本文より~
1歳の時、父・正宗が焼肉レストラン「太昌園」オープン。
長岡氏は、昭和37年9月15日、生まれ。東京の上野出身である。小学校の頃は、不忍池でザリガニを取って遊んだりしていたそうだ。兄弟は4名。長岡氏は、長男。長男の長岡氏が、1歳の時、焼肉レストラン「太昌園」がオープンする。
「父が創業者です。オープンしたのは、私が1歳の昭和38年です。まだ、飲食店が少ない時代ですから、ディナー以降で3回転も、4回転もしていたそうです」。
母も父といっしょに店を手伝っていた。長男の長岡氏には、弟、妹たちの世話も託されていたに違いない。「お手伝いさんがきてくれたこともありましたね」と長岡氏。
ともあれ、お店は、毎日順調に推移していた。
「家族みんなで外食する事もよくありました。もっとも私ら子どもたちにも大事なミッションがあって。食べ終わると、『どんな味だった?』と聞かれるわけです。つまり、子どもらを連れていくのは、私たち子どもの意見を聞きたかったからなんです。それがわかっているから、私も、ああだこうだ、と評論していた気がします」。
小学校では、野球をやり、中学ではブラバン。高校ではバンドを組んで、ドラムを叩いた。校則が厳しく、髪も思ったように伸ばせなかったが、それでも、充分に楽しかった。
「父が創業者です。オープンしたのは、私が1歳の昭和38年です。まだ、飲食店が少ない時代ですから、ディナー以降で3回転も、4回転もしていたそうです」。
母も父といっしょに店を手伝っていた。長男の長岡氏には、弟、妹たちの世話も託されていたに違いない。「お手伝いさんがきてくれたこともありましたね」と長岡氏。
ともあれ、お店は、毎日順調に推移していた。
「家族みんなで外食する事もよくありました。もっとも私ら子どもたちにも大事なミッションがあって。食べ終わると、『どんな味だった?』と聞かれるわけです。つまり、子どもらを連れていくのは、私たち子どもの意見を聞きたかったからなんです。それがわかっているから、私も、ああだこうだ、と評論していた気がします」。
小学校では、野球をやり、中学ではブラバン。高校ではバンドを組んで、ドラムを叩いた。校則が厳しく、髪も思ったように伸ばせなかったが、それでも、充分に楽しかった。
もっともたのしかった、学生時代。
「そうですね。今振り返って、いちばん楽しかったのは、大学生の時ですね」。長岡氏は、高校から明大中野に進み、明治大学に進学している。
「高校時代は、バンドをやっていたわけですが、海が好きだったものですから、大学では海洋スポーツを考えていました」。サーフィンとかいろいろあるなかで、チョイスしたのはスキューバダイビングだった。
「当時、明治大学にはスキューバダイビングクラブというのがあって、私もそちらに所属しました。練習は、プールで行いますが、海洋トレーニングは、伊豆がホームグラウンドでした。長期の休みには、沖縄などへ遠征です。といっても貧乏学生ですから、向こうに行って、水中ガイドやライセンス講習のアルバイトをしながら潜っていました」。「1年中、真っ黒だった」、という。大学4年時には、インストラクターの資格も取得する。「このまま海の仕事に就こうか」とふと頭を過ったこともあるそうだ。
「高校時代は、バンドをやっていたわけですが、海が好きだったものですから、大学では海洋スポーツを考えていました」。サーフィンとかいろいろあるなかで、チョイスしたのはスキューバダイビングだった。
「当時、明治大学にはスキューバダイビングクラブというのがあって、私もそちらに所属しました。練習は、プールで行いますが、海洋トレーニングは、伊豆がホームグラウンドでした。長期の休みには、沖縄などへ遠征です。といっても貧乏学生ですから、向こうに行って、水中ガイドやライセンス講習のアルバイトをしながら潜っていました」。「1年中、真っ黒だった」、という。大学4年時には、インストラクターの資格も取得する。「このまま海の仕事に就こうか」とふと頭を過ったこともあるそうだ。
マクドナルド、入社。
大学を卒業後、長岡氏は、「日本マクドナルド」に入社する。
「一度は、海の仕事とも思ったんですが、やっぱり、何不自由なく育ててもらっておいてそれはないだろう、と。長男でしたし。そういうこともあって、飲食のノウハウを勉強するために、当時、飲食でナンバーワンだった日本マクドナルドに就職したんです」。
当時は、日本マクドナルドの社史のなかでも、絶頂期と言われる時代である。新卒採用は400名にのぼった。むろん、長岡氏もそのうちの1人である。
「配属は、自宅から近くの店でした。当時は、そういう決まりがあったんです。それから2年、日本マクドナルドにお世話になります。幸い、成績も良かったし、勉強にも無論なりましたから、私としては、もう少しいたかったんですが、2年くらい経った時に、父から内部事情が色々あり、『戻ってくるように』と言われたんです」。
「一度は、海の仕事とも思ったんですが、やっぱり、何不自由なく育ててもらっておいてそれはないだろう、と。長男でしたし。そういうこともあって、飲食のノウハウを勉強するために、当時、飲食でナンバーワンだった日本マクドナルドに就職したんです」。
当時は、日本マクドナルドの社史のなかでも、絶頂期と言われる時代である。新卒採用は400名にのぼった。むろん、長岡氏もそのうちの1人である。
「配属は、自宅から近くの店でした。当時は、そういう決まりがあったんです。それから2年、日本マクドナルドにお世話になります。幸い、成績も良かったし、勉強にも無論なりましたから、私としては、もう少しいたかったんですが、2年くらい経った時に、父から内部事情が色々あり、『戻ってくるように』と言われたんです」。
・・・続き
株式会社太昌園 代表取締役 長岡信裕氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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