2017年7月27日木曜日

祝 600連載達成!! 株式会社永明 代表取締役 呉 永錫(オ ヨンソク)氏登場。

祝 飲食の戦士たちが600連載しました!!

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「妻家房」の株式会社永明 代表取締役 呉 永錫(オ ヨンソク)氏登場。

本文より~

ファッションデザイナーに。思いは日本に向かった。

呉氏が来日したのは、1983年のこと。年齢は30歳を超えていたし、すでに結婚もしていた。それでも呉氏は、文化服装学院の門を叩いた。
「子どもの頃からファッションが好きだった」と呉氏はいう。女きょうだいが多く、姉の影響も少なからずあったそうだ。「私の実家は果樹園を経営していて、裕福でした」。きょうだいは6人。呉氏は長男だが、上に姉が3人いる。
「私が生まれたのは1952年です。いちばん上の姉は、日本で生まれています」。父親も、母親も、日本で暮らしたことがあるという。そういう意味では、呉氏と日本は昔からつながっている。
「法律や政治に関心があって、実は、そっちの道に進みたかったんです。ただ、大学には合格したんですが、政治や法律を勉強する学科には進めなかった。だから、入学はしたものの、だんだん興味を失くして、半年で辞めます。辞めて、ソウルに行って、ファッションの勉強をするんです」。
アンドレ・キムというファッションデザイナーに憧れていたそうだ。アンドレ・キムは、韓国を代表するファッションデザイナーである。そして、1983年、31歳の時にファッションを勉強するために来日する。当時、日本と韓国は、近 くにあって、遠き国だった。
「政治的な問題も含め、日本に行くことを勧める人はいなかったですね。むしろ、反対されるような時代でした。しかし、私は、日本に行って立体裁断を勉強したかったんです」。
周りは反対したが、日本で暮らしたことがある父と母は反対しなかった。それが、救いだった。そして、来日した呉氏は、アルバイトをしながら、文化服装学院に通い、ファッションの勉強をつづけた。

35歳。京王百貨店での研修。一人だけ親父に近い生徒が混じっている。

「やかんの意味がわからなかった」と呉氏は笑う。「来日して、焼肉店でアルバイトを始めた頃の話です。上司が『やかんを取ってくれ』っていうんですね。でも、学校でも『やかん』なんて言葉は習わない。だから、チンプンカンプンで(笑)」。
文化というか、風習も違った。「のちに縁あって、京王百貨店で勤務するんですが、お歳暮やお中元、こんな風習、韓国にはぜんぜんないんです。だから、わかんないんですね」。
言葉の違いは、勉強することで埋められたが、文化や風習の違いはなかなか埋められない。ただ、人はおなじ。観る人は、観ている。
「文化服装学院時代ですね。研修があって、私を含め4人の生徒が、京王百貨店で3週間の研修を受けたんです」。当時、呉氏は、35歳。残り3人の生徒は20歳である。「どうみても、へんでしょ(笑)」。ところが、1人だけ明らかに年齢が違う呉氏に、当時の部長の目がとまるのである。
「この部長との出会いは、私にとってはいちばん大きな転機でした。彼は、私がファッションデザイナーになりたくて来日したことを知ると、展示会に連れて行ってくれたり、ファッションショーにも連れて行ってくれたりしました」。
その縁もあり、呉氏は、京王百貨店に就職することにもなる。

