2017年1月5日木曜日

神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏登場。
本文より~

父は腕のいい寿司職人。

黒須氏は、1964年1月10日、新潟市に生まれる。3歳下の妹との2人兄妹。
「小学校の頃は好き放題です。勉強なんてしたことがない。両親も忙しかったから何も言いませんでした」。
黒須氏の父親はもと塗装工。塗装工から転職し、黒須氏が生まれた頃にはすでに寿司店を経営される腕のいい寿司職人だった。
「最初は、駅前にあるカウンター数席と小上がり一つの小さなお店でした。それから私が小学3年生の時に駅裏に店舗兼自宅を構え、店も大きくなりました」。
「中学は水泳部でした。受験の進路指導では、中学の先生から父親の家業を継ぐんだろとハナからサジを投げられた格好でした」。
小学校でも、中学でも、高校でも、好き放題。バイクにも早くから乗った。
「友だちのバイクに乗って、帰ってきたのを親父がみて、『人さまのモノを傷つけるわけにはいかない』とバイク屋に連れていかれました」。
バイク店に行って言われた一言は、「好きなものを選べ」だった。しかも、250CCのバイクを選ぶと、「どうせ買うなら400CCだ」と、結局、400CCのバイクを購入することになった。
豪快な父親である。
「あの頃はもうかっていたんでしょうね。支払いは、なんでもキャッシュです。サラブレッドを2頭持っていました」。
サラブレッドとは、豪気な道楽だ。地方競馬だが、優勝経験もあり、愛馬といっしょに映った写真は長く実家に飾られていたそうだ。

やんちゃで、素直な少年。

「馬主になったのはいいんですが、ああいうのになると、いろんな付き合いができるんですね。うちの店は、住宅街にあったもんですから、ご近所さんにも良く利用いただいていたんです。しかし、馬主になってから友好関係が広がると、いつの間にか店の前に黒塗りのベンツが止まるようになって、常連さんが来られなくなってしまったんです。その結果、一時期、出前専門店に衣替えし、馬も、泣く泣く売ったそうです(笑)」。
ところで、父親の豪快さは、黒須氏も引き継いでいる。バイクは、通学用の50CC1台と、400CCが2台。「車は、35台乗り換えた」という黒須氏だが、その片鱗は高校時代にもうかがえる。
「高校の時は、単位がぜんぜん足りなくて。それでも、部活に入るなら『単位を保証してくれる』というので、相撲を始めました」。
相撲と聞いて、思わず唸った。格闘技のなかでも、かなり高度な部類に入る。そう簡単に巧くなるわけもない。
「まぁ、そこは、気合いです(笑)」。
黒須氏の話からは、バイクを乗り回すやんちゃな高校生をイメージしがちだが、「単位をくれるから」と、相撲部入りするなど、素直さも伺える。
ところで、黒須氏と料理、その源流はどこにあるんだろう。
「もともと親父が寿司職人だったことも大きいと思いますし、春・夏・冬と、旅行に行っては、旅館やホテルでいちばんの料理を食べさせてくれていたのも、今思えば、私の、料理の源流のような気がします。毎週、月曜日が定休日だったんですが、その日も、いつも外食でした」。
「父親から料理について教わったことはない」と黒須氏はいうが、案外、英才教育をされていたのかもしれない。
そういう意味では父親は早くから、黒須氏を料理人に仕立てようと思っていたのかもしれない。実際、黒須氏は、いくつかの大学から推薦をもらっていたそうだが、父親に反対され、結局、父親が勧める調理師学校に進んでいる。
「大学の金はださない。調理師学校ならだす、といわれて、それで初めて上京し、武蔵野調理師学校に進学したんです」。
この学校でも伝説を残している。「まだ2ヵ月くらいですか。父と母と一緒に学長さんから呼び出され、『いま辞めてくれたら、異例だが、入学金はもちろん、いままでかかったお金をぜんぶ返す』と言われました(笑)」。
なぜ、そうなったんだろう。
「まぁ、私自身は、高校時代とかわらないことをしていたんですが、みんな親元から離れているでしょ。心細いこともあって、リアクションがオーバーになっちゃったんじゃないですか」。
手を付けられない生徒。
だが、「授業は真面目に受けた」とこれは本人談である。
辞めろと言われたが、なんとか残って卒業した。「退学しても、何もすることがなかったから」というのが、本音らしい。
・・・続き
神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏
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