2017年5月30日火曜日

株式会社ザガット 代表取締役 栗原秀輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ザガット 代表取締役 栗原秀輔氏登場。
本文より~

2007年、ザガット設立。

「八丁堀の美味しい焼酎と魚料理の居酒屋」。ザガットのホームページを観ると飛び込んでくるショルダーフレーズである。店名も「茂助」「中俣酒造」「中俣酒造 館」「銀座中俣」と、今風に飽きた人には、興味をそそるネーミングだ。
一方、酒好きが興味をそそられるのは、110年以上の歴史を堪能できる「中俣家」の焼酎である。江戸時代、焼酎は、島津家御用達だったらしく、鹿児島県限定の販売で、今でも東京ではなかなかみることはない貴重な焼酎ということだ。
「中俣家は、母方の実家の家業なんです。私たちも、代々受け継がれてきた酒造りのスピリットを体感するために毎年秋に蔵に入り、芋の処理からすべての製造工程を体験しています」。今回、ご登場いただいた株式会社ザガット 栗原 秀輔氏は、そう語る。
栗原氏が、株式会社ザガットを設立したのは、2007年。双子の弟とともに、立ち上げている。「最初は、ふぐ料理屋としてスタートしました」。これが、2017年、現在からみれば10年前の話である。

2人の野球少年。

栗原氏が、生まれたのは1983年。4人兄弟の長男で次男とは、双子の兄弟である。
父親の身長を聞いて驚いた。「身長は194センチです」と栗原氏は笑う。父親も飲食の仕事をされていたそうである。
双子の兄弟は、小学生の時から野球をいっしょに始めている。
「鹿児島から東京に移り、中学からはシニアリーグでプレーしました」。所属したのは「世田谷西リトルシニアリーグ」。「プロ野球選手だった蓬莱昭彦さんが監督です。総監督は、あの西部の監督だった東尾さんでした」。栗原氏は、ショート。弟は、ファースト。入団して3年目には、全国大会にも出場している。
「最上級生になった最初の大会がさんざんだったんですね。それで、監督が怒って、鬼になりました(笑)」。なんでも、当初いた部員30名が、またたく間に15名くらいに減ったそうだ。人数は減ったが、そのぶん、濃くなった練習のエキスが、全員に行き渡り、チームは強化された。双子の兄弟は、ともに主力選手だった。
「私たち2人は、推薦で、日本体育大学荏原高等学校に進学します。ふつう高校の練習って、とんでもないわけですが、シニアの時の猛練習のおかげで、楽勝でした(笑)」。
当時、日本体育大学荏原高等学校では、全国から選りすぐりの選手が集められたそうだが、大会ではなかなか勝ち上がれなかったそうだ。「みんな、オレがオレがってタイプだったんですね。いくら個々の技術が秀でていても、これでは勝てない。いい勉強にもなりました」。

親父の背中。

高校を卒業しても2人は、野球をつづける。社会人野球である。「社会人までいくと、もうてっぺんがみえてくるっていうか。てっぺんに行く奴らってどんな奴かわかるんです」。在籍したのは、半年。「私といっしょに弟も退団しました。小学校から追いかけたプロの二文字を断念したのは、この時です」。
チームを退団した2人は、父親が経営していた飲食店で勤務するようになる。「これは、ちょっこっとです。それから、ふぐ料理屋で勤務します。2人で2年半くらい勤務して、独立。まず、『できることを』と思って、ふぐ料理屋を始めました」。
2人で貯蓄した400万円と国庫からの借り入れ1000万円でスタートする。株式会社ザガットを設立したのも、この時である。
「順調でした」と栗原氏。しかし、順調なスタートが、かえってあだになったのか、3店舗目を出店する時に、躓いてしまう。「慢心してしまったのかもしれません」。タイミング悪く、リーマンショックが重なる。
「でも、私たちはどんな状況になっても商売をつづけた親父の背中をみてきたわけで。商売はつづけてナンボ、だって思っていましたから、負けるわけにはいかない、と」。
経営者2人が先頭に立ち、歯を食いしばり、商売をつづけた。2年後には、新店を出店するまでに、業績も回復した。
その後、栗原氏は八丁堀を中心に店舗展開を行っていくことになる。それが「茂助」「中俣酒造」「中俣酒造 館」「銀座中俣」である。中央区という激戦区で勝ち残っていることからも、店のクオリティは想像できるだろう。
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4月の有効求人倍率1.48倍とついにバブル期(1.46倍)抜きました!!

