2017年5月16日火曜日

タイ料理の株式会社スパイスロード 代表取締役 木下修一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”タイ料理の株式会社スパイスロード 代表取締役 木下修一氏登場。
本文より~

新宿、育ち。

一人の人間と、こうも濃密に付き合えるものだろうか。株式会社スパイスロード、現社長、木下氏の話を聞いて、そう思った。「私が、創業者の故涌井会長と知り合ったのは、30年ちかく前です。当時は涌井会長も不良オヤジでね」と笑う。なんでも高田馬場をふらふらしていた時に、偶然、アルバイト募集の貼り紙をみつけたのが付き合いを始めるきっかけになったそうだ。
木下氏は、1968年9月4日生まれ。鹿児島県の出水市出身である。
「何もないところ」というのは、どちらかといえば少し大きくなって帰省した時の記憶によるものだろう。というのも6歳の頃に新宿に移り住んだため、それまでの記憶はまるでないと語っているからだ。鹿児島弁も、まるでしゃべれない。
「当時の新宿はまだ大都市じゃないんです。箱根山があって、夏はセミが獲り放題。まだ、空き地もふんだんあったんです」。1970年代前半の新宿は、まだワンパク小僧たちにとって、天国だったようだ。
「スポーツは、野球です。当時は、誰もが野球だった。私が住んでいた団地だけで、チームがいくつかあって。中学になっても、部活ではなく、そちらのチームで野球をしていました」。
野球少年。当時の、ごくふつうの選択。

ホームグラウンドは、渋谷。

高校は、渋谷にある都立高校に進んだ。渋谷の街をぶらぶらするのが、高校生、木下氏の日課になった。
「部活動もしていないですし、勉強もぜんぜんしない。校風は自由で、制服なんていうのもない(笑)」。お気に入りはリーバイスのジーパン、ヘインズのTシャツ。「高校生の時は、バイトもしました。マクドナルドが長かったですね。週2~3回で、月5万円程度でした」。もっともバイト代は、センター街に消えた。
「日・東・駒・専なら、なんとかなると思っていたんですが、ぜんぜんだめでした(笑)。まったく勉強していないんだから、そりゃそうです。1年浪人したんですが、結局、駿台トラベル専門学校に進みます」。
ご両親は、大学に行かせたかったそうだ。「小さな頃から、勉強しろと言われたことがない」と木下氏。「それでも、2人とも大学に行っていないんで、『息子には』という思いはあったようです」と語っている。

一枚の貼り紙。

専門学校で知り合った友人が、オーストラリアでの留学経験を語る。話を聞いて、憧れた。だから面接でも「いずれ留学を」と話していたそうだ。面接といっても、就職の話ではない。冒頭で、書いた、創業者の涌井氏と出会った時の話である。
「専門学校に進んでも、そう勉強するわけでもなく、いつも通り高田馬場をブラブラしている時、偶然、アルバイト募集の貼り紙が目に入るんです。お店もはじめてみたような。『こんな店あったっけ?』と思ってのぞいていると、トビラが開いて、『いらっしゃいませ』と(笑)」。
「その時、声をかけてくださったのは、涌井会長のお母さまだったんです。急にトビラが開いて、そんな風に言われたもんだから、とっさに「アルバイトの募集をみて」っていっちゃうんですよね。それがすべての始まりなんです」。
専門学校を卒業するまでアルバイトをした。「その頃、会長とはそう話をするでもなかったですね。夕方、私が出勤する頃にはもう、飲みに行かれていましたから(笑)」。不良オヤジの伝説は、この頃から始まる。
「卒業しても、就職はしませんでした。最初は面接で言った通り、留学するつもりだったんです。涌井会長からは『うちに来い』っていってもらっていたんですが。まだ20代でしょ。かりに就職するにしても、もっと恰好いい仕事があるはずだって思っていました。でも、結局、留学もせず、教材の販売会社に就職します」。
販売成績は上々だったそうだ。給料の大半は歩合給。月100万円を超えるトップセールスもいた。木下氏は、そこまではいかなかったが、それでも、かなりの額となった。しかし、「だんだんと良心の呵責というか(笑)。精神的にもきつくなって」と木下氏。半年くらいで、その会社を退職している。
・・・続き
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