2017年2月7日火曜日

有限会社アール.アンド.ビー守破離 代表取締役 増田 昭氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社アール.アンド.ビー守破離 代表取締役 増田 昭氏登場。
本文より~

両親の焼鳥屋さん。

「日本でいちばん給与が高い会社を作る」とスタッフにとっても嬉しい目標を掲げるのが、今回ご登場いただいた、有限会社「R&B守破離」の増田昭社長である。同社の看板メニューの「ローストビーフ丼」は、TVでも何度となく取り上げられているので、ご存じの方も少なくないはずだ。
 増田氏が生まれたのは、1958年。兵庫県の神戸市出身である。
「父は淡路出身で、母は高知出身です。父と母は、2人で屋台の焼鳥屋をしていました。小学校の頃は、好き放題。勉強もあまりした記憶がありません(笑)」。
ご両親の屋台は繁盛していたようで、屋台も2連結だったそうである。増田氏が、好き勝手できたのも、ご両親の目が、忙しい仕事に向けられていたからだろう。
ともかく昔の少年は、増田氏に限ったことではなく、ともかく奔放だった。TVゲームの代わりに、メンコやビー玉で遊んだ時代である。増田氏も、その1人だったに違いない。
 「中学でハンドボール部に入りました。ほんとは野球部とかが良かったんですが、何分、グランドが狭くって、そういう部活がなかったんです。でも、ハンドボールをやったのは正解でした。高校も、スポーツ推薦で、進むことができましたから」。
 高校時代には、ハンドボールでインターハイにも出場している。増田少年は、ともかく運動神経、抜群の少年だった。

息子は、焼鳥BAR。


「高校を卒業してからは、知人の紹介で東京にも行きました。遊び半分でしたが、和食の店に住み込んで1年半くらいは向こうにいました」。
増田氏は、「面白かった」と表現するが、住み込みに逃げ道はない。給料は安く、それでいて長時間労働が当たり前の時代の話である。
 「1年半くらいで神戸に戻ってきます。家の手伝いも少しはしました」。
実は、増田氏。1度だけ、サラリーマンの経験がある。「この時、知り合いに頼まれて、創業してすぐの会社に就職しました」。
着慣れぬスーツ、カッターシャツにネクタイをまき、革靴を履いた。
しかし、3日で、断念したそうだ。
「いやぁ、ぜんぜんあきませんでした。向いてないって思って、それで3日目に『辞めます』っていったんです」。
 「相性が悪かった」と増田氏。親和性という意味では、やはり飲食だったのだろう。
「両親が飲食店だったことも影響していると思いますが、私自身が昔から、『好き』だったんだと思います。起業しようと思い立って、最終的に独立したのは、私が25歳の時です」。
9坪で20席くらいの「焼鳥BAR」だった。

・・・続き

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