本文より~
「ホテルニューオータニ」に入社するまで。
「会社を立て直してくれ」の一言で、ネオ・エモーションと桑田氏の付き合いは始まる。「お世話になっていた現石橋会長の言葉ですから無碍にはできません。まずは取締役任期でという約束で、現在1年経ったところです」。
桑田氏が1年といったのは、2016年4月のことである。
桑田氏は1963年東京都葛飾区に生まれる。3人兄弟の長男。
「父は高校の教師で、予備校でも国語を教えていました。母は保育士。どちらも教育関係です。だからでしょう。教育にはかなり熱心でした。私も小学3年生から塾通いです。当時、塾に通っているような子はそういませんでした」。
「私が中学2年の時、妹の受験の関係で北千住に引越しました。それまで暮らしていたのは清瀬市です。当時は、すごい田舎でした。登校途中に鶏舎・牛舎があったくらいですから(笑)」。
北千住に引越した時には、カルチャーショックを受けたそうだ。都会はすごい。対照的に清瀬市が益々、田舎に思えたに違いない。
桑田氏は中学からバスケットボールを始めている。一方、猛勉強も開始し、見事、「立教高校」に進学。高校でも好きなバスケットボールに熱中した。
「大学は、社会学部観光学科に進学します。その一方で、かつて通った清瀬中で、女子バスケット部のコーチとしてデビューします」。
朝夕、練習に参加し、土日には試合を指揮した。女子生徒たちからは、鬼コーチとして怖れられたそうだ。
空いた時間を利用して、父親が経営する塾や友人の勤めるファミリーレストランでバイトもした。
「ファミリーレストランでのバイトが引き金です。漠然とですが、外食をやりたいと思うようになり、大学卒業後、『ホテルニューオータニ』に就職しました。もっとも叔母のコネ入社です(笑)」。
桑田氏が1年といったのは、2016年4月のことである。
桑田氏は1963年東京都葛飾区に生まれる。3人兄弟の長男。
「父は高校の教師で、予備校でも国語を教えていました。母は保育士。どちらも教育関係です。だからでしょう。教育にはかなり熱心でした。私も小学3年生から塾通いです。当時、塾に通っているような子はそういませんでした」。
「私が中学2年の時、妹の受験の関係で北千住に引越しました。それまで暮らしていたのは清瀬市です。当時は、すごい田舎でした。登校途中に鶏舎・牛舎があったくらいですから(笑)」。
北千住に引越した時には、カルチャーショックを受けたそうだ。都会はすごい。対照的に清瀬市が益々、田舎に思えたに違いない。
桑田氏は中学からバスケットボールを始めている。一方、猛勉強も開始し、見事、「立教高校」に進学。高校でも好きなバスケットボールに熱中した。
「大学は、社会学部観光学科に進学します。その一方で、かつて通った清瀬中で、女子バスケット部のコーチとしてデビューします」。
朝夕、練習に参加し、土日には試合を指揮した。女子生徒たちからは、鬼コーチとして怖れられたそうだ。
空いた時間を利用して、父親が経営する塾や友人の勤めるファミリーレストランでバイトもした。
「ファミリーレストランでのバイトが引き金です。漠然とですが、外食をやりたいと思うようになり、大学卒業後、『ホテルニューオータニ』に就職しました。もっとも叔母のコネ入社です(笑)」。
ホテル、調理師学校、イタリアレストラン…、旅が始まる。
当時、「ホテルニューオータニ」では入社から3年間のジョブローテーションがあり、4年目に行きたい部署を選択する制度が敷かれていたそうだ。研修制度も様々なものが用意されていたようで、桑田氏がチャレンジした海外研修もその一つである。
「社内で開催される英語のスピーチコンテストで、いい成績を残すとスイスのローザンヌ学校のサマースクールに行かせてもらえたんです。当時、私たちのなかでは最高峰の学校です」。
「何が何でも、と頑張った結果、選んではいただけたんですが、いかんせん実務経験が足りずに入学できませんでした(笑)。さすがに、かわいそうだってことになって、代わりにサンフランシスコのホテルで研修させていただきました」。
「『ホテルニューオータニ大阪』に転勤が決まったのは、その後」と桑田氏。この転勤が、人生の大きなターニングポイントになった。
「『ホテルニューオータニ大阪』では勤務も楽しく、学べることも多かったのですが、もっと勉強したいと欲がでて、辻調理師専門学校に勤める大学の先輩に相談したんです。その際、山縣副校長先生と出会いました。『ホテルニューオータニ大阪』に転勤していないと、山縣先生にお会いすることもなかったと思います。そういう意味でも、この転勤は一つの転機でした」。
面接で「学ぶのではなく、教えてみてはどうだ」。つまり、「生徒ではなく、講師をしてみろ」、とアドバイスされたそうだ。
