バイトで儲けたお金で、日本を飛び出した。アメリカでの短期留学がスタートする。1ヵ月だが、いい思い出になった。というか、これで海外旅行にハマって、その後も、アメリカ、アジアに旅行している。行動半径が広がると、視野も、心も広がった。
「地球の歩き方」が愛読書となる。ついでに、これがきっかけで、大学3年生の時に「龍谷大学」の広告に登場し、朝日新聞の全国紙の1ページを飾った。「たぶん、実家のどこかにいまもあるはず」と笑う。
ところで、広告のメインビジュアルは2人の学生。男女1人1人で、男性の方が、北浦氏だった。全国紙の1ページともなれば反響も大きい。「就活でも、結構役立ちました」と北浦氏。何でも面接官に「君、広告にでていたね」と言われたこともあるそうだ。それが功を奏したわけではないだろうが、のちに上場する、株式会社「日本リロケーション(現株式会社リロクラブ)」に就職することができた。
「経営者を100人つくると謳っていて、そこに惹かれて、入社したんです」。在籍したのは1年半。短い間だったが、「経営」「起業」という言葉に、からだが反応するようにはなっていた。
「同期に誘われて、独立しようと思ったんです。今思えば、安易な発想でした。業種は、ズバリ飲食です。彼が、先に会社を辞めて、調理を学ぶなど、準備をしてくれていたんです。ところが、私が辞表を出した、まさにその日に、彼から『オレ、飲食で起業するのを辞めるわ』って連絡が入ったんです(笑)」。
梯子を外された格好だ。宙ぶらりん。しかし、すでに行動に移してしまっていた。「それで、すぐには独立できないな、と思って、外食の経営の勉強をするためにプライム・リンクに転職したんです」。
当時は、「プライム・リンク」は絶好調だったそうだ。1999年だから、「牛角」のエリアフランチャイズ本部の権利を取得し、エリアフランチャイズ本部事業展開を開始した頃である。
5年半、勤めた。

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2017年1月10日火曜日

株式会社ダイニングファクトリー 代表取締役社長 人見洋二郎氏

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイニングファクトリー 代表取締役社長 人見洋二郎氏登場。
本文より~

未来への助走期間

今回、ご登場いただいたのは株式会社ダイニングファクトリーの代表取締役社長、人見洋二郎氏である。人見氏が生まれたのは1977年2月18日。父親はいるが、めったに現れない。直接、会った回数もそう多くはなかったらしい。「初めてあった時に『おまえが、洋二郎氏か』って言われたのを覚えている」と笑う。「父親は、水戸で有名な建築会社の社長で、市議会議員もしていたそうです」。
だから、人見家は、いつも母と、2つ離れた兄と人見氏の3人だった。「兄貴とは昔から仲がいいほうです。もっとも性格は反対で、兄は大人しいんですが、私のほうは中学からグレてしまって」。
中学生の時からバイトにも精をだした。だから、学校に通う時間がない。教師が「この日だけでは」という日だけ、仕方なく教室に向かったそうだ。
ところで、どんなバイトをしていたんだろう。
「だいたいは土方ですね。ガソリンスタンドでもはたらきました。高校に行くつもりはさらさらなかったですね。でも、就職もせずに中学を卒業してもバイトばかりしていました」。
バイト先ではリーダーシップを発揮しこの時期から仕事に対する資質がうかがえる。勉強よりも仕事、しかし暗中模索の日々が18歳まで続く.....

99の案を消去して、残った一つの目標。

「18歳から宇都宮で暮らします。そうですね。当時は『10代は、死ぬほど遊んで、20代は、死ぬほど真面目に仕事をしよう』というのが、ポリシーみたいなもんでした。最初に遊ぶほうですからね。20代になっても、いろいろツケが残りました(笑)」。
ホームページをみると、1992年3月に茨城県水戸市立笠原中学校卒業とあり、1992年4月からアルバイト生活がスタート。1996年4月に、株式会社KKレジャーオフィスという会社に入社している。20代、一歩手前の19歳の時だ。「キャバクラです。こちらで4年、仕事をしました」。
ハードワークなうえ、ルールも厳格だったそうである。音を上げることはなかったが、からだも、心も休まる時はなかった。しかし、この4年間は、萌芽の時期でもあった。
「この頃です。ともだち4人で、いつも『面白いことをやろうぜ』って言ってたんです。いうだけじゃなく、100個、面白いことを紙に書いて、それを消していくと、『一流の会社をつくる』っていうのが残ったんです。いちばん難しそうだけれど、いちばん面白そうだ、っていうことで」。
「一流の会社」。その定義はなんだろう。23歳、その答えを知りたくて、人見氏は、ある上場会社に就職する。

