2017年3月28日火曜日

株式会社ロンパネス 代表取締役 本間厚志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ロンパネス 代表取締役 本間厚志氏登場。

法政大学を6年かけ卒業。

父は山形県の生まれ。母は長野県の出身。兄弟は2人。兄とは性格が異なっていた。
「どちらかといえば、弟の私のほうが父親似だったかもしれません。父は公務員だったんですが、商売をしたいとずっと言っていましたから。父親の実家が、和菓子屋だったことも影響したようです」。
隔世遺伝ではないが、孫の本間氏が商売をする。「起業」という言葉がまだ一般的ではなかった頃のように思うが、ともかく、遺伝子が目覚めたのだろう。父の果たせなかった思いを実現したともいえる。もっとも、これは将来の話で、子どもの頃の本間氏は、まだこれという目標をもっていなかったようだ。
高校は私立の「法政第二高校」に進学する。
リーゼントにもなったし、サーファーにもなった。法政大学に進んでからも、勉強はそっちのけ。結局、卒業するまで6年間もかかってしまった。

大学卒業後、事業の立ち上げに参加。

大学を6年もかけて卒業するというから、遊びほうけていたのかと思ったが、そうでもないらしい。大学時代から自己啓発セミナーに何度も参加している。いずれ起業という目標が、大学時代にはすでに芽生えていたのかもしれない。ちなみに、のちにお世話になる株式会社ホイッスル三好の社長、三好比呂己氏に出会ったのも、セミナーがきっかけだ。
「ともかく大学を卒業するのに6年もかけてしまったわけですから、そのぶん、普通に就職したほうが良かったかもしれませんが、実は、いきなり企業の立ち上げに参加することになりました」。
先輩の紹介だったそうだ。「当時、中古車のバイクを売買している先輩がいて、その先輩から『今度、横浜に高級な自動車ディーラーをつくる話がある。本間、やってみろ』って言われるんです。その話に乗っかって。そうですね。ギャラリーには、1000万円以上する外国車を並べて。凄いビジネスモデルでした。売上も大きかったし、利幅も大きかった。あれだけ売れたのは、バブルの時代ということもあったんでしょう。業績は、順調でしたが、3年経った、27歳の時に退職しました」。
本間氏が27歳といえば、1986年のことである。バブル経済が、真っ盛りとなる頃。本間氏が時代というように高級な外車ほど、飛ぶように売れた時代である。しかし、庶民派の本間氏には、高級車が次々売れていくことに、漠然とした違和感があったのかもしれない。ともかく、転職である。

自己啓発プログラム「SMI」を販売する。

株式会社ホイッスル三好の社長、三好氏に出会ったのもこの頃。現在、三好氏は「中国ラーメン揚州商人」を経営しているが、当時は、ポールJ.マイヤー氏が考案した自己啓発プログラム「SMI」の販売を主事業としていた。
学生の頃から自己啓発セミナーに参加していた本間氏にとっては、興味が湧く分野である。「SMIを知って、とにかく、私にもさせて欲しいとお願いしました。SMIは28ヵ国に翻訳され、世界80ヵ国以上で、数多くの人々のモチベーションアップや各種の能力向上などに役立っているプログラムです」。
三好氏も、実は、この「飲食の戦士たち」に登場いただいている。そのなかで、「倉庫の一角を借りて、机一つ、カバン一つ、電話一本からのスタートでしたが、2年もたたず50人の部下ができ、年商は14億円ぐらいになりました」と当時の様子を語っている。この50人のなかに、本間氏もいたわけだ。
「私が惹かれたのは、SMIというプログラムよりも、科学的というか、アメリカ式のプレゼンだったり、営業だったりしました。これだ、と思って飛び込んだんです。でも、頭でわかっていても、実際、売れるとは限りません。なんとか食べていくことはできましたが…。フルコミッションなので、売れないと給料もない。社員のなかにはビルの3階で寝起きしている人もいました(笑)」。
フルコミッションだから、いい時もあれば、悪い時もある。ただし、それも含めて、新鮮な毎日。オフィスは、活気に包まれていた。
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そうだ、屋久島に行こう!・・・ということで行ってきました。

3月の連休時に屋久島に行ってきました。
アルプスのような山脈もあれば、南国の浜辺もあり、温泉も充実。
また天候も晴れ、曇り、雨と経験し、楽しい時間過ごさせてもらいました。
(ヤクスギランドより)
(ヤクスギランドより)
(ホテルより)
(屋久島空港より)

2017年3月21日火曜日

ラムチョップで有名な長岡商事株式会社 代表取締役 前川弘美さん登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ラムチョップで有名な長岡商事株式会社 代表取締役 前川弘美さん登場。
本文より~

