本文より~
東京へ。
小学4年生の時に東京に引っ越した。それまでは佐賀県の多久にいた。「本籍は麻布十番です。でも、いろいろあって」。西田氏が生まれたのは1947年。戦後から2年経った時である。父親と母親は、中国から引揚船に紛れ込み帰国したそうだ。
「母は和歌山生まれなんですが、中国人なんです。だから、一時、中国に強制送還されていました。向こうで北京音楽大学を卒業して父と知り合います。祖父が商社を経営していまして、父が上海に赴任していた頃に知り合ったそうです」。
敗戦国の日本。2人だけではないが、たいていの人にとって、住みやすい国ではなかったはずだ。
「私たち家族は佐賀県の炭鉱の町で暮らし始めました。父が炭鉱ではたらきだしたんです。しかし、もともとちから仕事などしたことがない人でしたから1日はたらけば3日休むといった具合で、生活はけっして楽ではありませんでした。それで母が上京し、仕事を始めるんです」。
母親が就いた仕事は、歌手。TVに何度も出演された有名な方だそうだ。なんでもNHKの中国語の講師をされていたこともあるらしい。母のおかげで生活は安定したが、両親の間にはいつしか溝ができ、2人は別れることになる。
「母はとにかく忙しそうでしたね。当時はTVに出るより、地方巡業です。私も、弟だと偽って、いっしょに巡業したこともあるんです」。
なんでも結婚していることを黙っておられたそうだ。だから、弟。
「当時は、結婚していると言えない空気だったんです」と西田氏。ともかく、そうやって西田氏の東京生活がスタートする。
「勉強はできたほう」と西田氏。なかでも英語は得意で、中学校ではテストで98点以下を取ったことがないそうだ。高校は明治学院。英語、一つで突破した。
「私はそれから日大に進みます。スポーツはいろいろやっていまして。小学校では水泳、中学になってボクシングや剣道。剣道では2段を取って、高校では硬式野球。佐賀にいた時からわんぱく坊主で、ガキ大将です。体育会だったんですね。昔から(笑)」。
体育と英語。得意教科には、その2つが挙がる。「昔は中国語もできました。そうです。母から教わりました。兄弟は2人で、弟がいます」。
忙しい母に代わって、面倒をみてくれたのは、ばあやさんだ。明治生まれの彼女の躾は、容赦なかった。ただ、そのおかげで、西田氏の心の背骨はまっすぐに育った。
「母は和歌山生まれなんですが、中国人なんです。だから、一時、中国に強制送還されていました。向こうで北京音楽大学を卒業して父と知り合います。祖父が商社を経営していまして、父が上海に赴任していた頃に知り合ったそうです」。
敗戦国の日本。2人だけではないが、たいていの人にとって、住みやすい国ではなかったはずだ。
「私たち家族は佐賀県の炭鉱の町で暮らし始めました。父が炭鉱ではたらきだしたんです。しかし、もともとちから仕事などしたことがない人でしたから1日はたらけば3日休むといった具合で、生活はけっして楽ではありませんでした。それで母が上京し、仕事を始めるんです」。
母親が就いた仕事は、歌手。TVに何度も出演された有名な方だそうだ。なんでもNHKの中国語の講師をされていたこともあるらしい。母のおかげで生活は安定したが、両親の間にはいつしか溝ができ、2人は別れることになる。
「母はとにかく忙しそうでしたね。当時はTVに出るより、地方巡業です。私も、弟だと偽って、いっしょに巡業したこともあるんです」。
なんでも結婚していることを黙っておられたそうだ。だから、弟。
「当時は、結婚していると言えない空気だったんです」と西田氏。ともかく、そうやって西田氏の東京生活がスタートする。
「勉強はできたほう」と西田氏。なかでも英語は得意で、中学校ではテストで98点以下を取ったことがないそうだ。高校は明治学院。英語、一つで突破した。
「私はそれから日大に進みます。スポーツはいろいろやっていまして。小学校では水泳、中学になってボクシングや剣道。剣道では2段を取って、高校では硬式野球。佐賀にいた時からわんぱく坊主で、ガキ大将です。体育会だったんですね。昔から(笑)」。
体育と英語。得意教科には、その2つが挙がる。「昔は中国語もできました。そうです。母から教わりました。兄弟は2人で、弟がいます」。
忙しい母に代わって、面倒をみてくれたのは、ばあやさんだ。明治生まれの彼女の躾は、容赦なかった。ただ、そのおかげで、西田氏の心の背骨はまっすぐに育った。
大学中退。飲食の道へ。
起業しようと思ったのはいつ頃ですか? という質問に西田氏は「高校の時からかな」と答えている。それでも母に懇願され、大学だけはと日大に進んだ。しかし、大学2年時に退学してしまう。
「私は中国人と日本人のハーフなんです」。卒業したら就職させてあげる、と超大手商社の名を挙げる知人もいた。「だけどハーフでしょ。うまくいっても課長止まり。それじゃハリがない。だから起業という道を選択したんです。飲食で独立したのは、アルバイト経験もあったからです。しかし、何の店をするかは、決めていませんでした」。
友人にフランスレストランを経営するオーナーシェフの二代目がいた。「彼にお願いして、お父さんに合わせてもらって、アドバイスをもらったんです。すると『フレンチも、和食も、20年、25年とかかる』というんですね。そんな悠長なことはできないということで、じゃぁ『もつ』はどうだということになったんです」。
当時、もつ料理店はけっして多くない。その少ないなかから、西田氏は新橋にある「もつ料理店」を選び、修業を開始する。
修業期間は1年半。ただし、ふつうの3年、5年に匹敵する濃厚さだった。
「私は中国人と日本人のハーフなんです」。卒業したら就職させてあげる、と超大手商社の名を挙げる知人もいた。「だけどハーフでしょ。うまくいっても課長止まり。それじゃハリがない。だから起業という道を選択したんです。飲食で独立したのは、アルバイト経験もあったからです。しかし、何の店をするかは、決めていませんでした」。
友人にフランスレストランを経営するオーナーシェフの二代目がいた。「彼にお願いして、お父さんに合わせてもらって、アドバイスをもらったんです。すると『フレンチも、和食も、20年、25年とかかる』というんですね。そんな悠長なことはできないということで、じゃぁ『もつ』はどうだということになったんです」。
当時、もつ料理店はけっして多くない。その少ないなかから、西田氏は新橋にある「もつ料理店」を選び、修業を開始する。
修業期間は1年半。ただし、ふつうの3年、5年に匹敵する濃厚さだった。
・・・続き
0 件のコメント:
コメントを投稿