2017年8月1日火曜日

株式会社福しん 代表取締役社長 高橋 順氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社福しん 代表取締役社長 高橋 順氏登場。
本文より~

クリスマス3年分のプレゼント。

高橋は1973年1月、東京に生まれる。姉は一人いたが、8歳違い。「互いに一人っ子状態だったね」といまではそう語り合うそうだ。高橋が生まれた頃には、父もまだ1店舗の店主にすぎなかったが、すぐに出店を重ね、「物心がついた頃には3店舗になっていた」そうだ。父はもちろん母も仕事に追われ、家にいることが少ない。幼稚園が終わると、高橋は友人の家で遊び、母が迎えにくるという生活が続いた。「PC好き」のスイッチが入ったのは、あるクリスマス。「3年分だ」とサンタが、大きな包みを抱えて帰ってきた。パーソナルコンピュータだった。当時はまだIBMが主流で、OSもUNIXに限られていたのではなかったか。いずれにせよ、小学生には扱い切れない代物だったはずだ。ところが高橋は独学で当時の主要言語であるベーシックを習得し、プログラミングを組み始めた。一人で家にいることが多かったが、その時間がプログラミングで埋め尽くされていくことになる。後に高橋は、「パソコン通信」の大手企業からプロデューサー的な仕事を請け負うほどになるのだが、その実力は、小学生時代から育まれたといっていいだろう。むろん、ロジカルな思考も、プログラミングと戦うことで養われたはずだ。

経理専門学校を卒業し、上場子会社に。その後、パチスロと戦うシビアなプロの世界へ。

中学になるとさらにPC熱は加速する。お年玉を貯め、新たなPCを購入。ゲームを開発するなどして楽しんだ。その頃「福しん」は6店舗になっている。高校生の時の記憶で一番印象に残っているのは「文化祭の委員長を務めたこと」だという。大学祭に匹敵するような、1週間にわたるロングランの文化祭を高橋はきっちり取りまとめた。当時、高橋は「福しん」でアルバイトを始めているが、「将来、事業を引き継ぐ気持ちはなかった」ようだ。その後、経理の専門学校に進み、2年間勉強した後、ある建設会社に入社。上場企業の関連会社だっただけに、厳密な決算を教わり、学べることも少なくなかった。ただ、建設会社につきものの、独自の「商習慣」には、なかなかついていくことができなかった。社会には、表もあれば、たしかに裏もあった。24歳で高橋は退職。その後、1年間、パチンコ店で勤務し、今度は「パチスロ」のプロになった。シビアな世界だ。高橋は、「強い信念で勝てると思い、冷静に打ち続けることを学んだ」といっている。ちなみに「スロットマシン」は、あらかじめ設定が数段階に分かれているそうだ。むろん客は知ることができないのだが、決まった絵柄の出現頻度から、割り出すことができるという。これが勝ち負けのカギを握る。いったん「これだ」と思った台があれば、後は根気と信念の勝負。予測の「精度」を限りなく高め、「信念」で揺れる心を抑えきる。小さなマシンとの戦いだが、それこそ弱い自己との戦いでもあったようだ。高橋に、休みの日は何をしているのかと聞いた。すると「パチスロですかね」という答え。「こちらは趣味でやっているから、楽しめた」という。プロの厳しさがこの一言からも伺えた。ちなみに年収は数百万円にもなったという。そのような生活をしている時、父から「『福しん』に入るように」と頼まれた。社長含みなら断っていたかもしれないが、上場を控え、組織の内部を固めるためと言われ快諾した。だがこれが、とんでもない話だった。
・・・続き

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