韓国の百貨店の幹部が、呉氏の下を日参する。

「京王百貨店に入社して、ファッションコーディネーターとして頑張るわけですが、いつの間にか服づくりより、流通に関心を持つようになりました」。
韓国の有名な百貨店の幹部が、呉氏を訪れるようになったのも、この頃。「たくさんの方がおいでになりました。まだ、韓国の百貨店にはマーチャンダイジングという言葉もなかったし、ディスプレイという概念もなかったんです。日本の有名な百貨店で、同胞の韓国人が、そういう仕事をしている。それを聞きつけて、私の下にいらっしゃいました」。
韓国を代表する、いくつかの百貨店から誘われた。ノウハウを持って帰るより、呉氏を連れて帰ったほうが手っ取り早い、という選択だ。呉氏自身も、帰国したいという思いが強かったそうだ。
「日本で学んだものを、韓国に持ち帰る。私にとっては、仕事自体もそうですが、とても意義があることだと思っていたんです」。ところが反対派が現れる。「娘2人が、帰りたくないっていうんです。もう、びっくりです(笑)」。
1992年は、バブルが弾けた年として記憶している人が多い。呉氏もその1人である。「ファッションがだめになった」、と言っている。この時、京王百貨店が、店内を改装して、つぎの一手を仕掛ける。これが、呉氏を日本に留めるきっかけともなる。

部長が、奥様に声をかける。「お店をやりませんか」と。

さて、時間を少しさかのぼり、呉氏いわく、「長男1歳の誕生日の話」である。
「あれは、1989年です。息子の誕生日に部長や婦人服のスタッフを招待し、パーティを開いたんです。料理は妻のお手製です。彼女は、私がいうのもなんですが、料理がかなり上手いんです。ただ、韓国の家庭料理ですからね。チヂミやはるさめや。当時、韓国料理といえば、焼肉。日本人はそれしか知らないから、部長も、スタッフも目を丸くするんです。こんな料理、食べたことがないって(笑)」。
この時、部長は、よほど驚かれたんだろう。バブルが弾け、京王百貨店がリニューアルする時、呉氏の奥様に声をかける。「お店をやりませんか」と。
「当時、部長は常務になっておられたんですね。そして、『これからは、ナンバーワンではなく、オンリーワンの時代だ』と。韓国の家庭料理は、そういうトレンドにぴったりだったんでしょうね。だって、ほかになかったから。ただ、私は正直、やりたくなかった。早く、韓国に帰りたかった。でも、妻はヤル気満々です(笑)」。
「やりたくない」といいつつ、呉氏は、人生最大のプレゼンテーションをこの時、行っている。「ブランドをつくる際には、徹底的にリサーチをかけ、マーケットを分析し、それをもとにプレゼンテーションを行います。その手法を採り入れたんです。たかが一つのキムチショップに、です」。
いまでも、その時の資料は残っている。どの百貨店が、どのようなキムチを扱っているか、詳細な分析があり、そのうえで、オンリーワンとなるべき「キムチ像」を見事に浮かび上がらせている。
「たかだかキムチショップ」と呉氏は笑うが、これこそ韓国の伝統と日本の食文化が交流するきっかけとなる。そのきっかけをつくった小さな店は、1993年、四谷3丁目で産声を上げた。
この店、妻家房は、のちにさまざまな百貨店にも出店することになり、現在の「妻家房」の本店となる。
・・・続き

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2017年7月25日火曜日

7月25日発行の日刊ゲンダイに「ブルームダイニングサービス」加藤弘康社長が掲載されました。

7月25日発行の日刊ゲンダイ『社長の私生活』に、がブリチキンで有名な「株式会社ブルームダイニングサービス」加藤弘康社長の記事が掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

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2017年7月24日月曜日

さらに営業マン1人、採用計画中!!

下半期(9月以降)、上半期に続きもうひとり20代の営業マンを採る予定です。
5人衆のなかにもうひとり営業マンを加え、さら組織力を強化したいと思います。
(東京タワーをバックに事務所前にて)

2017年7月11日火曜日

2017.7.8 富士山頂にてご来光(昨年のリベンジ出来ました!!)

