2017年4月25日火曜日

株式会社グレートステージ 代表取締役 張 玉龍氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社グレートステージ 代表取締役 張 玉龍氏登場。
本文より~

きっかけは、アニメ。

今回、ご登場いただいた張 玉龍氏は1985年6月3日、中国の浙江省湖州で生まれた。湖州は上海から列車で1時間程度。沿岸都市で経済的にも発展しているそうだ。張氏の父は、湖州で従業員数80名の会社を経営している。
「私の家は、私ともう一人、妹がいます。一人っ子政策の時代なんですが」と張氏。一人っ子政策でも、そういうケースがあるのだそうだ。「ただ、学校で知り合った人たちは、やはりみんな一人っ子でした」。
1990年代の中国の様子はどうだったのだろうか。当時はたしか「世界の工場」と言われていたはずである。中国からすれば、欧米はもちろん世界の技術や文化をキャチアップしていた時代だったような気がする。
話は飛ぶが、張氏が来日したのは、氏が19歳の頃だ。1985年生まれだから2004年。それから6~7年間は一度も帰国しなかったという。
ところで、どうしてアメリカではなく、日本を選択したのだろう。
「小さい頃から、勉強はぜんぜんしないんで、お母さんによく叩かれていました(笑)。得意なのは体育だけ。中学校からバスケットボールを始めるんですが、なぜ、バスケットだったのかというと、実は、『スラムダンク』の影響なんです」と張氏。
『一休さん』『ナルト』『ワンピース』と日本でお馴染みの題名が次々と張氏の口から飛び出してくる。「日本語に関心を持ったのも、実は漫画がきっかけ。最初は日本語がぜんぜんわからなくて。それで、勉強しようと思ったんです」。
アニメが、日本と中国の架け橋となった一例だ。

来日。

張氏は高校時代から親元を離れ、日本語を教える学校に進んでいる。寮で暮らすことになり、ルームメイトは4名。うち3名が来日し、張氏ともう1人がいまも日本に残っているそうだ。
「高校を卒業した年に単身、日本に来ました」。
憧れの日本である。しかし、親戚も、知り合いもいなかったそうだ。「日本はどうでしたか」と伺うと、「湖州も都市なんですが、スケールが違いました。なかでも路線がすごい(笑)。山手線ってなんなんだって。感動もしました。年配の方に道をたずねたんです。すると、そのおばあさんは、わざわざ目的地まで連れていってくれたんです」。
張氏は、いまもその時のことを宝物のようにして胸にしまっている。「来日して、不安な時ですからね。日本人にとってはめずらしくないことかもしれませんが、私は、大きなぬくもりを感じました」。
来日した張氏は、日本語の専門学校に進む。
「2年制なんですが、私は向こうで勉強していたので1年生が免除され、2年生からスタートしました。それから、駿河台専門学校に入り直し、日本の歴史などを勉強します。そういう勉強をしないと大学にも進学できないからです」。
張氏は日本語を巧みに操る。英語もできるそうだ。
「子どもの頃は、勉強しないタイプでしたが、そういうわけにはいきません。一旗あげるまで中国にも帰らないと誓っていましたから、覚悟もぜんぜん違います。専門学校を出て東洋大学に進み、今度は経営を勉強しました。会社を興すためです」。
張氏は、教授に勧められて大学院にも通ったと言っている。