本日、4月の有効求人倍率が発表されました。
なんと1990年7月に記録したバブル期の最高値1.46倍を上回る1.48倍に!
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170530-00050007-yom-bus_all

まさかこの時点でバブル期抜くとは私も想像してませんでした。
このままだと2020年のオリンピック前には軽く1.6~1.7倍くらいになり
首都圏では2.5倍超え、こと飲食業界の倍率となると5〜6倍になりそうです。

ちなみにバブル期の1990年はインターネット会社はまだ設立されてませんでした。

2017年5月25日木曜日

5月25日、青山学院大学堀内ゼミにてフォロインプレンディの氏家秀太社長がゼミ講義を。

5月25日、青山学院大学堀内ゼミにてフォロインプレンディの氏家秀太社長がゼミ講義を。
ラジオやテレビ、また書籍も数十冊の著者でもある氏家秀太社長の話はうちの担当も勉強になってました。
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新人営業マン加入しました!

キイストンに28歳の新人営業マンが加入しました!

巨人軍の坂本選手に似た秋田出身、営業未経験ですが、素直で人から好かれそうな人材です。
3年後にキイストンを支える営業マンの核に育ってくれれば・・・。

引き続き募集はしています。
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2017年5月23日火曜日

株式会社パッション・インサイド 代表取締役社長 李 朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社パッション・インサイド 代表取締役社長 李 朗氏登場。
本文より~

大学卒業までの話。

「蔵月(KURATSUKI)」「ひゃくてん」「にひゃくてん」「ただいま」、ネーミングもユニークな焼肉と串カツ、2つの業態、7店舗を展開しているのが、株式会社パッション・インサイド。今回は、その代表取締役社長である李 朗氏にご登場いただいた。
李氏は1975年に生まれる。祖父はパチンコ事業やタクシー事業を立ち上げた起業家。父は、その祖父からタクシー事業を引き継いだ事業家である。
「祖父はタクシーだけではなく、パチンコ事業なども手広く行っていました。その起業家の血が私にも流れているんだと思います」。
小さな頃から、父とはそりが合わなかった。反骨心が自立心を育てた。それが時には、悪友との付き合いとなって表れもした。
それでも成績は悪くなかった。中学時代は、2位、3位が李氏の指定席だった。
「頭がいいっていうより、ちゃんと勉強していたんです。勉強がきらいじゃなかったですからね。でも、一方では悪いやつらともつるんでいました。先生たちから見たら、ある意味、中途半端なヤローだったはずです(笑)」。
悪友との付き合いはエスカレートする。
「高校の1年の時は、今思えば、恥ずかしいんですが、悪友たちと、まぁ、いろいろやらかしてしまいました。それがもとで出席日数も微妙になっていくんです。一方で、親父が、こいつは日本にいてはろくなことはないと、私を海外に放り出すんです。いわゆる短期留学ですね。これが、高校2、3年の夏休みの話です」。
このような経緯もあり、無事高校を卒業。「大学に入ってからは体育会系の部活動に身を置き、学生生活を部活一筋で過ごすことになりました。それでもやはり傍では勉強をしていましたが」。

もう一度、海外留学。MBA取得。

「けっして頭がいいわけではない」と李氏は謙遜する。「学年でいい成績を収めることができたのも、勉強がきらいではなかったからにすぎない」のだそうだ。しかし、その一方で、「もっと好きな勉強に打ち込みたかった」という思いもあったようだ。
「そうですね。どこかに、そういう思いもあって、もう一度、留学するという道を選択します。ただし、今度はちゃんと留学して大学院に進み、MBAも取得します。もっとも、お金がなったものですから、就職が先でしたが。ありがたいことに難関だったNTTに入社することができました」。
NTTを選択したのは「寮があったから」だそうだ。しかし、どうしてお金がなかったのだろう。
「大学2年くらいから、親父から資金をストップされていたんです。だから、当時は、お金がぜんぜんなくって。面接の交通費はもちろん、リクルートスーツまでともだちに借りる有様でした(笑)」。
ともかくも、それで、NTTに就職。映画の配給会社を経て、留学を果たし、すでに語ってもらったようにMBAも取得して帰国する。しかし、またしても金がなかった。

「クリスピー・クリーム・ドーナツ」の立ち上げに参加。

「留学先で、資金がショートしてしまって、母親から借りるんですね。で、それを返さなければいけないということもあって、帰国後すぐに、就職。縁があって、『クリスピー・クリーム・ドーナツ』の立ち上げに参加しました」。
肩書は部長だったが、人事もやれば、店舗の契約までやった。もちろん店舗営業にも立っていました。獅子奮迅の仕事ぶりだった。「在籍したのはわずか2年弱なんですが、私にとってはかなり濃密な時間でした。仕事はいわば社長業のようなもので濃密な仕事の時間を過ごさせていただきました」。
寝食を忘れるとはまさにこの頃の、李氏のことである。「NTTにもいたわけですが、何十万人もの組織ですよね。私は当時から、ベンチャー的な会社ではたらきたかったんです。その意味ではまさにぴったりでした。私自身が1年間で、採用したのは60名にのぼりました。大組織にすれば、たった60名ですが、ゼロからの60名ですからね。スケールは小さくても、当時の私たちからすれば大胆な数字だったんです」。自分の働きが直に結果として出るのはやりがいがありました。
当時は立ち上げメンバーとは真夜中まで、酒を酌み交わし、とことん議論も重ね、ものすごいスピードの中で走っていました。今現在は他社で代表取締役についているような面々との時間は貴重でした。
様々な刺激を受けることもありましたが、やがて向かう方向の違いが、鮮明になったのも事実でした。
そして、李氏は自身の思いを形にするために、クリスピー・クリーム・ドーナツを離れることになります。
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2017年5月16日火曜日

