本文より~
仲間と別れ、改心するために、向かった四国。
中山氏が香川県で生まれたのは、まだ父親が修業中のことだった。
「讃岐ですから、うどんの修業です。私が5歳の時に、父の実家があった茨城県結城郡に引っ越し、念願の店をオープンします。そうですね。かなり大きなお店でした。バブルが終わったあとですが、それなりに儲かっていたように記憶しています」。
中山氏は3人兄弟の次男で、兄と妹がいる。「兄は結構マジメだったんですが、私は中学の頃から周りにもたくさん悪友がいて、学校にもあまり行かない悪ガキでした」。
両親は仕事でいそがしい。中学の頃から早くも親離れである。しかし、いつまでも周りの悪友と付き合っているのも、性に合わなかったそうだ。
「だいたい人からとやかく命令されるのがイヤな性格なんです。にもかかわらず、周りの奴らといっしょにいると、だんだん先輩たちがいろんなことを指図するようになってきて、組織を抜け出そうと思ったんです。ですが、ご想像通り、縁を切りたくても、そうは簡単にはいきません(笑)」。
ヤキの一つでは済みそうもなかった。
「それで、逃げ出したんです」。
逃亡先は、四国。
「逃げ出したもう一つの理由は母親です。母は、私がどんなことをしても、陰であの子は『いい子なんだ』と、私をかばいつづけてくれていたんです。そんな思いをさせるのが、もう苦しくなって。だから、改心する意味もあったんです」。
父は、修業のために瀬戸内海を渡った。息子も、また、目的は違うが、そのあとを追った。
「讃岐ですから、うどんの修業です。私が5歳の時に、父の実家があった茨城県結城郡に引っ越し、念願の店をオープンします。そうですね。かなり大きなお店でした。バブルが終わったあとですが、それなりに儲かっていたように記憶しています」。
中山氏は3人兄弟の次男で、兄と妹がいる。「兄は結構マジメだったんですが、私は中学の頃から周りにもたくさん悪友がいて、学校にもあまり行かない悪ガキでした」。
両親は仕事でいそがしい。中学の頃から早くも親離れである。しかし、いつまでも周りの悪友と付き合っているのも、性に合わなかったそうだ。
「だいたい人からとやかく命令されるのがイヤな性格なんです。にもかかわらず、周りの奴らといっしょにいると、だんだん先輩たちがいろんなことを指図するようになってきて、組織を抜け出そうと思ったんです。ですが、ご想像通り、縁を切りたくても、そうは簡単にはいきません(笑)」。
ヤキの一つでは済みそうもなかった。
「それで、逃げ出したんです」。
逃亡先は、四国。
「逃げ出したもう一つの理由は母親です。母は、私がどんなことをしても、陰であの子は『いい子なんだ』と、私をかばいつづけてくれていたんです。そんな思いをさせるのが、もう苦しくなって。だから、改心する意味もあったんです」。
父は、修業のために瀬戸内海を渡った。息子も、また、目的は違うが、そのあとを追った。
逃亡先でみつけた、音楽の魅力。
「四国では、母の知り合いの店ではたらかせてもらったんですが、逃げ癖がついていたんでしょうね。最初は、『はたらいては、辞める』の繰り返しです。ぐーたらが染みついていたのかもしれません」。
初めての社会である。きびしいことにも、理不尽なことにも慣れなければならない。「指示」という「命令」も、当然ある。それでも、母の知り合いのラーメン店からスタートし、会社は替ったりしたが、ともかく2年間、四国で暮らした。
「四国で暮らしてから、独り暮らしのわびしさっていうんでしょうか。それを紛らわせるためもあって、音楽に傾倒していきます。好きだったのは、XJAPANです。だんだん、音楽に対する思いが膨らみ、今度は東京にある音楽の専門学校に進みました」。
もともと音楽が好きだったわけではないらしい。楽器の経験があったわけでもないそうだ。にもかかわらず「専門学校」に進む選択をする。それなりの自信があれば別だが、かなり勇気もいり選択ではなかったか。
「ちょうど18歳の頃ですね。学校に通いながら、バンドも組んでいました。音楽活動一本です」。
実は、中山氏は専門学校も途中で辞めている。だが、今度は逃げるためではなかった。むしろ、アーティストになるために、進んで「専門学生」という肩書を捨てたと表現したほうがただしい。
「私は学校も辞めて『デビューにまっしぐら』と思っていたんです。メンバーたちと温度差があったのは事実です。彼らは、趣味のレベルを少し超えたくらいだったんです。彼らは、だんだんかけていきます。年齢も、もう25歳くらいの人もいましたから、仕方ないといえば仕方ないですよね。現実と向き合う、そういう選択を迫られていたわけですから」。
理屈ではわかっても、心では理解できないこともある。「結局、2年くらいで私自身ギターを置くようになりました。それ以上、バンドをつづけることができなかったからです」。