起業。

大きな志を持った青年が日本に来た。この「飲食の戦士たち」でも、中国や韓国、台湾など海外から来られた経営者を多数紹介している。張氏も、そのうちの1人である。
しかし、どうして張氏もまた「飲食」だったのだろうか。「日本に来てすぐにアルバイトを始めました。来日してから1週間たった頃には、もう店に立っていました。コンビニ、居酒屋、定食屋、イタリアン…。学校では経営を大局的に学び、お店では実践を通して勉強させていただきました」。
アルバイトでも職位がつくと、レジ閉めなどもできるようになり、経営状況がおぼろげにもわかるようになる。それが、手本ともなり、モノサシともなった。
「それで、これならいけるんじゃないかなと思って、私も飲食店を始めるんです。池袋に1号店を出店したのは、大学3~4年の時です」。
在学中に、起業する。張氏のパワーは、どこからでてくるんだろう?
「父からは、『やるなら、やりきれ』と言われていました。だから、6~7年間、家にも、中国にも帰らなかった。そう決めていたんで、とにかくやるしかなかったんです」。「てっぺんをめざす」と張氏はいう。そのために、日本のなかでも、いちばんの東京に来た。
起業は、必然の選択だったに違いない。


営業人材を増員します。

今年も営業を強化するため人材を増員します。
もちろん、3年後5年後10年後を見越して20代しか採用しません!!
一線で活躍する営業マンは20代にシフト出来たので、業務委譲の途中です。
やはり発想や創造、行動面含め可愛がられる20代が会社を引っ張ってくれれば・・・。

会社は今年25周年目でバックヤードで頑張ってくれているスタッフは皆10~20年のベテラン揃い。また、外部ブレーンも一流どころなので周りから教えてもらえる環境があります。


2017年4月24日月曜日

最近、マスコミの方々から経営者&飲食店の取材先相談増えました。

飲食の戦士たちも約600回を迎え、最近テレビや新聞、ネット等マスコミの方々から飲食経営者&飲食店の取材先相談増えました。
たまたまかもしれませんが、この1週間でテレビはキー局から4案件ありました。
その他新聞、ネット等入れれば8案件も・・・・。

ありがたいことです。
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2017年4月19日水曜日

株式会社バース 代表取締役 林 和廣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バース 代表取締役 林 和廣氏登場。
本文より~

高校時代に思い描いた夢。

「サラリーマンにはなりたくないな」と思ったそうだ。「1人ではなく、みんなでそんな話をした」と今回、ご登場いただいた株式会社バースの代表、林 和廣氏は懐かしそうに振り返る。高校生の頃の話だそうだ。
林氏は、中学から早稲田実業に進み、高校にも進学。生徒の80%は黙っていても早稲田大学に進学できると言われているなか、林氏らのグループは、残り20%におさまってしまっていたそうだ。
「勉強しないわけですから、当然ですね」と林氏は、笑う。ただ、いいかげんな高校生活を送っているわけでもなかったようだ。みんなで肩を寄せ合って、語っていたのは、夢の話。
「全員起業したわけではないですが、そのうちの1人は、いまや誰でもが知っている上場企業の創業者ですし、私も含めて、起業した人間は少なくありません。みんな、あの頃、互いに刺激し合いながら、何かを育てていたんでしょうね」。
実は、「バース」という社名。最初に口にしたのは、この高校時代のことだという。ともあれ、落ちこぼれ軍団は、ただの落ちこぼれではなかった。こういう生徒たちを生み出すのも、「早稲田」というブランドのちからなのかもしれない。

早稲田実業卒。

林氏が、生まれたのは1975年8月9日。3人兄妹の次男。
「父は仕事、仕事でぜんぜん家にもいない人でした。みんなで旅行したのは、記憶にあるだけでいえば2回くらいです。そういえば、たまに思いだしたように、外に連れていかれてキャッチボールをしたことがありますね。とにかく寡黙な人で、怒ると猛烈に怖い人でした(笑)」。
「中学は早稲田か慶応」。これも、父が決めたことだった。「兄もそうですし、私もそうです。妹は、女の子なんで、さすがに違いましたが…」。
父親の言葉は、絶対だった。
「でも、結局、私も、兄も早稲田大学に進まなかったので、父の計画は、頓挫したっていうか。そういう意味では申し訳ないですね、父には」。
小学校から始めた剣道は、大学までつづけている。すでに話したが、大学は早稲田ではない。現役で臨んだ受験は、内部進学ではなく、一般受験を選択して、楽勝だと思っていた早稲田を落ちる。
「甘かったですね。内部進学だと思い通りの学部に行けないんですよ。成績が悪かったから。それで、一般で受けてやろうと。ぜんぜんだめでした。うちの高校に一般受験用のクラスはありません。だから、生徒たちにも受験のノウハウが全く無い。受験に限っていえば、孤島みたいなもんだったんです。2年目も、とりあえず早稲田だったんですが、友人が、推薦っていうのをみつけてきて、2人で帝京大学を受験します。行く気はぜんぜんなかったんですが、受かった瞬間、『ここでいいんじゃね』みたいになって(笑)」。
1年浪人したので、大学を卒業したのは、23歳。肩書は、帝京大学卒。