始まり。

「あいつが男ならよかった」と、生前、創業者で当時、会長だった父は、常務にそう呟いていたそうだ。とはいえ、男なら良かったと言われた本人の前川弘美氏は「最後まで怒られてばかりだった」と笑う。前川氏は5人兄妹の末っ子。末っ子の前川氏が生まれた翌年、父は東京・上野に小さな喫茶店を開業する。それが長岡商事株式会社のはじまりである。
「父は早くに祖父を亡くし、15歳で1人、下関に引っ越します。旅館の丁稚奉公からスタートし、盛岡で財をなし、家族を呼び寄せました。戦争が大きな影を落とした時代でした。『塩を舐めて暮らした』と母は当時の様子をそう語っていました」。

盛岡でいくばくかの財をなした父は、前述通り、前川氏が生まれた翌年、つまり1963年に東京・上野に喫茶店を開業する。「上野は喫茶店発祥の地なんだそうです。当時若者の憩いの場は喫茶店になり、かなり繁盛したと聞いてます。喫茶店だけではなく焼肉店や、そうそうトリスバーも大ヒットしたそうです」。
敗戦から立ち直ろうとする時代が生んだ活力が、高度経済成長の時代を生み出した。上野は時代の象徴の一つとなっていく。上野の山に桜が咲くと人が集い、上野公園にパンダがやってくると人盛りができた。アメ横にも、たくさんの人が行き来した。
前川氏は、そういう上野をみて育った。
「不忍池でザリガニを釣ったりして、小学生の頃はわんぱくだったですね。末っ子で、兄たちの影響も少なくなかったと思うんです(笑)」。
大好きな兄、姉。「母も大好きでした。でも、父は苦手だった。怒りだすととまらないし…。」

反抗していた時代も長かったそう。「何度も家を出て行ってやろうと思ったこともあったんですが、そうすると母が怒られるから、思い切ることができなかった」とも語っている。
だから、子どもの頃には、いや社会に出てからも、父の仕事を引き継ぐとは思いもよらなかったそうだ。

服飾デザイナー

兄たちの影響もあり、中学から音楽をはじめた。高校では男子バスケット部のマネージャーを務めるかたわら、仲間といっしょにバンドを組んだりもした。
「子どもの頃は、かなり成績も良かったんですよ。でも、高校になるとぜんぜんだめ。勉強もしていないんですから、そりゃそうですよね。大学受験に失敗して、もういいやと思っていたんです。そうしたら、のちに医者になる一つ上の兄が、どうしても『受験しろ』といって。受験票を試験会場まで持ってきてくれたんです。私はディスコで朝まで踊って、しかたなく直行です(笑)。それで受験し、合格したのが『杉野女子大学』です。意に反した服飾系の大学に行くことで私の運命が動くんですから、わからないものですよね(笑)」。
卒業する頃には、デザイナーになろうと思っていたそうだ。実際、前川氏は服飾デザイナーとして6年、アパレルメーカーで勤務している。「最初は受付からのスタートです。でも、すぐに認めてもらうことができて、晴れてデザイナーの仕事をすることができました。私が手がけた作品がヒットし、ご褒美でヨーロッパ視察に行かせてもらいました」。
22歳からの6年間。前川氏は大好きなデザインの仕事に従事する。大学では、あそび専門だった彼女が、仕事を開始すると人がかわったように仕事に打ち込むようになる。
もっとも、「真夜中まで仕事をして、それから飲みに行くのが日課だった」と笑う。退職したのは、からだをこわし、それを知った父が激怒したからだという。前川氏のことを心配してのことなのだろうが、父の気持ちは前川氏にうまく届かない。
「それから、転職し、月刊誌の編集を手がけます。化粧品もつくっていた会社だったので、最初はパッケージのデザインからスタートしたんですが、編集も手がけるようになって」。映画監督など、いままで付き合ったことがないような人とも交流がはじまったのはこの時だ。「編集の仕事が面白くて、周りの人は5時にはさっさと引き上げるんですが、私はいつも10時、11時まで残って仕事をしていました」。
その仕事を辞めて、一度行ってみたかったという、チベットを訪れカイラス山を登山し、ネパールへと約1ヶ月旅に出る。出かける前に知り合ったご主人と結婚し、専業主婦となり、2人の子をもうける。
父と娘は、ひとつの線をひきながら、微妙な関係を保っていたのかもしれない。「主人が父に挨拶するために我が家にやってきた時、彼にも激怒するんじゃないかってびくびくしていたんですが、拍子抜けするくらい好意的な対応でした。宜しくお願いしますって。結婚しろ!と散々怒鳴られてはいたが、本当に結婚を望んでいたのだなとわかりました(笑)」。
父親の愛情をはきちがえていた、照れ隠しにも聞こえなくもなかった
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2017年3月14日火曜日