中卒、大卒と机をならべ、善戦する。

就職したのは、2000年の7月。「意欲はあったと思いますが、中卒でしょ。上場企業に相手にしてもらえるはずがありません。でも、30社受けて、1社だけOKをくれたんです。それが、現在は、飯田グループHDとなっている、飯田産業という会社でした」。
周りは大卒ばかりである。「そうですね。もう23歳なんで年齢はかわらないんですが(笑)」。社会人としては、先輩だとしても、それで尊敬されることはない。しかし、大卒たちとは、仕事に対する覚悟が違っていたのは、事実である。
「そうですね。私にとってはハードでもなんでもなかったんですが、周りの人は、たいへんだ、とぼやいていました」。たしかに、簡単でもなければ、楽ちんな仕事でもなかったはずだ。
しかし、そこはやはり、経験と覚悟の違いなのだろう。人見氏は、1年目から早くも頭角を現す。1年目の年収は、同期のなかでもトップクラスで、500万円だったそうである。
同期のなかには、「学歴は、モノを言わない」と悟った人も少なからずいたことだろう。中卒と大卒。その違いは、肩書ではなく、それまで何をして、何を考えきたか、実際、それに尽きる気がする。その後も人見氏は、業績を残しつづけ、同期より早く出世もする。27歳で、課長職に就いた。
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2017年1月5日木曜日

株式会社太昌園 代表取締役 長岡信裕氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社太昌園 代表取締役 長岡信裕氏登場。
本文より~

1歳の時、父・正宗が焼肉レストラン「太昌園」オープン。

長岡氏は、昭和37年9月15日、生まれ。東京の上野出身である。小学校の頃は、不忍池でザリガニを取って遊んだりしていたそうだ。兄弟は4名。長岡氏は、長男。長男の長岡氏が、1歳の時、焼肉レストラン「太昌園」がオープンする。
「父が創業者です。オープンしたのは、私が1歳の昭和38年です。まだ、飲食店が少ない時代ですから、ディナー以降で3回転も、4回転もしていたそうです」。
母も父といっしょに店を手伝っていた。長男の長岡氏には、弟、妹たちの世話も託されていたに違いない。「お手伝いさんがきてくれたこともありましたね」と長岡氏。
ともあれ、お店は、毎日順調に推移していた。
「家族みんなで外食する事もよくありました。もっとも私ら子どもたちにも大事なミッションがあって。食べ終わると、『どんな味だった?』と聞かれるわけです。つまり、子どもらを連れていくのは、私たち子どもの意見を聞きたかったからなんです。それがわかっているから、私も、ああだこうだ、と評論していた気がします」。
小学校では、野球をやり、中学ではブラバン。高校ではバンドを組んで、ドラムを叩いた。校則が厳しく、髪も思ったように伸ばせなかったが、それでも、充分に楽しかった。

もっともたのしかった、学生時代。

「そうですね。今振り返って、いちばん楽しかったのは、大学生の時ですね」。長岡氏は、高校から明大中野に進み、明治大学に進学している。
「高校時代は、バンドをやっていたわけですが、海が好きだったものですから、大学では海洋スポーツを考えていました」。サーフィンとかいろいろあるなかで、チョイスしたのはスキューバダイビングだった。
「当時、明治大学にはスキューバダイビングクラブというのがあって、私もそちらに所属しました。練習は、プールで行いますが、海洋トレーニングは、伊豆がホームグラウンドでした。長期の休みには、沖縄などへ遠征です。といっても貧乏学生ですから、向こうに行って、水中ガイドやライセンス講習のアルバイトをしながら潜っていました」。「1年中、真っ黒だった」、という。大学4年時には、インストラクターの資格も取得する。「このまま海の仕事に就こうか」とふと頭を過ったこともあるそうだ。

マクドナルド、入社。

大学を卒業後、長岡氏は、「日本マクドナルド」に入社する。
「一度は、海の仕事とも思ったんですが、やっぱり、何不自由なく育ててもらっておいてそれはないだろう、と。長男でしたし。そういうこともあって、飲食のノウハウを勉強するために、当時、飲食でナンバーワンだった日本マクドナルドに就職したんです」。
当時は、日本マクドナルドの社史のなかでも、絶頂期と言われる時代である。新卒採用は400名にのぼった。むろん、長岡氏もそのうちの1人である。
「配属は、自宅から近くの店でした。当時は、そういう決まりがあったんです。それから2年、日本マクドナルドにお世話になります。幸い、成績も良かったし、勉強にも無論なりましたから、私としては、もう少しいたかったんですが、2年くらい経った時に、父から内部事情が色々あり、『戻ってくるように』と言われたんです」。
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株式会社太昌園 代表取締役 長岡信裕氏
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神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏登場。
本文より~

