in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社グルメブランズカンパニー 代表取締役社長 石井克二氏登場。
本文より~
野球、水泳、そしてボート。
東京、札幌、門司、広島、東京。今回ご登場いただく、株式会社グルメブランズカンパニーの社長 石井克二氏の足跡をトレースすれば4つの街が登場する。
小学6年生になるまで過ごした東京。小学6年生から高校1年まで暮らした札幌。大学に進学するまで生活した北九州市門司。そして大学4年を過ごした広島。
「父の仕事の関係です。父はサッポロビールで勤務していました。東京から札幌、門司と転々としました。中学までは野球。高校では水泳、大学ではボート部です」。
街がかわるたびに、スポーツも異なった。「大学ではもう気楽なサークルでいいと思っていたんです。ところがボート部の勧誘にコロリとだまされてしまって」。
「夏休みも、冬休みもある」が誘い文句だった。「それならサークルよりいいかって入部したんですが、入ってみれば休みは、年間5日だけ。正月も2日から練習です(笑)」。
当時の話を少し伺った。
「海での練習は、早朝か、夕方以降です。波が静かな時がいいんです。うちの大学は4人で漕ぐ種目にチャレンジしていました。漕ぎ手4人と、舵手1人です。ボートっていうのは、乗っているだけでバランスを取るのが難しいんです。それを4人で漕ぐわけでしょ。チームワークも大事になってきます。腕力も、体力もいります。私らも、いやというほどからだをいじめ抜きました。でも、たとえば六大学の選手たちと比較すると体格からして子どもと大人くらい違う。私らは170センチ、70キロくらい。でも、向こうさんは190センチ、100キロですからね。そういうのがゴロゴロいるわけですから、そりゃかないません」。
なんでも、距離は2000メートルもあるそうだ。それをおよそ7分で駆け抜ける。「漕ぎだすでしょ。1分もすれば止めたくなります。それほどハードなスポーツなんです」。
一時、膝を悪くし、部を離れるが、卒業するまで仲間とちからを合わせてボートを漕ぎまくった。それが広島時代の思い出。社会人になるまでの、足跡の集大成ともいえる。
サッポロライオンに就職。
「父に勧められてサッポロライオンに入社します。これが昭和63年4月のことです。いわば、縁故入社。最初は『石井』ではなく『九州支店長の息子』と呼ばれていました(笑)」。
「サッポロライオン」は、いうまでもなく「サッポロビール」の関連会社である。「サッポロビール」が銀座につくった日本初のビヤホール「恵比壽ビヤホール」は、「サッポロライオン」の創業を意味していると言っていい。
「当時、大卒はひと握りですから、私たち大卒は全員、幹部候補生です。私が最初に配属されたのは新宿センタービルにあるビヤレストランでした」。
飲食。石井氏が就職した昭和63年当時、飲食はいまだ「水商売」という言葉でひとくくりにされていた。「大学まで出て、どうして飲食に」と首を傾げる人もいた時代である。
たしかに、好きで飲食を選択する学生もいたが、石井氏のように、ほかに行くところがなく、ただ何となく選択したという人も少なくなかったはずだ。ただ、前例の少ない、ある意味勇気ある選択をした当時の大学生たちが、いまの飲食をつくっていると思うと感慨深い。
「飲食の経験は学生時代に『ちゃんぽんの店』でバイトをしたくらいです。別段、飲食に進む気もなかったものですから、ぜんぜんちからも入んなくって。実は、半年で寮も追い出されてしまうんです」。
ビヤホール。仕事が終わるのは深夜ちかく。そこから酒を酌み交わす。「あの頃は、毎晩、歌舞伎町に繰り出していました。そんな生活をしていたから、半年で追い出されてしまうんです」。
祖父の住まいが東京にあったから、しばらく厄介になった。しかし、深夜に帰宅する生活は、一般の人たちとリズムがまったく異なる。
「後輩に住まいをみつけてもらって、一人暮らしをはじめます。店も新宿から銀座に移って。そう、それからです。飲食にどっぷり漬かり始めるのは…」。
日本最古のビヤホールで、教えられたのは全身全霊のちから。
銀座七丁目に、現存する日本最古のビヤホールがある。
「1階から6階まであって、規模・売上はもちろんですが、ともかくサッポロライオンのなかでも最重要なビヤレストランです。私が29歳の時、ちょうど構造改革が進み、若返りが図られました。サッポロライオンを象徴する、このビヤホールでも、それまでの体制が見直され、支配人3人体制から総支配人1人、副支配人3人となり、そのうちの1人に選ばれたんです」。
むろん、親の七光りではない。いまだ飲食の仕事にハマってはいなかったが、石井氏は労働組合に専従するなど、さまざまな経験を積んでいた。幹部候補というのは、間違いではなかったのだろう。
「たしかに労働組合も経験して、全国の店を回り、20代後半にして会社に知らない人がいないくらいになりました。だからといって、飲食の仕事に心底、目覚めたわけじゃありません。私に飲食の醍醐味を教えてくれたのは、現存する日本最古のビヤホール『ビヤホールライオン銀座七丁目店』であり、私と同時期に若くして、このビヤホールの総支配人になられた方なんです」。
いまも親交がある、という。「総支配人がいたから、いまの私があるといっていい」と石井氏はいう。「これだけ私の人生に大きく影響した人はほかにいません。なんと言ったらいいんでしょう。彼は、全力なんです。全力でお客様と向き合っておられました」。
夏になれば、ビヤホールも、ビアガーデンも人で溢れる。スタッフだけでも500人を超える時があったそうだ。それだけの人たちをコントロールする。醍醐味も石井氏を魅了した。
「総支配人は『いつもありがとうございます』と大きな声で、お客様を迎えられます。オーバーアクションなんです。でも、イヤミがない。だから、総支配人のファンがどんどん増えていきます。みなさんどう思われているかわかりませんが、銀座はいまも下町で、とても人情味がある街なんです。歴史のある、うちの店は、そのコミュニティのなかにしっかり組み込まれていました。総支配人は、そのコミュニティのなかで、うちの店が果たすべき役割を見事に演じておられたのだと思います」。
磁力のようなものだろう。「ビヤホールライオン銀座七丁目店」は、銀座で暮らす人たちにとってもかけがえのない店だったにちがいない。
総支配人の薫風を受け、やがて石井氏は、この店で総支配人の片腕ともいえる支配人代理となる。
つぎにめざすのは、支配人の席である。
「私は、同期のなかでいちばん支配人になるのが遅かったんです。でも、それだけ時間をかけて育ててもらったわけで、とっても意味のある経験をたくさん積ませていただいたと思います。
石井氏が支配人になったのは入社して10年目。初めて責任者として乗り込んだのは、田町にある小さなビヤレストランだった。