原価率、70%がスタート。

「就職したのはTV関連です。ADとか。そう、ご想像通り、入った瞬間辞めようと思いました(笑)。でも、昔は、石の上にも三年って言葉があったでしょ。それで、なんとかしがみついて、3年やりました。それで、退社したのが、26歳の時です。もう、起業しなくっちゃと思う反面、どうするか、何をするかと悩む日々です」。
「なんでも良かったんです」と林氏。
たしかに、これといった経験もない。特別、やりたいこともない。何でもできるともいえなくもないが、何でもいいが、いちばん難しい。「なんの経験もなかったんですが、TVの仕事をしていた時に、一つ驚いたのが『お弁当』。すごい数なんですね」。
「まだ『中食』って言葉も、一般的じゃなかった時代で、いまのロック・フィールドさんや、オリジンさんも、それほど大きくはなかったし、コンビニやスーパーに総菜なんてなかった。弁当からヒントをもらって、最初に始めたのが、弁当と総菜のお店です」。
用賀駅前の、商店街の一角。オーナーに頼み込み、賃貸する。10坪の小さな店。
「創業に参加してくれた友人は現在、違う飲食会社の社長をしていたり、ウエディングプロデュースの会社の社長をやっている。みんな早稲田の時からの繋がりです。みんな若かったから、なんでもできるような気がしていました」。
弁当と総菜。オープンすると、目論見通り、爆発したそうだ。お昼時にも、弁当が売れ、夕方になればなったで総菜目当てに主婦が押し寄せた。夜になると、OLやサラリーマンが、夕食用の弁当と総菜を買って帰った。
「もう、朝から晩まで立ちっぱなし。いっしょに始めた奴らが、からだがもたないと1人、また1人と抜けていきました。無理もなかった。私だって、逃げ出したくなったくらいです」。
しかし、それほど繁盛したのなら、利益も悪くなかったのでは? 
「売上はそれなりでしたが、利益がぜんぜんした。創業メンバーは、給料をとってなかったんですが、それでもかつかつです。そりゃそうなんです。計算してみると、原価率が70%になっていました。原価率70%。ありえない数字が、うちのスタートなんです」。
いまや抜群のオペレーション力で、ハイパフォーマンスを叩き出す、林氏。そのスタートが、対局にある数字だったところが興味深い。
「飲食もしたことがなかったから、すべて、実践で学びました。最初は、すぐに店舗展開をして、なんて思っていたんですが、そんな甘いもんじゃない。2年くらいは燻りつづけていました」。

・・・続き
株式会社バース 代表取締役 林 和廣氏
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2017年4月12日水曜日

株式会社ダルマプロダクション 代表取締役 古賀慎一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダルマプロダクション 代表取締役 古賀慎一氏登場。
本文より~