初めての社会である。きびしいことにも、理不尽なことにも慣れなければならない。「指示」という「命令」も、当然ある。それでも、母の知り合いのラーメン店からスタートし、会社は替ったりしたが、ともかく2年間、四国で暮らした。
「四国で暮らしてから、独り暮らしのわびしさっていうんでしょうか。それを紛らわせるためもあって、音楽に傾倒していきます。好きだったのは、XJAPANです。だんだん、音楽に対する思いが膨らみ、今度は東京にある音楽の専門学校に進みました」。
もともと音楽が好きだったわけではないらしい。楽器の経験があったわけでもないそうだ。にもかかわらず「専門学校」に進む選択をする。それなりの自信があれば別だが、かなり勇気もいり選択ではなかったか。
「ちょうど18歳の頃ですね。学校に通いながら、バンドも組んでいました。音楽活動一本です」。
実は、中山氏は専門学校も途中で辞めている。だが、今度は逃げるためではなかった。むしろ、アーティストになるために、進んで「専門学生」という肩書を捨てたと表現したほうがただしい。
「私は学校も辞めて『デビューにまっしぐら』と思っていたんです。メンバーたちと温度差があったのは事実です。彼らは、趣味のレベルを少し超えたくらいだったんです。彼らは、だんだんかけていきます。年齢も、もう25歳くらいの人もいましたから、仕方ないといえば仕方ないですよね。現実と向き合う、そういう選択を迫られていたわけですから」。
理屈ではわかっても、心では理解できないこともある。「結局、2年くらいで私自身ギターを置くようになりました。それ以上、バンドをつづけることができなかったからです」。
なくした指標とみつけた志。
バンドを組んで、メジャーになる。人生の羅針盤は、その方向に向いていた。しかし、メンバーがかけていくこともあって、いつしか、その思いへの磁力がなくなった。
「バンド活動は、週2~3日。結構、マジメにやっていました。もちろん、バンドだけでは生活できません。当時、勤務していたのは、貿易会社の社長が趣味と言っては怒られるかもしれませんが、片手間で経営していた居酒屋です。だから、好きなことをさせてもらえました」。
もともと飲食を仕事にすることに抵抗はない。逃亡先の四国でも飲食の仕事をしていただけに、即戦力になれるくらいの自負もあった。
「もっとも最初は、バンドがメインで、こちらも片手間のアルバイトです。その店でアルバイトを始めたのは、バイトなのに寮までついていたからです。ま、代わりにバイトでも週5日は入らなければいけなかったんですが(笑)」。
最初は、たしかにバンド優先だった。しかし、バンドへの思いがなくなってからは、飲食が第一になった。いい店長に出会えたことも大きかった。
「当時の店長が経営のことが好きで、いっしょに株主総会とかに連れて行ってくれたり、『ビジネス本を読め』ってハッパをかけてくれたりして。あの頃は、レコード会社をつくるつもりだったもんですから、私自身、前向きに勉強しました。言い方をかえれば、そのおかげでレコード会社はつくれませんでしたが、飲食会社はつくることができました」。
バンドを辞めて、みつけた志。それは「独立」という二文字に凝縮される。
「バンド活動は、週2~3日。結構、マジメにやっていました。もちろん、バンドだけでは生活できません。当時、勤務していたのは、貿易会社の社長が趣味と言っては怒られるかもしれませんが、片手間で経営していた居酒屋です。だから、好きなことをさせてもらえました」。
もともと飲食を仕事にすることに抵抗はない。逃亡先の四国でも飲食の仕事をしていただけに、即戦力になれるくらいの自負もあった。
「もっとも最初は、バンドがメインで、こちらも片手間のアルバイトです。その店でアルバイトを始めたのは、バイトなのに寮までついていたからです。ま、代わりにバイトでも週5日は入らなければいけなかったんですが(笑)」。
最初は、たしかにバンド優先だった。しかし、バンドへの思いがなくなってからは、飲食が第一になった。いい店長に出会えたことも大きかった。
「当時の店長が経営のことが好きで、いっしょに株主総会とかに連れて行ってくれたり、『ビジネス本を読め』ってハッパをかけてくれたりして。あの頃は、レコード会社をつくるつもりだったもんですから、私自身、前向きに勉強しました。言い方をかえれば、そのおかげでレコード会社はつくれませんでしたが、飲食会社はつくることができました」。
バンドを辞めて、みつけた志。それは「独立」という二文字に凝縮される。
・・・続き
株式会社SSS(スリーエス)代表取締役 中山俊士氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)