2017年6月27日火曜日

株式会社ぼてこアンドぼてじゅう 代表取締役社長 稲垣龍史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ぼてこアンドぼてじゅう 代表取締役社長 稲垣龍史氏登場。
本文より~

大阪には、旨いお好み焼がある。

「大阪には、旨いお好み焼がある」。父の一言が、創業の始まりだった。
「父はもともと大阪人で、大阪のお好み焼の味を東京に広めようと旅立ったそうです。しかし、名古屋で途中下車してしまい、定住するようになり、やりたかったお好み焼の店を始めます。始めると言っても、父は建築関係の仕事を持っていましたので、母に修業に行かせるんです。その修業先が「ぼてぢゅう」さんでした」。
当時は、FCという言葉もない。
母は当時の「ぼてぢゅう」の大将から簡単な了解を得て、愛知県の安城市と刈谷市に2つお店を開いた。だから、社名にその由来が残っている。
「創業当時、うちのようなレストラン形式のしっかりしたお好み焼店はなかったんですね。それもあって、ヒットした。私が生まれた頃には、すでにお店があったもんですから、母ももちろん父もいそがしい。だから、家族で食卓を囲んだ記憶はほとんどないんです」。
人気店はとにかくいそがしい。父も副社長として経営に参加するようになる。
「とにかく、父はお好み焼が好きだったんでしょう。店を広げたいという思いもあったし、おまけに人がいいから、相手が素人にちかくても『のれん』をわけてしまう。それで、次々、うちの、いまでいうFC店がオープンしていきました」。

お好み焼店の経営まで投機的だったバブル時代。

「いい車に乗っている」。「いい家に住んでいる」。当時、<お好み焼「ぼてこ」>のオーナーはそういう風に観られていた。敷居は低い。オレにもできるんじゃないか、とオーナー希望者が殺到する。たしかに、やれば、ヒットした。だから、希望者はあとをたたなかった。
「店舗を増やすことが、いつしか父のミッションになっていました。大好きな店ですから、父は単純に、希望者が多いことに喜んでいたんだと思います」。
しかし、当然ながら、経営はそう簡単ではない。
「バブル期なると、単に『儲かるなら』という、投機的な発想で加盟されるオーナーさんが増えてきました。バブルの頃はすべてが右肩上がり。うちの会社も最盛期で50店舗くらいにまでなったと思います。そして、バブルが弾け、それまで眠っていた問題点が表面化するんです」。

逆風。

「儲かるよ」。人のいい父は、よかれと思って人を誘った。しかし、それがミッションになった頃の父は、本人も気づかぬ間に行きすぎたトークをするようになっていたのかもしれない。
あるオーナーが訴え、裁判に負けた。多額の支払いが命じられた。
「あの頃は、うちだけじゃなく、いろいろな問題が表面化してきた時代でした。FCビジネスにも逆風が吹き、『本部が悪い』と。裁判でも相手方に有利な判決がでるような、そんな社会的な風潮だったんです」。
判決もそうだが、それ以上に驚いたのは銀行が、この判決によって一斉にそっぽを向いたことだ。
「貸し付けはもちろん、貸し剥がしです。とにかく、とっとと返してくれと。そういう状況になっても店が好調だったもんですから助かったんですが、お金が貸してもらえなくなると出店もできません」。
創業以来、初の大ピンチでもある。この時、稲垣氏はすでに会社に入り、スーパーバイザーという重要な役割を果たしていた。
・・・続き

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