秀才、バスケ少年たち。

小学生からバスケットボールをはじめ、中・高も続け、熊本大学でも、少しだけ続けた。子どもの頃の思い出は、バスケットボールに尽きる。とくに高校時代は、今尚、鮮明に記憶している。
「うちの高校は、背が低かったんです。183センチの私がいちばんでかいほうでしたから(笑)」。180センチをオーバーすれば十分、でかいが、バスケットボールの世界ではそうではないらしい。他校の選手はいうに190センチを超えていたそうだ。
「背丈で劣っているぶん、戦術重視です。時には、トリッキーな動きとか、そういうのを駆使して勝ち上がっていきました」。秀才たちがそろった学校だから、戦術が、肉体を凌駕する、それが、楽しかった。学業は、佐賀ではいちばん。それでいて、スポーツの成績もいい。「もっとも、県外にでれば、佐賀でいちばんでも、ぜんぜん歯が立ちません。とくに沖縄や福岡の高校は別格でした」と笑う。
勝敗はともかく、バスケットボールは青春の思い出である。
「チームというのを意識できるようになったのも、バスケットボールのおかげです」と古賀氏は語っている。

ジブン探しの2年間。見つけたのは、「稼ぐのはたいへんだ」ってこと。

大学は、「熊本大学」に進んでいる。九州では、「九州大学」に続く名門だ。
「親父が、工学部の教授だったこともあって、小さな頃から国立大学×工学部というのが、既定路線でした。でも、どこかに親父に反発する気持ちがあって、工学部でも、親父とはちがう分野に進みます。もっとも、進む方向は大学6年間のうちにさらにそれ、外食というまったく異質の分野に進むようになるんですが(笑)」。
大学に進んだ古賀氏は、少しばかりバスケットボールをかじるが、すぐに大学にも行かなくなった。親元から離れていたから、親の目もない。いろんなバイトをした。飲み屋のボーイもしたし、土方もした。ジブン探し、だと古賀氏はいうが、自分の足で歩き始めたのが、この時だったのかもしれない。
「ただ、2年間、ジブン探しをして、悟ったのは『お金を稼ぐっていうのは、たいへんだな』ということでした。ちゃんと大学を出る、その意味がなんとなくわかり、復学しました。もっとも2年間、授業にも出ていないので、もう1度、1年からやり直しです(笑)」。

「飲食」に心が奪われた、残り4年間の在学期間。

2年間、何をしても、ジブンが何者かわからなかったにも関わらず、復学してからはじめたアルバイトで、何者であるかのしっぽを簡単につかんだ。「おしゃれな中華料理の居酒屋です。最初はホールだったんですが、たまたまキッチンのスタッフが休みで、『入ってみるか』と言われて。これが、ある意味、すべての始まりです」。
いつの間にか、社員同様、どっぷり勤務するようになる。社長とも、距離が近く、時に誘われ、飲みに行った。古賀氏のことだから、自分から誘ったことがあったかもしれない。社長の知り合いの経営者たちとも会い、憧れる。「当時、会社はいきおいがあって、中華以外にもアジアン料理とか、いろいろな業態をやっていたんです。社長に直談判して、ぜんぶやらせてくれ、って言って」。
授業には顔をだしたが、やりたいことは教室になかった。「一度、不毛だと思って、親父に、早く大学を辞めて、料理の道に進みたいといったんですが、むろん却下です。たしかに親父がいうのも一理あったので、とにかく、卒業しようと、合計6年、大学に通いました。そして、卒業証書を受け取った、その日に、親父に証書を郵送し、私自身は、その足で東京に向かいました」。

・・・続き
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2017年4月4日火曜日

株式会社楽観 代表取締役 伊東良平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社楽観 代表取締役 伊東良平氏登場。
本文より~

少年とキャンピング・カー。

今回ご登場いただいた株式会社楽観の代表取締役、伊東良平氏が東京都立川市に生まれたのは、1986年8月15日。
「父親は、叔父といっしょに信号機などを製造する会社を経営していました。私は一人っ子で、子どもの頃から、好きなようにさせてもらっていた気がします」。勉強でも特にうるさく言われたことがないらしい。
「うちには乗用車とは別にキャンピング・カーがあって。シーズンになると山に行ったり、海に行ったり。今思うとあの時があって、君今の私があるのかもしれません。だって東京に生まれていながら、苦手なんです。人込みとか」と言って笑う。
少年の頃、父親が運転するキャンピン・カーに乗って、伊東氏は、もう一つの旅を始めたのかもしれない。