2017.7.7~8より 富士登山し、無事山頂到着。
素晴らしいご来光を大事な仲間5人で拝めました。
昨年のリベンジ出来ました(涙)
(2017.7.8 富士山頂より見事なご来光)
(大事な仲間5人でご来光を)
(山頂・お鉢巡りは通行止めでした)
(富士山頂より)
(まだ残雪が・・)
(5合目より)

中里有限会社 代表取締役 中里浩士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”中里有限会社 代表取締役 中里浩士氏登場。
本文より~

全寮制高校の日々。

「イチ、ニィ、サン、シィ、ゴ」。朝は決まって点呼から始まった。全寮制の高校秋川高等学校に進んだ中里氏は高校3年間、寮生活を送っている。消灯は夜10時。自宅に帰るのは、月2回と決められていた。
「全寮制の学校に進んだのは、私の人生のなかで大きな意味を持ちます。協調性が、ぜんぜんなかった私が、3年時には生徒会長ですから。だいたい想像いただけると思います(笑)」。
生徒数は1学年240人。しかし、卒業するのは160~180人だったそうだ。どういう生徒たちがいたか、こちらもほぼ想像できる。
「この学校で学んだことは、人は1人じゃ生きていけないということです」。
1年生の時にあてがわれたのは、8人部屋。当然、いままで顔も知らなかった同居人たちである。そのなかで、暮らすにはたしかに協調性が重要だった。
「顔をみることで、相手の気持ちを推し量る感性や洞察力など、ある意味、強調性とともにリーダー的な気質も、この3年間で育まれました」。たしかに、中里氏だけではなく、卒業生のなかにはリーダーシップに優れ、のちに起業した人が多いそうだ。
むろん、まだ高校生。派閥も生まれ、ささいなことで激突することもあった。そのなかで、中里氏は一目置かれていたのではないだろうか。喧嘩で負けたことはないそうだ。
これが、中里氏の高校時代の話。では、なぜ、全寮制の高校に進学したのか、時間をさかのぼってみよう。

バスケに夢中。

中里氏が、生まれたのは1972年。中野区生まれである。万国博覧会が開催されて2年。日本が近代化して行く時でもあった。「父親はいろんな商売をしていたようです。でも、なかなかこれといったものがなく、私が小学5年生の時には、借金で首が回らなくなりました」。
父親は、それからタクシー乗務員となり、母親も外にはたらきにでた。
「四畳半と六畳の2部屋です。その2部屋で親子4人が暮らしていました」。
中里氏は「ウサギ小屋」と表現する。
「私には5つ下の弟がいるんですが、母がいないもんだから、私が味噌汁やおにぎりをつくっていました。そういう生活です」。
中学になるとバスケットボールを始める。高校でもつづけたが、最終的には部員3人になってしまい、試合もできなかたそうだ。
「バスケットボールはけっこう真剣でした。もともと運動神経はいいほうでしたから。高校3年の時にはキャプテンになるんですが、そもそも部員3人です。部長、副部長、そしてキャプテンの私でした(笑)」。
なんでも、顧問になってくれる先生がいなかったそうだ。
「私らの少しうえに問題児が多くて、なり手がなかったんです(笑)」。社会人に交じって、練習に参加させてもらっていたのも、この時。ふだんは、けっして真面目とはいえなかったが、ことバスケになれば話は別だ。
ところで、どうして全寮制だったのか、と質問をぶつけてみた。
「一つはバスケですね。そういうのがつよい学校に行くという選択肢もなかったわけではありません。しかし、当時の私はどこかで家を出たいという思いがあったんでしょう。親元を離れて、一人で暮らす。つまり、寮生活にチャレンジしたかった、というのが全寮制を選択した理由です」。
そして、冒頭で書いた点呼の日々が始まる。

獣医をあきらめ、「社長になる」と決意。

「なかには5年もいた人がいましたが、私は無事3年で卒業します。実は、動物が大好きで、当時は獣医になろうと思っていました」。実際、3年になって猛勉強を始め、大学も受験する。しかし、それほど甘くはなかった。
「翌年、予備校に行くんですが、寮生活から解放されたわけでしょ。それまでたまっていたうっ憤まで解放されちゃって(笑)」。夏休みが終わる頃には、受験生にかかわらず真っ黒に日焼けしていたらしい。「親にね。『後期の授業料はどうすんだ』って言われて。『いや、もういいです。ありがとうございました』って(笑)」。
実は中里氏、獣医のほかにもう一つ目指すものがあった。消去法的にそちらが残った。それが「社長」である。「なんとなく、かっこいいなって。まぁ、そんな感じです。ただ、いま思えば、親父から受け継いだDNAが騒ぎ出したのかもしれません」。
しかし、こちらもそう甘くない。むしろ、獣医のほうが手に届きやすい目標のような気がする。むろん、社長業に学歴は不要だ。
・・・続き