さあ、今期もいろいろと新たなチャレンジしていくぞ~!!

2017年で創業から25周年迎えましたが、今期もいろいろと新たなチャレンジしていきます。

その第1弾として5月下旬〜6月上旬、ある飲食企業様に画期的なことやります。
メディアの方とも打ち合わせし準備も完了しました。
どうなるかはわかりませんが、これがうまくいけば少しは飲食業界に貢献できるかもしれません。

また第2弾、第3弾と立て続けに仕掛けていきます。
いずれも人材採用に関係することですので、楽しみです。
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タイ料理の株式会社スパイスロード 代表取締役 木下修一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”タイ料理の株式会社スパイスロード 代表取締役 木下修一氏登場。
本文より~

新宿、育ち。

一人の人間と、こうも濃密に付き合えるものだろうか。株式会社スパイスロード、現社長、木下氏の話を聞いて、そう思った。「私が、創業者の故涌井会長と知り合ったのは、30年ちかく前です。当時は涌井会長も不良オヤジでね」と笑う。なんでも高田馬場をふらふらしていた時に、偶然、アルバイト募集の貼り紙をみつけたのが付き合いを始めるきっかけになったそうだ。
木下氏は、1968年9月4日生まれ。鹿児島県の出水市出身である。
「何もないところ」というのは、どちらかといえば少し大きくなって帰省した時の記憶によるものだろう。というのも6歳の頃に新宿に移り住んだため、それまでの記憶はまるでないと語っているからだ。鹿児島弁も、まるでしゃべれない。
「当時の新宿はまだ大都市じゃないんです。箱根山があって、夏はセミが獲り放題。まだ、空き地もふんだんあったんです」。1970年代前半の新宿は、まだワンパク小僧たちにとって、天国だったようだ。
「スポーツは、野球です。当時は、誰もが野球だった。私が住んでいた団地だけで、チームがいくつかあって。中学になっても、部活ではなく、そちらのチームで野球をしていました」。
野球少年。当時の、ごくふつうの選択。

ホームグラウンドは、渋谷。

高校は、渋谷にある都立高校に進んだ。渋谷の街をぶらぶらするのが、高校生、木下氏の日課になった。
「部活動もしていないですし、勉強もぜんぜんしない。校風は自由で、制服なんていうのもない(笑)」。お気に入りはリーバイスのジーパン、ヘインズのTシャツ。「高校生の時は、バイトもしました。マクドナルドが長かったですね。週2~3回で、月5万円程度でした」。もっともバイト代は、センター街に消えた。
「日・東・駒・専なら、なんとかなると思っていたんですが、ぜんぜんだめでした(笑)。まったく勉強していないんだから、そりゃそうです。1年浪人したんですが、結局、駿台トラベル専門学校に進みます」。
ご両親は、大学に行かせたかったそうだ。「小さな頃から、勉強しろと言われたことがない」と木下氏。「それでも、2人とも大学に行っていないんで、『息子には』という思いはあったようです」と語っている。

一枚の貼り紙。

専門学校で知り合った友人が、オーストラリアでの留学経験を語る。話を聞いて、憧れた。だから面接でも「いずれ留学を」と話していたそうだ。面接といっても、就職の話ではない。冒頭で、書いた、創業者の涌井氏と出会った時の話である。
「専門学校に進んでも、そう勉強するわけでもなく、いつも通り高田馬場をブラブラしている時、偶然、アルバイト募集の貼り紙が目に入るんです。お店もはじめてみたような。『こんな店あったっけ?』と思ってのぞいていると、トビラが開いて、『いらっしゃいませ』と(笑)」。
「その時、声をかけてくださったのは、涌井会長のお母さまだったんです。急にトビラが開いて、そんな風に言われたもんだから、とっさに「アルバイトの募集をみて」っていっちゃうんですよね。それがすべての始まりなんです」。
専門学校を卒業するまでアルバイトをした。「その頃、会長とはそう話をするでもなかったですね。夕方、私が出勤する頃にはもう、飲みに行かれていましたから(笑)」。不良オヤジの伝説は、この頃から始まる。
「卒業しても、就職はしませんでした。最初は面接で言った通り、留学するつもりだったんです。涌井会長からは『うちに来い』っていってもらっていたんですが。まだ20代でしょ。かりに就職するにしても、もっと恰好いい仕事があるはずだって思っていました。でも、結局、留学もせず、教材の販売会社に就職します」。
販売成績は上々だったそうだ。給料の大半は歩合給。月100万円を超えるトップセールスもいた。木下氏は、そこまではいかなかったが、それでも、かなりの額となった。しかし、「だんだんと良心の呵責というか(笑)。精神的にもきつくなって」と木下氏。半年くらいで、その会社を退職している。
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2017年5月9日火曜日