「みんなといっしょ」は、好きじゃない。

「父親の影響かもしれませんが、子どもの頃から、とにかくモノづくりが好きでした。モノづくりの授業だけ、やたらやる気だすタイプでした。当時から『ふ・つ・う』というのがキライで。ランドセルも男なのに赤とか(笑)」。
スポーツは得意。中学はバスケットボールの選手として名を馳せた。高校からも推薦が来たそうだ。
「元来、かわり者でしょ。ふつう通り、高校に行って、大学に行く。そういうことはぜんぜん考えませんでした」。
ふつうじゃない? 「そうなんです。推薦も断って、私は、調理科のある高校に進みます。調理科がある高校は、そんなに多くありませんが、たまたま八王子に、そういう学校があってそこに迷わず進みました」。
料理がしたかった? 「料理というよりモノづくりです。もちろん、学校の授業で、毎日毎日、料理とか栄養学とかを学ぶわけでしょ。だんだん、料理に魅せられていったのも事実です」。
著名な料理人が講師として来られることも少なくなかったそうだ。
料理人は、かっこいいと思いましたか? 
「そうですね。リアルにそういう人から、話を聞くわけですから。最初に惹かれたのは、洋食です。イタリアンとか、そりゃ、かっこいいですよね(笑)」

世界、2周。料理冒険家の第一章。

伊東氏が進んだのは、「八王子実践」という私立高校だ。そう、バレーボールで有名なあの高校だ。高校を卒業した伊藤氏は、料理はアートだ」と、今度は、デザインの専門学校に進む。
「あの頃から独立はイメージしていました。ただ。ほかにもやりたいことがあって、順列をつけると、まず、それからだったんです」。
それが世界2周につながる?

「そうです。最初は、バイトをしてお金をためて、日本中を旅しました。ピースボートに乗ったのは、そのあとで22歳の時です」。人生のターニングポイントと伊藤氏が上げるのが、この1年である。
ウィキペディアによれば、ピースボートは、「国際交流を目的として設立された日本の非政府組織、もしくは、その団体が主催している船舶旅行の名称」なのだそうだ。設立されたのは、1983年。もともとは、アジアを主体にしていたそうだが、伊藤氏が乗り込んだ頃には、すでに「地球一周の船旅」を繰り返していたようだ。
「私は、コックとしてお給料をもらいながら乗船させてもらいました。コックだけで、50名。医師なども合わせれば、スタッフだけで400~500人いたんじゃないでしょうか。乗客を含めれば3000人くらいは乗れる大型船です。私がいた頃は、お客様が1500人くらいでした。その方々の朝食やディナーを50人のコックでつくるんです。私は、いちばん下のペイペイからスタートです(笑)」。
船上での料理は過酷で、船が揺れると、せっかくつくった料理も床にぶちまけられる。それだけではない。「厨房の人間関係もけっこう、過酷でしたね。50人のコックがいるといいましたが、日本人は私を入れてどれくらいだと思います? たった3~4人なんです」。
「エジプト人もいたし、インド人もいた。インドネシア人でしょ。フィリピン人。ウクライナ人…。世界の縮図ですね。コミュニケーションはむろん英語です。だから、英語もだいたい聞き取れるようになった。あれは、ためになりました」。
船内でのケンカはご法度だったそうだ。
「ケンカをすれば、レッドカードです。すぐに下船させられます(笑)。でも、日本人と違う人たちが大半なわけですよ。習慣も違うし、だいたい日本人のように勤勉な国はやっぱりないわけで。でも、腹立たしくても、なにもできない。忍耐も学習しました(笑)」。
1年間で、世界を2周。周った国はおよそ50ヵ国。いったん寄港すれば、その港に1週間近く滞在することもあったそうだ。そのたびに伊藤氏は、冒険家となり、世界の食を見て回った。
・・・続き
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