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2017年7月4日火曜日

株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏登場。
本文より~

22歳、鎌倉にて創業。

「小町通の入り口の地下だね」と、荒井氏は語りだす。「22歳の時だから、もう47年前になる。あの頃はananって雑誌がブームでね。鎌倉もすごいことになっていた。えぇ、賑わってました。でも、そのおかげでお金の重さを忘れかけた時もあったほどです」。
JR鎌倉駅を降りれば、鶴岡八幡宮につづく道がある。その道に平行して走る細い道が小町通である。「当時は、景気も良かったし、だいたい今みたいに店がいっぱいあったわけじゃなかったからね」。
鎌倉に行って、江ノ電に乗って。
たしかに、当時、鎌倉は憧れですらあった。

ヨットハーバー、別荘と違う、もう一つの葉山。

「もともと私は葉山の生まれなんです。9人兄弟の末っ子です。葉山といっても、うちは海ではなく、山のほうで農家をしていました。米に野菜。私はいちばん下でしょ。兄たちは何だかんだと理由をつけて遊びに行ってしまうもんだから、いつも私が畑仕事をしていました」。
「葉山からは、遠くは富士山まで望むことができるんです。山と言いましたが、海まで2キロ程度。そういう意味では自然に恵まれた、風光明媚なところです。今じゃ田んぼもぜんぜんないし、農家をしている人も少なくなってしまいましたが、当時は田んぼと畑ばかりで。ガスも水道もなかった。ガスは炭でしょ。水道は井戸ですよ。うちは牛も、ヤギも飼っていました」。
しかし、田舎という、今のイメージでひとくくりにはできないようだ。「私らの代はベビーブームです。小学校は53人のクラスが13組まであった。生徒が多いもんだから、それなりに広い運動場なのに、狭くて、狭くて(笑)」。
「勉強はできなかったが、スポーツはできました。とくに野球はうまかった。遠投もいちばんだったからね。学校のいちばんです」。
荒井氏が、中学に上がる頃にはいちばん上の姉はすでに30代の半ばを超えている。「姉の息子と私は2歳半しか離れていないんです(笑)」。日本中に子どもたちが溢れていた。
荒井家も親戚を含め、とにかく大家族だった。

勉強をしたくても、できない大学?

「今の人にはぴんとこないだろうけど、私らの頃には学生運動っていうのがあってね。大学も閉鎖。やりたくても勉強一つできやしなかったんです」。
学生運動というのは、学生たちが行う社会運動のことである。代表的なものは、1960年の安保闘争、1968年~1970年に亘る全共闘運動・大学紛争を挙げられる。荒井氏がいうように、打ち手のない大学は、大学そのものを閉鎖した。
荒井氏が進んだのは、明治大学だったが、紛争の波は、そちらにも押し寄せたのだろう。「このままでは、まっとうな勉強もできない」と3年生の時に中退する。「私は英語が好きでね。でも、それも勉強できないでしょ。意味ないなぁって」。

「政治に関心がなかったわけじゃない。でも、学生たちが行う運動にはまったく興味がわきませんでした」。しかし、そのあおりで、一浪までして入学した大学を辞めることになる。
「うん、あれはまさに私のターニングポイントですね。あのまま大学にいたら、また違った人生になっていたかもしれないからね」。
「ともかく、当時の私は、英語に興味があったから最初は貿易の会社を興そうと思っていたんです。だいたい28歳くらいかな。それくらいで、できればいいかな、と。ただ、貿易なんてやるには、かなりのお金がいるでしょ。それで、あんまりしたくなかったんだけど、姉や兄が飲食店をやっていたのをみていたからね。飲食やって、お金を貯めようって思ったんです。いったん、入ると抜けられない世界なんて知らなかったから(笑)」。
・・・続き
株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏

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