株式会社ムーヴ 代表取締役 江戸勇雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ムーヴ 代表取締役 江戸勇雄氏登場。
本文より~

7人兄妹。

江戸氏が生まれたのは、1972年。すでに兄姉が5人いた。1年経って、弟が生まれたからぜんぶで7人兄妹である。「長女とは12歳、離れています。全員B型っていうのがうちの特長です(笑)」。全員が、マイペース型。
決して裕福な家庭ではなかったそうだが「父母は兄妹7人をノビノビ育ててくれました」。
江戸家の男子3人は、小学校から空手の町道場に通っている。
「中学では剣道です。高校は枚方高校に進み、器械体操を始めます」。
武道の次に器械体操?
「いろいろやってみたかったんですね。器械体操を始めたのは、今までとは違った筋肉を動かしてみたかったからです」。
ともかく、にぎやか。兄妹が7人もいるのだから、そりゃ、そうだろう。兄と姉、そして、弟。兄妹たちにも育まれ、江戸氏の人格はかたちづくられる。

ユースホステルで、進学を決意。

「大学進学はあきらめていた」と江戸氏。「それで、高校卒業後、うちをでて岡山県にあるユースホステルで住み込みではたらきました。その時に知り合った人といっしょに小豆島にあるユースホステルに移ります。こちらでも住み込みバイトです」。
大学進学をあきらめていた江戸氏だったが、ユースホステルに来る学生たちが、一様に進学を勧めた。「大学には進んでおいたほうがいい」と。「それで。そうですね。意をけっして1年、勉強して、奈良にある奈良産業大学に進みました」。
弁護士になるべく、法学部法律学科を選択したものの、卒業後すぐに弁護士になれるわけもなく、司法試験も簡単に受からない。「弁護士事務所でバイトをしながら」という道も、金銭的に余裕のない江戸氏にとっては現実的ではなかったそうだ。弁護士をあきらめなければならなかったことが、人生でいちばんの挫折だったと語っている。

イベントや催事のムーヴ、誕生。


大学生でありながら、起業する人は少なくない。江戸氏もいわばその1人。しかし、独立までの経緯は少し複雑だ。「学生時代にイベント会社でアルバイトしていたんです。それが縁となって、私が、責任者となって大阪支店をつくることになったんです。支店長と言っても、経営という意味では実質、社長です。この会社が、今のうちの会社、ムーヴの前身です」。
ホームページの沿革には、平成9年5月に、「クラスター大阪支店」として事業を開始。平成14年2月、有限会社ムーヴ設立とある。
ちなみに、当時の事業は、イベント・催事などの工事業である。「イベントや催事を専門にやっている工事会社は、そう多くありません。規模で言えば、ムーヴはトップクラスです」。
運動会、竣工式、祭り的なものには、かならずムーヴの仕事がある。元祖浪花のお祭り男である。
「一つ一つは、ぜんぜんたいした額じゃないんですが、数がハンパない。事業を開始して約20年ですが、この間、ずっと右肩上がり。スタッフは、常時2000~3000名在籍しています」。
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2017年5月8日月曜日

父親の一周忌(2016.5.11死去)終えました。

無事、5月4日父親の一周忌(2016.5.11死去)終えました。
昨年亡くなったのですが、もっと時間経った気がしています。
近所の桜満開でした
樒(しきび)の花久々に見ました

2017年5月4日木曜日

明日父親の一周忌。

昨年5月11日、父親が亡くなり早1年が経とうとしている。
今日は明日の一周忌のため、主人なき実家に戻って来たが、今にも父親があるかなの様になにも変わっていない実家。

やはり生まれて育った家は落ち着く。
ココで私自身の基礎が作られた。

母親も父親ももうこの世にいないが、本当に生んでくれたことに感謝でいっぱい。

偶然にも祖父は84歳5ヶ月で他界、父親も84歳5ヶ月で他界。
ということは私も生きても84歳5ヶ月までかな。
そう考えると、人生あとジャスト30年か。
この人生、もうカウントダウン。
日々一生懸命生きねば…。