「それで実は、大阪辻調理師専門学校で9年間、生徒を教えているんです。生活が安定したこともあって、37歳、2000年の2月に結婚。しかし、その翌月に辻調を退職します」。
結婚して、すぐに退社。奥様から見れば、心もとない選択である。しかも、しばらくして、山梨に向かった。むろん、理由がある。
「山縣先生の息子さんがイタリアレストランを経営されていまして、その方が、山梨のブライダル施設のなかにイタリアンレストランをオープンすることになったのです。それをサポートするために、1年間、向こうで寮に入って仕事をしました」。
季節が一回りし、桑田氏は38歳になる。東京に戻った桑田氏は、前職の山梨のブライダル施設で知り合った総料理長が経営していた会社を手伝い、2001年8月からは半年、会議の運営代行を行う会社に勤務した。
「せっかく、就職した会社だったんですが、社内の労働環境が厳しい会社で、正義感じゃないんですが、経営陣の前で『やってられるか』と啖呵を切って、退職したんです」。桑田氏の男気を示すエピソードである。しかし、またまた職探しがスタートする。
「そのあとは、例の総料理長の会社を、企業化するコンサルティングを行いました。この時、1000万円を借り入れ、法人化を進めます。それを1年間で返済し、コンサル契約は、満了です」。
不安がなかったといえばウソになる。しかし、転々とすることで、新たな力を習得したのも事実だ。むろん、そのなかで、新たな人とも出会った。実は、この時、同社の法人化に尽力いただいた方が、ネオ・エモーションの現会長の石橋幸男氏である。
「社内で開催される英語のスピーチコンテストで、いい成績を残すとスイスのローザンヌ学校のサマースクールに行かせてもらえたんです。当時、私たちのなかでは最高峰の学校です」。
「何が何でも、と頑張った結果、選んではいただけたんですが、いかんせん実務経験が足りずに入学できませんでした(笑)。さすがに、かわいそうだってことになって、代わりにサンフランシスコのホテルで研修させていただきました」。
「『ホテルニューオータニ大阪』に転勤が決まったのは、その後」と桑田氏。この転勤が、人生の大きなターニングポイントになった。
「『ホテルニューオータニ大阪』では勤務も楽しく、学べることも多かったのですが、もっと勉強したいと欲がでて、辻調理師専門学校に勤める大学の先輩に相談したんです。その際、山縣副校長先生と出会いました。『ホテルニューオータニ大阪』に転勤していないと、山縣先生にお会いすることもなかったと思います。そういう意味でも、この転勤は一つの転機でした」。
面接で「学ぶのではなく、教えてみてはどうだ」。つまり、「生徒ではなく、講師をしてみろ」、とアドバイスされたそうだ。
「それで実は、大阪辻調理師専門学校で9年間、生徒を教えているんです。生活が安定したこともあって、37歳、2000年の2月に結婚。しかし、その翌月に辻調を退職します」。
結婚して、すぐに退社。奥様から見れば、心もとない選択である。しかも、しばらくして、山梨に向かった。むろん、理由がある。
「山縣先生の息子さんがイタリアレストランを経営されていまして、その方が、山梨のブライダル施設のなかにイタリアンレストランをオープンすることになったのです。それをサポートするために、1年間、向こうで寮に入って仕事をしました」。
季節が一回りし、桑田氏は38歳になる。東京に戻った桑田氏は、前職の山梨のブライダル施設で知り合った総料理長が経営していた会社を手伝い、2001年8月からは半年、会議の運営代行を行う会社に勤務した。
「せっかく、就職した会社だったんですが、社内の労働環境が厳しい会社で、正義感じゃないんですが、経営陣の前で『やってられるか』と啖呵を切って、退職したんです」。桑田氏の男気を示すエピソードである。しかし、またまた職探しがスタートする。
「そのあとは、例の総料理長の会社を、企業化するコンサルティングを行いました。この時、1000万円を借り入れ、法人化を進めます。それを1年間で返済し、コンサル契約は、満了です」。
不安がなかったといえばウソになる。しかし、転々とすることで、新たな力を習得したのも事実だ。むろん、そのなかで、新たな人とも出会った。実は、この時、同社の法人化に尽力いただいた方が、ネオ・エモーションの現会長の石橋幸男氏である。
・・・続き
株式会社ネオ・エモーション 取締役社長 桑田朋之氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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