有限会社ハレノヒ 代表取締役 高野昌宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ハレノヒ 代表取締役 高野昌宏氏登場。


少年時代から、大学時代まで。

5月は空が高くて、青い。1971年の5月3日。その日の相馬市も、きっと晴れやかだったに違いない。「私は3人兄弟の末っ子でした。兄とは11歳、姉とは7歳と、ずいぶん年が離れています。私が生まれたのは、1971年の5月3日。生まれは、福島県の相馬市です」。
ご両親は、元々、クリーニング店や茶店、布団屋などを手広く経営されていたそうだが、高野氏が生まれた1971年、医療ミスによって、父親が半身不随となってしまう。「母1人でしょ。だから、クリーニング店だけを残し、あとは店じまいしたそうです」。

高野氏にとって、母はきびしい人だったらしい。高野氏は、1人、年の離れた末っ子だった。かわいいに違いないが、1人店を切り盛りする母にも、やさしく接する余裕がなかったのだろう。
代わりに兄がいて、姉がいた。2人は、兄弟だが、喧嘩相手ではなく、親代わりだった。
「私は、小学校の頃からバレーボールをはじめました。私もそうですが、チームのみんな筋が良くって、全国大会にも出場します。バレーボールは中学でもつづけますが、こちらは県大会でベスト8くらい。小学校の頃のように、真剣に取り組んではいなかったんで、中途半端な結果で終わってしまいました(笑)」。
それでも、バレーボールは、特別で、勉強は二の次だった。ところが、本人いわく、「高校に入って、勉強に目覚めた」そうだ。「高校に入って、ちょっとまじめに勉強を始めると、コツがわかったんです。コツがわかると、問題もスラスラ解けるようになって、学年で3番くらいに入るようになりました。それでも、そうたいした大学に進学したわけではないんですが(笑)」。
大学は「神奈川大学」に推薦で進学する。「特別、大学に進学するつもりもなかったんですが、母から『お金のせいで大学に行かせられないのは私の本意じゃない』と言われ、母に対する感謝の気持ちもあったもんですから、素直に言葉に従いました」。
大学生活がスタートする。

彼女にフラれて、スイッチON。


「飲食に出会ったのは、大学時代です。1年の10月になってアルバイトを始めます。学費は、私が払うことになっていましたから、のんびりしているわけにもいなくなって。応募したのは、居酒屋を少しおしゃれにしたカフェ・バーのオープニングスタッフでした。初めてのバイトでしたが、楽しかったですね。大学を卒業してからも、フリーターとなってバイトをつづけます。でも、結局、その店はクローズしてしまいました」。
その後も、飲食店を転々とする。正社員として就職したのは24歳の時で、入社したのは『モンテローザ』。「でも、『モンテローザ』時代は、長くありません。25歳の時、地方への人事異動みたいな雲行きになって、それがイヤで退職したんです」。
当時、付き合っていた彼女がいたそうだ。転勤がイヤだった理由の一つかもしれない。「でも、彼女にもいいかげん愛想を付かされて、フラれてしまうんです」。
それが、奮起をうながした。「あの時、初めて真剣になったかもしれません。人に言えば笑われそうですが、私にとっては、それだけ大事な出来事だったんです」。
「30歳までに社長になって、見返してやろう」と思ったそうだ。炎が灯った。今思えば、その炎は、高野氏の奮起を願いつづけた彼女の置き土産だったかもしれない。
30歳。5年あれば、できると思っての数字だったかもしれない。しかし、現実的に言えば5年しかない。5年間で何ができるのか。
「30歳までに起業する。それを前提にすると、料理の技術も、従業員の質も、そう必要としないホルモン焼きの店がいいだろうと思って、その道に進みました」。
当時はまだ、ホルモン焼きの店は少なかったそうだ。「大阪の鶴橋にあるような、ああいう店は少なかったんです。もっとゴージャスな焼肉店ばかりです。ホルモンの専門店はほとんどありません」。
そのようななかで、予約も取れない店があった。「あらちゃん」という。「偶然ですが、うちのそばにあったんです。7坪の、けっしてきれいでも、おしゃれでもない店です。ダクトもなく、匂いは外に流れ放題。店員は外国人です。これは、いい、と門を叩きました。これなら、技術も関係ないだろう、と思ったからです」。
手に職をつける選択肢もないではなかったはずだ。だが、5年。このしばりを考慮すれば、遠回りはできなかった。それだけ、30歳の起業にこだわった証だろう。もちろん、起業しただけでは、意味がない。ちゃんとした男となり、見返すのが目的である。どうすれば人気店をつくれるのか。
ハングリーな青年は、事業のすべてにむしゃぶりついた。
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2017年3月8日水曜日