父は腕のいい寿司職人。

黒須氏は、1964年1月10日、新潟市に生まれる。3歳下の妹との2人兄妹。
「小学校の頃は好き放題です。勉強なんてしたことがない。両親も忙しかったから何も言いませんでした」。
黒須氏の父親はもと塗装工。塗装工から転職し、黒須氏が生まれた頃にはすでに寿司店を経営される腕のいい寿司職人だった。
「最初は、駅前にあるカウンター数席と小上がり一つの小さなお店でした。それから私が小学3年生の時に駅裏に店舗兼自宅を構え、店も大きくなりました」。
「中学は水泳部でした。受験の進路指導では、中学の先生から父親の家業を継ぐんだろとハナからサジを投げられた格好でした」。
小学校でも、中学でも、高校でも、好き放題。バイクにも早くから乗った。
「友だちのバイクに乗って、帰ってきたのを親父がみて、『人さまのモノを傷つけるわけにはいかない』とバイク屋に連れていかれました」。
バイク店に行って言われた一言は、「好きなものを選べ」だった。しかも、250CCのバイクを選ぶと、「どうせ買うなら400CCだ」と、結局、400CCのバイクを購入することになった。
豪快な父親である。
「あの頃はもうかっていたんでしょうね。支払いは、なんでもキャッシュです。サラブレッドを2頭持っていました」。
サラブレッドとは、豪気な道楽だ。地方競馬だが、優勝経験もあり、愛馬といっしょに映った写真は長く実家に飾られていたそうだ。

やんちゃで、素直な少年。

「馬主になったのはいいんですが、ああいうのになると、いろんな付き合いができるんですね。うちの店は、住宅街にあったもんですから、ご近所さんにも良く利用いただいていたんです。しかし、馬主になってから友好関係が広がると、いつの間にか店の前に黒塗りのベンツが止まるようになって、常連さんが来られなくなってしまったんです。その結果、一時期、出前専門店に衣替えし、馬も、泣く泣く売ったそうです(笑)」。
ところで、父親の豪快さは、黒須氏も引き継いでいる。バイクは、通学用の50CC1台と、400CCが2台。「車は、35台乗り換えた」という黒須氏だが、その片鱗は高校時代にもうかがえる。
「高校の時は、単位がぜんぜん足りなくて。それでも、部活に入るなら『単位を保証してくれる』というので、相撲を始めました」。
相撲と聞いて、思わず唸った。格闘技のなかでも、かなり高度な部類に入る。そう簡単に巧くなるわけもない。
「まぁ、そこは、気合いです(笑)」。
黒須氏の話からは、バイクを乗り回すやんちゃな高校生をイメージしがちだが、「単位をくれるから」と、相撲部入りするなど、素直さも伺える。
ところで、黒須氏と料理、その源流はどこにあるんだろう。
「もともと親父が寿司職人だったことも大きいと思いますし、春・夏・冬と、旅行に行っては、旅館やホテルでいちばんの料理を食べさせてくれていたのも、今思えば、私の、料理の源流のような気がします。毎週、月曜日が定休日だったんですが、その日も、いつも外食でした」。
「父親から料理について教わったことはない」と黒須氏はいうが、案外、英才教育をされていたのかもしれない。
そういう意味では父親は早くから、黒須氏を料理人に仕立てようと思っていたのかもしれない。実際、黒須氏は、いくつかの大学から推薦をもらっていたそうだが、父親に反対され、結局、父親が勧める調理師学校に進んでいる。
「大学の金はださない。調理師学校ならだす、といわれて、それで初めて上京し、武蔵野調理師学校に進学したんです」。
この学校でも伝説を残している。「まだ2ヵ月くらいですか。父と母と一緒に学長さんから呼び出され、『いま辞めてくれたら、異例だが、入学金はもちろん、いままでかかったお金をぜんぶ返す』と言われました(笑)」。
なぜ、そうなったんだろう。
「まぁ、私自身は、高校時代とかわらないことをしていたんですが、みんな親元から離れているでしょ。心細いこともあって、リアクションがオーバーになっちゃったんじゃないですか」。
手を付けられない生徒。
だが、「授業は真面目に受けた」とこれは本人談である。
辞めろと言われたが、なんとか残って卒業した。「退学しても、何もすることがなかったから」というのが、本音らしい。
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神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏
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