株式会社INGS 代表取締役 青柳誠希氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社INGS 代表取締役 青柳誠希氏登場。
本文より~

父のホームグラウンドは、ゴールデン街。

新宿ゴールデン街の夜は、昼より明るい。闇にいくつものネオンが浮かび上がるからだ。文壇バーなど、個性豊かな店も多い。作家、編集者、映画監督、俳優といった文化人が通う街としても知られている。今回ご登場いただいた青柳誠希氏の父は、このゴールデン街でカウンターバーを20店舗ほど経営されてきた凄腕経営者である。
「父が初めて店を開業した時には、もう姉がいたといいますから、1970年代です。全店、直営というわけではなく、のれん分けのような店もあったと思います。ゴールデン街のほかにも、新宿3丁目にも店を持っていました。私が生まれた時には、すでに多店舗あったはずです」。
青柳氏が生まれたのは、1984年。バブルにより東京が世界でもっとも光る頃である。繁華街の代表である新宿もまた、バブルの坂を駆け上がる。
「小・中は、大久保小学校、大久保中学校です」。ネットで調べてみると、都心だが、案外、周辺には学校も多い。すっかり繁華街だと思い込んでいたが、少し高度を上げ、俯瞰すれば早稲田大学もあるし、有名な高校も数多くあった。青柳氏が、卒業した大久保小学校もまだ健在だ。
「昔から運動はできたほうです。中学ではサッカー部でした。高校は、拓殖大学の付属高校に進学し、ラグビーを始めました」。「足が速いんです」と青柳氏。頼めば、すぐにも走り出しそうだった。ただし、いまではすっかり治ったが、大学に進学して2年、怪我がもとで、ラグビーを断念している。「拓殖大学は、いうまでもなくラグビーの強豪校です。からだのバカでかい外国人の選手もたくさんいた。そんななかでラグビーができたのは、ラグビー好きの私にとって最高の経験でした」。
ラグビーを辞めた息子に父が声をかける。「どうせ、アルバイトするなら、うちの店でどうだ?」

父が託した、ラーメン店。


青柳氏には、9つ離れた姉と6つ離れた兄がいる。青柳氏が大学2年だから、兄はもう就職している。6つ離れているが、飲食に就いたのは、弟の青柳氏のほうが早い。父から声をかけられた、この時のアルバイトが、きっかけだ。
「すっかり飲食に興味を持ちました。父親のバーはどれも、小さなバーですが、そのぶん、お客様とも濃厚なお付き合いができた気がしますね。就職は飲食1本です(笑)」。
むろん、この時は、「父といっしょに」とは、考えてもいなかった。
「いろんな飲食の会社を受けて、内定もいただきました。しかし、タイミングですね。うちの店の近くにあったラーメン屋がたまたまクローズすることになって、その場所を昔から欲しかった父はすぐさま『貸してくれ』とオーナーに頼むんです。すると『OKだが、ラーメン屋じゃないとだめだ』と。ラーメン店なんて、父も経験がありません。クローズするラーメン店と交渉し、味も、そのまま、数ヵ月、研修もしてもらうことになったんです。で、誰がするか。白羽の矢が、私に刺さりました」。
「だから、うちの会社はここからスタートしています。最初は友人と2人です。もちろん、2人とも素人。前の店のスタッフが頼りですが、それでも、そう長くいてもらえるわけはありません」。
正確に言えば、研修してもらったのはたった2ヵ月だった。2人にとっては、あっという間だったろうし、途方もなく長く感じた2ヵ月だったに違いない。
13坪、20席。「もともと、運営がうまくいってなかったんですが、けっして人気がなかったわけじゃない。むしろ、人気はあったほうだと思います。ただ、ちゃんとやっておられなかった(笑)」。営業時間は、きっちり営業するなど基本をまっとうするだけで、すぐに売上は回復。月商は550万円にもなった。
「これもまた飲食のパワーですね。旨いラーメンとちゃんとしたサービス。それだけで、人が来る。これは、逆に怖いことでもありますが、お客様は、しっかりみておられるんですね。私たちが何もいわなくっても」。
これが、青柳氏22歳の時の体験である。見事なV字回復に、経営者の大先輩でもあるお父様も、舌を巻かれたそうだ。

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